第49話(第2章)「事件」(六月十五日)夕刻(3)
後ろから突然声をかけられて、豆初乃は飛び上がった。心臓が口から飛び出すかと思った。驚いた顔で振り返ると、照子お母さんの顔があった。
「どしたん?鳩が豆でっぽ食らったみたいな顔して」
笑いながら、お母さんは電気をつけた。いつの間にか夕焼けは終わって、薄暗くなっていたのだ。
「あんた、あんまり静かやったし、どっか行ったんかと思ってたら、寝てたんか?頬に畳の跡がばっちりついとるわ」
お母さんは、笑いながら豆初乃の頬にそっと触れた。柔らかくてふっくらしていて艶やかな手。優しい手。
豆初乃は、子どものときから人に触れられるのが苦手だった。けれど、この家に来てからは、徐々に平気になった。お母さんは、仕事や稽古には厳しいけれど、とても自然に頭をなでてくれたり、頬をつついたりするのだ。そういう距離感で優しく包んでくれるのだった。お母さんは、クールな紅乃お姉さんにすら頬をつついたりする。
「何にそんなに驚いたんや」
お母さんは、割烹着をつけながら訊いた。花街の置屋では、仕出しを取る家も多いと聞くけれど、雪駒家ではお母さんが簡単な料理で晩ご飯を作ってくれるのだった。
「体にええもんを食べなあかんからなあ、素朴なんでええ。仕出しはどうしても、豪華なものになってしまって、野菜が少ないし」
というのがお母さんの口癖だった。
「ううん……誰もいいひん、と思ってたから、突然、お母さんが後ろに立ってはって驚いたんや」
「ふふふ」
「お化けかと思った」
「あらまあ、また怖い本、読んでたんとちゃうか?」
笑いながら、お母さんは野菜を洗いにかかった。豆初乃はその後ろ姿を見ながら、そっと雑誌を閉じた。閉じる前に、その女性の名前と家名を目に焼き付けた。
忘れないように、後で調べられるように。
「今日の晩ご飯、なあに?」
腕まくりをしながら、豆初乃も手伝おうとした。
「ああ、もう。あんたは座ってなさい。豆初乃ちゃん、料理上手やからつい手伝ってしまいたくなるんやろけど、そうゆう所帯くさいことは舞妓の間はしたらあかんねん。趣味でお菓子作るのくらいはええけどなあ」
お母さんに、ほれほれ座ってなさい、と優しく手の甲をひらひらさせて追い払われる。
舞妓の間はそういうことをしたらあかん、というのが雪駒家のしきたりだった。仕込みさんの時期は、食事の準備から家事全般を手伝うのが修行だが、舞妓のあいだはお人形さんみたいに鎮座させられてなあかん。華が失われる、とお母さんは口を酸っぱくして言っていた。
「はいはい。ほな、うちは二階に行って着物の勉強でもしておこかな」
豆初乃はそう言って、台所を後にした。
自室に入って襖をしめて、深いため息をはく。
はあああああ。ばれなかった……。
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