第36話(第2章)「事件」(五月九日・午前中)(12)


「ああ、あんたはもう……」

 玄関の引き戸をカラカラと閉めた後、お母さんが感極まった声で言った。

豆初乃はいつもの通り叱られるのだと思い、少し笑って

「お母さん、すんまへん。面倒ごとばっかりで」

と言った。

「ほんまに」

お母さんが続けて言ったので、豆初乃はいつもの小言を先に口にした。

「豆初乃は商売もんやねんで。うちが高うに磨いた高級品なんどっせ!傷なんて―――」

つけて、と豆初乃はお母さんの口癖を続けられなかった。

お母さんは笑ってなかった。眉間に皺を寄せて真剣な顔をしていた。豆初乃を凝視して、右手をすっとあげた。

豆初乃はすっと血の気が引いた。

 ―――ぶたれる。

 おかあさんが右手を上に上げたのが目に入った瞬間に、豆初乃は反射的に体を硬くした。

唐突に、父の拳が迫ってくる情景が豆初乃の脳裏によみがえる。普段は思い出さないようにしている。体は覚えているのだ。顔や頭をかばうとなお激しく叩かれたので、反射的に体を硬くして、目を見開いて必死で手が飛んでくる方向を見極めるのだ。出来るだけ痛くない場所に拳が当たるように。出来るだけ少ない回数で済むように。子どもの頃に染みついたことは、小さい子どもでなくなっても体が忘れない。

 豆初乃の全身を、強いあきらめと虚しさが覆っていく。またぶたれるのだ。どこまで行っても―――私が悪いから―――。

 迫ってくる手のひらを凝視しながら、豆初乃は思った。

「もう……心配かけて」

 お母さんは右手で豆初乃の肩を抱いた。

 ―――え?

「ほんまに、あんたが無事でよかった。豆初乃ちゃん、外を歩くときは気をつけや。そや、今夜は、お座敷は誰かお姉さんと一緒に出て、次のお座敷までも一人で歩いたらあかんで。なんなら、迎えに行ってあげますさかい」

 豆初乃は、お母さんに抱きしめられていた。

「なあ、豆初乃ちゃん、僕らはあんたのことを実の娘みたいに思ってるんやで」

 お父さんが、豆初乃を抱きしめているお母さんの背中に手を当てて言う。豆初乃をいたわる目で見つめる。

「雪駒家に来てくれて、仕込みさんになったときから、照子さんとは親子の縁、紅乃とは姉妹の縁を結んだんやろ?心配でたまらんのや。ほんまに無事でよかったで」

 無事でよかった。なあ?と笑い合う老夫婦に、豆初乃はどういう態度をとっていいか分からなかった。

「おおきに……、うち……」

 豆初乃は言葉が続かなかった。うつむいてしまった豆初乃に、

「ええねん、ええねん」

 お父さんがおろおろして言う。

豆初乃は泣いたことがない。雪駒家に来てから、一度も泣いたことがなくて有名だった。

仕込み時代の修業は辛い。豆初乃と同時期に雪駒家に入った子は、五人いたが、仕込み期間を最後まで務めあげたのは豆初乃一人だった。舞妓として店出しをしても、決して楽な仕事ではない。売れなければ焦る。売れたら売れたで「ええ気になって」と叩かれる。どこでも意地悪な人間はいる。師匠にどんなにきつく叱られても、先輩にどんなに苛められても、客にどんな横暴を言われても、泣かずにへこたれないので豆初乃は有名だった。

「なんという強情な子や」と言われても、涙を見せない豆初乃が、声をつまらせてうつむいてしまった。

「ふふっ。―――ようないわ」

お母さんが突然、顔を上げて言った。艶々の頬に色味が戻って来ている。

「ええねん、ええねんや、あらしまへん。ほんまにうちの豆初乃はうちが腕によりをかけて磨きに磨いているねんから、気軽に傷なんかつけてもろたら、割が合いまへんわ」

お母さんは目に涙を浮かべて笑った。

豆初乃が思わず吹き出す。お父さんもつられて笑い出した。

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