第70話 第3章「後戻りできない事態」(七月七日)5
奈理子は、豆初乃を見下ろしながら言った。豆初乃は耳を疑った。
「ねえ、あのとき、あなたを轢きそうになったのは悪かったけどさあ。大丈夫?って声をかけて、あなたの手を握ったらさあ、いつの間に指輪がなくなって。あなたが盗んだんでしょ?」
奈理子は、鼻にかかった甘い声で豆初乃に話しかけた。畳に手をついた状態で見上げている豆初乃ににっこりと笑いかける。
ああ、確かに似ている。お母ちゃんと似ているんだ、この人。ほんとうに。
豆初乃はすばらしく美しい人を見上げながら、思った。
「ねえ、あの指輪、とっても大事な物なの。あれがないと迅ちゃんに、私が怒られちゃうのよ」
奈理子は小首をかしげながらにっこりと笑った。
豆初乃は信じられなかった。あの日、ああやって、自分に「助けて」と言って指輪を託した人が、こんな風に嘘をついて、豆初乃が盗ったことにするなんて。
「……うちは盗んだんとちゃう……」
豆初乃は絞り出すように言った。全身が虚しさに浸されてるような気持ちだった。さっきまであった闘争心も消えていくような気がした。四つん這いで見上げさせられている態勢を立て直す気力も、湧かない。
「ほお?お前、奈理子を知ってるんか?さっきはまるで知らんみたいな言い草やったけどなあ。嘘つきやな。そしたら、『盗んでない』ってのも、大方のところ嘘やろ?」
明山はめちゃくちゃなことを言う。しかし、この蛇のような男は、どんな揚げ足でも取って、豆初乃を「おまえが盗んだんやろ」と攻めてくる。
「盗んでまへん……このお人が、うちに『預かっておいて』って渡さはったんや……」
豆初乃は喘ぐように言った。
(なんで……信じられへん……。この人……奈理子っていうこの人は、なんでこんな嘘つかはるん?なんでなん?うちは、うちは、ただ……)
「ええ~ひどぉい。私のせいにするなんて。泥棒のくせに。ねえ、仁ちゃん」
奈理子は甘えた声のまま体をくねらせて言う。豆初乃は、不意に自分の母親の顔が重なって見えて、胃液が逆流するような吐き気を味わった。
「そや、だいたいなあ、なんで見ず知らずの人にあんな大きな指輪を預けるねん?え?それも車の運転で撥ねそうになった人間に、なんで預ける?ふつう、預けへんやろ?な?舞妓のお姉ちゃんもそう思うやろ?自分やったら、見知らぬ人に宝石を預けへんやろ?大事な大事な宝石を。え?奈理子もそうやろ?」
仁ちゃん、と呼ばれた明山は、豆初乃の着物の袖を踏みつけたまま片膝あぐらで笑う。
「そうよねえ~。誰が、撥ねそうになった人に指輪を預けるっていうの?盗んだに違いないじゃない?」
そう言いながら、奈理子は豆初乃の前にふわりと座った。長い栗色の髪の毛をかきあげて後ろに流してから、美しく優雅に座った。美しい扇形に広がってから、ゆっくり舞い落ちる栗色の髪の毛がスローモーションのように美しかった。部屋のなかの蛍光灯の電気すらも、奈理子の髪の上できらきらと輝いた。どこにも下品なところのない上品な洗練された仕草だった。
正座した奈理子は、手を畳に着いて豆初乃に顔を近づける。にっこり笑いながら小首をかしげる。曇りひとつない陶器のような肌、表面に虹色の膜をかけたように煌めく栗色の瞳、神様がすっと引いたように通った鼻筋、珊瑚色に輝く唇……。
なにもかもが作り物のように美しかった。そして、確かに豆初乃の母と似ていた。着ている物の豪華さや髪や肌にかかっている金額、立ち居振る舞いはまるで違ったけれど。豆初乃とまるで似ていない母のことを、豆初乃はなんども思い出していた。
(ああ、これが紅乃お姉さんの言ってはったあれか……。上品な振舞いと内面は一致するわけではない、ってあれ……)
豆初乃は頭のどこかでぼんやりと思い出した。
「ねえ、あなたが盗んだんでしょ?」
美しい天女のような微笑みで、奈理子は豆初乃に甘くささやきかけた。
豆初乃は、母が自分に笑いかけてくれたように一瞬見えた。
(違う、お母ちゃんはこんな……こんな風に、うちに笑いかけてくれたことなんてない……。うちがどんなに望んでも―――)
「あ―――見っけ」
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