第54話 「事件」(六月三十日・昼)(2)
立ち尽くす豆初乃に、観光客たちが気づく。
「あれ、舞妓さん?」
「ほんものの舞妓さんじゃない?観光客が着てるんじゃなくて……」
「だって、お化粧もしてないであの髪型、舞妓さんでしょ?」
「写真撮っちゃえ!」
「可愛い~すっぴんてあんなんなんだ。地味だね~。でも可愛い」
そういう話し声が、豆初乃の耳に届く。
(ああ、うちはここから立ち去らなあかんのに)
豆初乃は足が動かなかった。
舞妓が独特の髪型と着物で稽古等に通う姿は、観光の対象になっている。なにもせずにただ歩いているだけでも写真を撮られることがある。風景と同じなのである。どこで撮られているか分からない。もとから人の目を気にして振る舞いに気をつけるように舞妓は厳しくしつけられる。
(帰えらなあかんのに)
豆初乃に注目が集まると、ホスト軍団も自分たちを見つめている舞妓に気づいた。自分への視線には目敏いことが仕事である男たちだ。
一番偉いだろうと思われる全身を光る黒の上下で決めている男―――奈理子が腕を絡めている男―――が、豆初乃をニヤリと笑って見た。自分を見ていることを知っている、という顔だ。見られていることと見ることを楽しんでゲームにできる人間の顔。豆初乃は、舞妓になって初めて、そういう振る舞いが存在することを知った。
奈理子も、男の色目に気づいた。その瞬間の奈理子の表情の変化は見事なものだった。奈理子は、腕を絡めている男の顔に目をやった瞬間に、笑いを口元から消し、ギリッと音の出そうな目つきで男の視線の先を睨んだ。
豆初乃は、奈理子の視線の矢で貫かれて突き刺されたような感じがした。心臓を。
ズキン。
会いたいと思っていた。こっちを見て欲しいと思ってた。気づいて欲しいと思ってた。本当にあの人なんだろうか、と思った。間違いなくあの人だと思った。でも、豆初乃が思い描いていた、あの日の天女のような、優しい微笑みはそこには無かった。
奈理子の攻撃的な表情に獣のように反応して、ホスト達が獲物を振り返る。ターゲットを探り当てた男達は、驚いた顔をする。
視線の先には、稽古帰りの生真面目そうなすっぴんの舞妓しかいない。まるで垢抜けていない昼間の舞妓なのである。それも、ただ巾着を持って、目を見開いて突っ立っているだけである。
男達の顔に、あからさまに警戒心の薄らいだ表情が浮かんだ。一瞬で相手を値踏みすることが商売の人間である。相手が、若い―――幼いと言ってもいい舞妓ひとりと見て、軽んじたのである。
一番若そうな金髪の華奢な男が、年長のホストに小突かれて押し出された。豆初乃の方へ、背中を突き飛ばされる。黄緑色のシャツの金髪の男は、豆初乃との間の通りを渡り始めた。まばらな観光客が、ニヤニヤ笑いを浮かべている金髪の男をちらちらと見る。
(早よう、うちは帰らなあかんのに)
豆初乃は、こんなに人目のあるところで注目を集めてはならないと思っているのに、足が凍り付いたように動かなかった。
金髪男はどんどん近づいてくる。足を止めて、何事かと注目しだす観光客も増えてきた。
歩行者天国のようになっている道の半ばまで来ると、金髪の男は
「おいおい、可愛い着物の姉ちゃんよう」
と声を掛けた。
(―――え?)
豆初乃は耳を疑って、金髪の男の顔をまじまじと見た。近くで見ると、まだ少年のように幼い。十代半ばの顔だ。豆初乃の意外な反応に、金髪の男もつられて豆初乃の顔をまじまじと点検するように見た。
(まさか。こんなところで)
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