絵画の中の女

 川に架かる石の橋。その上にぼうっと突っ立って、ぼんやりと水面を見下ろしている。ボサボサの髪、前髪は長くて、目が隠れている。かろうじて覗く右目は川と同じように濁っていた。

「きゃあ」

 唐突に黄色い歓声じみた声が鼓膜を揺らす。

 振り向くや否や、眼前に女の顔。色白の肌に、二重まぶたとすっきりと通った鼻筋が特徴の、整った顔立ち。デコルテの空いた赤いワンピース姿も相まって、華やかな雰囲気の漂う女が、目の前に飛び出した。

 正確には飛んできたというべきか。彼女は欄干に降り立つとすぐにまた飛んで、床版に足を着けた。

「探していたわ。あなたに会いたかったの」

 胸に手を当てておのれを示し、前かがみになる。

 距離が近い。鼻の先が触れ合うような距離になると、薔薇の香りがふわりと舞った。

「待て。俺はお前のことは知らないぞ」

 人違いではないか。そんなことを言いかけて、いやと口を止める。

 彼女には見覚えがあった。実際に会ったことはないが、目にした記憶はある。写真で見たのだと考えると相手は芸能人か。否、彼女のような顔をした人間はテレビや雑誌に映った記憶がない。そもそもテレビを見たことなんて、数えるくらいしかなかったはずだ。

 なおも高鳴る鼓動が告げている。彼女を知っている。体が熱くなり、なにやら特別な想いがこみ上げてくる。

 そのような感覚を知っていた。それはある絵に対するものだ。

 彼はキャンパスに色を塗って、様々な景色を描いてきた。喫茶店や図書館、病院、ただの民家。樹木、川、橋、手すり。視界に入るもの、この足が届く距離のものならなんでも描いた。彼の絵を繋げば拡大された地図ができると言われるほどだ。

 親には立体感がある・まるで写真みたいだと褒められた。だけど、青年にとってはおのれの絵はいまいちだと感じていた。というのも、無機質なのである。リアルに描くことはできても温かみを感じない。写真のようだというのなら、本物の写真を見たほうが楽しめるのではないか。自分の絵の存在意義が分からない。それでも、絵を描かざるを得ないのが現状で、気がつくと筆を通っている。言うなれば彼は絵描き中毒と化していた。

 とにもかくにも、正体は分かった。

「お前、俺の絵か?」

 目を丸く開き、彼女を見据える。

 確認を取ると女ははっきりとうなずいた。

 絵の中の人物が実体を持っている。それが自分の前に現れたなんて、非現実的な話だ。だけど、彼女は実際にこの場にいる。それは否定しようがないし、なにより、高鳴る鼓動が告げている。彼女は本物だ。自分にこのような感情を抱かせる相手なんて、この世に存在するわけがない。彼はあっさりと現実を受け入れた。

 青年と赤い女は並んで歩いた。ひっそりとした道を歩く。町並みは整っていて、美しい。絵本の世界からそのまま飛び出したような印象を受ける。だがどうしてか、彼の心を波立たせない。なんだってそうだ。彼はおのれの絵に魅力を感じていなかった。だから描いたら最後、保管庫に押し込んで、扉を閉じる。絵は永遠に暗闇の中に閉じ込められ、二度と日の目を見ることはない。

 唯一の例外が赤い服を着た女だ。頭の中にある理想を、絵として抽出した。そばにいてほしいというよりは、じっと見ていたいと思う女性を描いた。整った顔立ちに、華やかな風貌。女優のような彼女とは付き合う気がない。ただ、いつまでも見飽きない。そんな女性だった。

 いつか彼女とは別れてしまう。絵の中の住民であるのなら、彼女は元の世界に戻らなければならない。だが、すぐにとは言うまい。彼女も外の世界で自由を満喫してもいいだろう。

 だから彼は積極的になって、女をリードしようと動いていた。

「好きなものとかあるか? レストランがあるんだ」

「どういう風の吹き回し? あなた、そういうところは嫌いだったでしょ?」

 女は笑いかけた。

 確かに自分は外食は苦手だった。他人の目を避けて動くし、外に出るにしても、コンビニに通うくらいだ。

「お前のためだよ」

「おかしいわ。あなたは店になんて意味を見いださなかった。だからこの街はガワだけしかないのに」

 その一瞬、なにやら信じられないような言葉を耳にしたような気がした。

「今、なんて……?」

 目を丸く開いて、彼女を見上げる。

 女は穏やかな口調で答えた。

「あそこは空っぽ。なにもないもの」

 さらりと、そう。

 その内容の意味を、飲み込めない。

 彼女はなにを言っているのか。店ならば近くにある。

「お前、いったいなにを言ってるんだ?」

 口を動かしつつ、反対側に建つカフェに目を向ける。まだ昼間にも関わらず、客の姿はない。普段は忙しく動き回っているであろうウェイトレスの姿すら、ない。おかしい。普段は家の二階からでも様子を伺えただろうに。

 気づいた瞬間、背筋に寒気が上った。

 青年は静かに視線を横に滑らせた。黒い目が周りの建物に向く。周りに立っていいるのは長方形の建物だ。彩り豊かな花壇や装飾に囲まれた家々は、外国に着たようにオシャレな雰囲気があった。だけど、そこに人の影はない。気配すらない。

