頼りにならない男
北風 嵐
第1話
チャイニーズレストランとポルノショップばかりが立ち並ぶ、歓楽街の裏路地に、小さなみすぼらしいベトナム料理店がある。その隣に今にも崩れそうなレンガ造りの、五階建てのアパートメントが建っていて、その生温かく、湿気を帯びた半地下に、俺の住む部屋がある。
部屋の壁は、歴代の住人が思い思いの色にペンキで塗り替えてきたようで、今はコーラル・ピンクに塗りつぶされている。別に俺がそうしたのではなく、その前に住んでいたという、キャバレーのダンサーの趣味だ。
やっかいなのはその色ではなく、塗り重ねたペンキと壁の間にも、部屋の湿気ってやつはどうやら溜まって行くらしく、それらは小さな水泡のようになって、ニキビ面の女学生の額のように、ピンク色の壁の所々に、塗装を押して浮き上がってくる。換気扇の無い、狭いワンルームの中に、小さなキッチン・ストーブが組み込まれ、あとは流れの悪いユニットバスという、簡単な間取りの部屋の中、特に湿度と温度のこもりやすいシンクの周辺は、その水泡が見苦しく破れていて、そこから過去の黄色いペンキが、膿のように見えている。
そろそろ俺も、この壁を塗り替えなくてはいけない頃かもしれない。億劫だ。しかしつまり、随分ここに長居しているということだ。
ワンルームのリビング兼ベッドルームには、路地に面した側に一つだけ、黒の鉄格子付きの窓がある。半地下ゆえに、部屋のソファーに腰掛けた時の、目の位置より少し上、地面が始まるすれすれの所がその窓の底辺だ。まるで牢獄のようとも言える。空なんて覗いても見えない。高さ50センチで幅が2メートル程の横長の二重窓。ガラスには泥が跳ね、いつも通りを行き交う人々の膝から下だけが見えていて、さながらモダンアートか何かのようだ。これも慣れればむしろ落ち着く。余計な情報はいらない。挑発的な音を立てる、先の尖ったハイヒールか、くたびれて、一度も磨かれたことの無いような気の毒な革靴か、はたまた足早に去って行く、潔癖症のように染み一つ無いスニーカーか。それを見れば、膝から上に着ている服や、持っている鞄、髪形、年齢、それから財布の中身や性格まで、おおよそ分かるというものだ。
その窓辺に置き去られた新聞を、俺はいつものように手に取って広げる。中から、薄茶色のソーダクラッカーの屑がこぼれ、ページの右端には薄紫の染みがあり、鼻を寄せると、かすかに酸化した赤ワインの匂いがした。それを嗅いだら、俺も無性にワインが飲みたくなった。しかし生憎、このドブ鼠の巣のような部屋には、安物のバーボンしか置いていない。仕方なく、小さなキャビネットからグラスを取り出し、そこに氷は無しで酒を注ぎ、それから冷蔵庫を開いてオリーブの塩漬けと、食べかけのまま放り込んで、木っ端のように固くなってしまったビーフジャーキーを取り出した。そしてそれらをトレー代わりの薄いハードカバーのヌード写真集の上に載せ、倒さないようにベッドに置くと、色と形の様々な枕を積み上げて、そこに埋もれるようにもたれた。
枕の一つから、昨日の女の髪の匂いが漂ってくる。フランス製の、『ECLAT D'ARPEGE(エクラドゥアルぺージュ)』とかいう香水で、「ランバンが娘のマリーの30歳の誕生日の記念に創ったんですって」と、事が済んだ後に得意げに語っていた。エクラというのが『輝き』という意味だというのは心に残ったが、『アルぺージュ』が何なのかは忘れた。ついでに言うと、その女の名前も忘れた。そもそも訊いたかどうかもあやふやだ。俺はその枕を頭の下から抜き取ると、一番下に押し込めた。
それから、見飽きたヌード写真集の上からグラスを取って酒を飲み、オリーブの実を一粒口に放り込んだ。そしてベッドの下に手を伸ばし、使い込んだジュラルミンのアタッシュケースを引っ張り出し、その中から次の仕事のスケジュール表を取り出した。
『この部屋に女を入れるのはもう止めよう』
いつもそう誓うのだが、仕事が一つ終わる度にその誓いは破られる。女達は、この粘膜のような壁の色に煽られるのか、ここに来ると一様に狂ったように発情する。それはこちらも願ったり叶ったりなのだが、何か勘違いして居座られるような事になると、俺としては困ってしまう。昨日みたいに、プライドが高くて勝気な女なら、追いだすのも簡単だ。ちょっと怒らせてやれば済むことだ。面倒なのは、優しくて我慢強い女達だ。そういった間違った女を選んでしまうと、この部屋に何度も来たがるようになり、そのくせ、「こんな所にずっと居てはいけない、もっと栄養のある食事を毎日作るわ、二人で陽の当たる、風通しの良い場所で一緒に暮らしましょう」などと言い始める。 冗談じゃない。俺はここが好きなのだ。この狭くて湿って生温かい、子宮のような部屋にいる時が、一番安心して眠れるのだ。
ふと視線を感じ、窓の方に目をやると、色白の一人の女がこちらを見ながらしゃがんでいて、小さなかすれ声で「居たのね」と言った。そして俺の返事も待たずに、勝手に鉄格子の隙間から滑り込み、窓の下のサイドボードから床へと軽やかに降り立ち、しなやかな足取りでベッドに向かって歩いてきた。
よくもあんな隙間から入れるものだ。まるで軟体動物だ。俺は「ヌルヌル女」と名前を付けていた。
「居るさ」
俺は素っ気なく返事をした。女は機嫌良さそうに美しいブルーとゴールドのオッドアイを細めると、躊躇い無くベッドに上がり、俺の腹の上に置かれた大切な書類の上に、泥足のまま乗って来た。
そうだ、こいつだけで良い。いつも、車のクラクションやアジア人の激しい口喧嘩の声に紛れて、どこからともなくやってくる、靴を履かないその女。アポイントメントは一切受け付けない。俺の都合はお構いなしだ。
「あたし、お腹が空いてるの。何か頂けるかしら」
「仕方ねぇなぁ……」
その左右非対称の色をした、宝石のように輝く目で見つめられては、さすがの俺も抗うことはできない。ため息を一つ付き、硬いビーフジャーキーを噛みちぎり、数回咀嚼してから女に差し出す。すると女は嬉しそうにクチャクチャ音を立てて食べ始めた。それを最後まで見届けて、俺は「邪魔するんじゃねぇぞ」と、ひとこと釘を刺し、腹の上から女を抱き上げ、傍らに降ろした。すると声の潰れたシャンソン歌手のように、不満そうに鳴いたので、頭を軽く撫でてやった。てんで俺を舐めきって安心していやがる。俺もこいつがいる時が少し落ち着ける。
すぐにゴロゴロと喉を鳴らして甘える女に、俺はニコッと笑いかけ、書類に散った白い抜け毛を払ってから、一枚の指令書を取り上げた。期限は今月中。必ず仕上げねばならない仕事だ。
殺るのは女、やらないと俺がやられる。厄介な仕事を引き受けたものだ。
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