第72話 第3章「後戻りできない事態」(七月七日)7
豆初乃は思わず、奈理子に駆け寄って、助け起こそうとする。奈理子が部屋の真ん中で、倒れていても誰も助けない。豆初乃は放っておけなかった。それが自分をトラブルに巻き込んだ張本人であっても。
奈理子の体を起こそうとしている豆初乃の、袖が思い切り引っ張られる。怒り狂った明山に、豆初乃は引きずられた。
「お前か?この奈理子と組んで偽物にすり替えたんか?」
「うち……知りません……」
「まあ、ええわ。どっちでも。何にしろ責任取ってもらわな。お前が奈理子とぐるでもどっちでもええ。責任取る人間は多いほうがええだけのことや」
豆初乃を明山は突き飛ばした。
虚ろな目つきで明山は、窓の桟に腰掛ける。くしゃくしゃになったタバコを取り出して咥えた。隣にいたスキンヘッドがすぐに火を差しだす。
(うち、どうなるんやろ。どうしたらええねんろ。紅乃お姉さん……)
豆初乃は挫けそうになっていた。
「ねえ、仁ちゃあん。本気とちがうでしょ?私がこの指輪を偽物とすりかえったって、本当に疑ってるの?」
豆初乃に上半身を助け起こされた状態で、奈理子は明山に笑いかけて言った。豆初乃は驚いた。奈理子がまだ明山にすがろうとしていることに。
奈理子は豆初乃の手を汚いもののように振り払った。畳の上を膝立ちで明山の方に移動して、明山にすがろうとしていた。窓の桟に腰掛けた明山の膝に、頭をすり寄せる。
「本気とちがうでしょ?私は何も知らないって言ってるのに。この子が全部やったんだって!ねえお願い、この子は迅ちゃんの好きにしていいから」
奈理子は豆初乃を売ろうとしているのだ。豆初乃は再び、母親に裏切られたような気持ちになった。
(なんでなん?この人が頼んできて……うちは助けてあげたいって……。なんでなん。うちはいつもなんでこんな目に遭うのん?うちは、お母ちゃんを助けたいって思って、遊びたい気持ちも我慢して、陸上部も我慢して……)
豆初乃の視界が涙でにじむ。父親が出ていってから、人前で泣いたことなど一度もなかったのに、という思いが突き上げてくる。悔しさと屈辱、悲しみで涙が盛り上がる。
(泣くな、うち。泣いたって、なんも解決せえへん。どうしたらええか考えろ)
「……あっそ。まあ、この舞妓のお姉ちゃんは利用価値がありそうやし、舞妓で稼いでもらって親代わりのところから金を引き出させてもらおうか。それが出来ひんのやったら、舞妓は廃業してもらって風呂に沈んでもらおうかな。若いし。使い潰されたら内臓売ってもらうわ」
明山は無表情にタバコを吸いながら、怖ろしいことを言っていた。本気に見えた。明山の足下にすがっている奈理子は、さっき殴り飛ばされた頬が腫れて、化粧が崩れて、豆初乃には再びお母ちゃんと重なって見えた。父親に殴られてもすがっていた母親に重なって見えた。
―――うちは、また裏切られるんか……。うち、あかんかも知れへん。どんなに頑張ったって、うちの人生はこんなものなんかも知れへん―――。
豆初乃は、確かに思えていた足元が、踏ん張り続け来た足元が、実は何もなかったように感じられてきた。頑張って築いてきた花街での生活も、自分にはどうせ手に入れられない幻だったような気がする。
もう、うちは―――。
ニヤニヤと笑う明山に顎で指示されて、金髪の元田が近づいてくるのが豆初乃の目に映った。もう、豆初乃は指を上げる気力すらなかった。
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