 それに気づいた瞬間、ガツンと頭を殴られたような衝撃が走った。

 まるでその一瞬で世界が別物に塗り替えられたような感覚がした。

 ふと、思い浮かんだ疑問。自分はそもそも、なぜ街を歩いていたのか。じょじょに記憶が蘇ってくる。高校を中退してからというもの家に引きこもり、絵を描き続けていた青年だ。滅多なことでは外に出ない。散歩にも行かず、不健康な生活を送っている。そんな自分がどうして外にいるのか。そもそも、そこからしておかしかったのだ。

「ねえ、聞いて。ここはあなたの知る、普通の街ではないのよ」

 顔を上げると凛とした女の顔があった。

「私はあなたの精神に送り込まれた、仮想の人格。AIみたいな存在よ」

 目の前で紅の唇が動く。

 冷静な言葉。

「今、あなたは夢を見ているの。ここはあなたの描いた絵をモチーフにした世界。あなたの心の中と言い換えてもいいわ」

 静かに彼女は口を動かす。

 すらすらと飛び出した説明は、文章として宙に浮かぶようにも、思えた。だけど、その全てを理解できない。頭が追いつかない。目が泳ぎ、頬を汗が伝った。ただ、緊張感のみが加速していく。吹き荒れる風が髪をさらい、肌を叩いた。急に寒さを感じ、腕をさする。

「あなたは目覚めなければいけないのよ」

 女はじっと青年を見つめていた。

 それが彼のやるべきこと。果たさなければならないものだというように。

 対して彼は眉をハの字に曲げて、うつむいた。

「無理だよ」

 口元に苦笑いを浮かべて、こぼす。情けない顔をしていた。

「俺はろくでなしなんだ。頑張れない人間なんだよ」

 小学・中学と、勉強を頑張った。スポーツにも食らいついた覚えがある。結果は出せぞ、親に褒められた経験はない。一つでも点を逃せば叱られる。学年の順位も成績も、両親には関係がなかった。彼らにとっては穴があるだけで、全てがだめになる。彼らに求められているのは完璧のみ。軽く取りこぼしたくらいで、彼の価値はなくなってしまう。

 高校に入ると、やる気がなくなった。最初はグチグチと文句を言い、叱りつけてきた両親や先生。だけど、彼が頑張る気配を見せないと分かると、完全に見限り、なにも言わなくなった。

 サボってもいいと分かると、彼は勉強を辞めた。努力もなにも。

 怠けきった彼の成績はズルズルと落ちていった。そして、彼は学校にすら通わなくなり、今も薄暗い部屋の中で無駄な時間を過ごしている。

「俺はもうできないんだ。もう二度と、あんな生活には戻りたくない」

 顔をくしゃっと歪ませて、振り絞るように口にした。

 そこへ柔らかな声がかかる。

「じゃあ、頑張らなくてもいいよ」

 女は優しげな口調で、告げた。

「あなたは十分に頑張った。勉強も、芸術も。今だって絵画をたくさん創ってる」

「あれは、俺がやりたいだけだ」

 なにもしたくないから趣味に逃げている。その絵も次第に理想の通りのものが描けず、なにを描いても同じに思え、描く意味を見失っていた。描いても楽しくない。つまらないという感情に彼の心は支配されていた。

 それでも女は青年の全てを肯定する。

「そうだとしてもいままで積み上げてきたものが、あなたにはあるじゃない。この世界がその証拠よ」

 両手を広げ、訴えかける。

 その言葉は鐘を打つように胸に響いた。

 口を開け、固まり、ただ彼女の話に耳を傾ける。

「だから目を開けてみて。自分の絵とも向き合って。その絵を褒めてあげて。あなた自身の頑張りを、あがきを。あなたは、あなただけは認めてあげて」

 まっすぐな目をして訴えかける。

 彼女は心の底から彼を思っている。

 救われてほしいと前を見てほしいと。

 その祈りに応えるように、男はうなずいた。

 すると女は花が咲くように笑う。それを最後に世界は白く包まれ、彼の意識は泡沫に消えた。


 次に目を開けるとベッドの上だった。

 起き上がり、ボサボサの髪をくしゃっとつかむ。

 パソコンすら置いていない、殺風景な部屋の中。子どものころの名残で、勉強机だけが残っている。その安っぽい机の上に薄い液晶が置いてある。スマートフォンだ。小さな丸い点が光り、呼び出しの音を告げる。渋々掴み、耳に当てた。

「やっと起きたか」

 聞き慣れた男の声。

 時々、家に遊びに来る過去の同級生のものだ。

「おい、飲みに行くぞ」

 昼間から酒とは。

 聞いて、苦笑いを浮かべつつ、心には優しい感情が広がる。

 こんなくだらない自分にも手を差し伸べてくれる者はいる。

 それを喜ばしいと思うと同時に申し訳なさもこみ上げてきた。

「嫌って言うんなら引っ張り出すぞ」

「いいよ。俺から行く」

 言葉は思った以上に穏やかに、彼の口から飛び出した。

「ああ?」

 液晶の中から怪訝げな声が聞こえる。

「行ってやってもいいっていったんだよ」

 かすかに口元を緩めて、彼は答えた。

 空いた窓から風が吹き込む。春色のカーテンが揺れ、爽やかな空気が全体に広がる。

 青年の髪が揺れ、その空いた左目は茶色く澄んでいた。

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