第34話(第2章)「事件」(五月九日・午前中)(10)

「豆初乃さん、おけがはございませんか」

 慶次郎が豆初乃のそばに来て、声をかけた。

「だ、大丈夫です。―――ちょっと指に紐が食い込んだだけで」

「それは不幸中の幸いでございました」

 少し息が乱れているが、柔らかな声で慶次郎は微笑んだ。白いシャツに蝶ネクタイ、老眼鏡に髭、といういでたちはいつも通りなのに、袖をまくり上げて筋骨隆々の腕が見えていることで、慶次郎の印象はまるで違った。

 豆初乃は、慶次郎のドラマチックな登場に目がちかちかするような気持ちだった。

「あ、あ、うちは、大丈夫、この人が助けようとしてくれてけがを」

 どうしよう、という顔で、豆初乃が足元を見る。

慶次郎は、地面に伸びているチェックシャツの青年のそばにしゃがみこんで顔に手をかざした。

 「……大丈夫なようでございますね。気を失っているだけのようでございます。息もございますし、血も出ておりませんし」

 「ああ、けがはなかったんかい、あんた」

 慶次郎がさきほど飛び出して来た店の店主が、豆初乃に心配そうに声をかける。突き当りの骨董店の店主、還暦過ぎのお爺ちゃんである。

 「文明堂さん、紅茶を配達に参りましたのに、突然飛び出して行って申し訳ありません」

 「慶次郎さん、びっくりしたよ。話している最中に、突然飛び出して行って、見たら空中を飛んでいるんだから……」

その会話を聞いて、豆初乃はなぜ慶次郎が突然現れることができたのか分かった。

 周囲がざわざわしてきた。浴衣姿の舞妓と屈強な蝶ネクタイ男性、それに足元に伸びているチェックシャツの男は、注目の的だった。

「さて、どういたしましょうかね。周囲も騒がしくなってまいりましたし……」

 慶次郎は腕組みをして、しばし考えた後、提案した。

 「文明堂さん、大変申し訳ありませんが、この男性をお店に運んでおいて頂けませんでしょうか?後で伺いますから……」

 「あっ、ああ、うちの若いのに運ばせよう」

 文明堂店主は、後ろを振り返って店の方に手を上げた。

慶次郎は、伸びている男性の横に散乱している本を手早く拾い上げ、手に持った。豆初乃には、本のタイトルが印象に残った。「陰影礼賛」「雪国」の文字が見えた。

 「豆初乃さん、ここは人の目がございます。わずかな距離ですが、雪駒家さんまでお送りしましょう」

ささ、と慶次郎は豆初乃を促した。一刻も早く豆初乃を移動させたいようだった。

確かに、足を止める人はどんどん増えていた。携帯電話をかざして撮影している者もいる。

事件にされたら困る。豆初乃や雪駒家の売り上げに響く。そういうことを考えて、慶次郎が豆初乃を早く立ち去らせたいと考えていることが、豆初乃にも分かった。

豆初乃は、ありがたいと思った。

豆初乃との間に一メートル以上も距離を取ることで、豆初乃が男性と噂になったりしないように気を配っているのだ。

 「おおきに……ほんまに、おおきに。おおきに……」

豆初乃はお礼を言っても、言っても足りないと思った。



 「あらまあ、昨日に引き続いて、あんた、まあ」

慶次郎に送られてきた豆初乃を見て、雪駒家の照子お母さんは驚いていた。あんた、と、まあ、しか最初は口にしなかった。

 照子は、豆初乃の無事を確認した後、奥に向かって「お父さん」を呼んだ。こういうときは、雪駒家のお父さんにも出てきてもらうのである。

「お父さん」は照子お母さんの、雪駒家に住んでいる。舞妓や仕込みのお父さん代わりでもあり、女所帯の用心棒でもある。雪駒家は、照子が跡取り娘だったので婿になったのである。

 「へえ……、友世さん、暴行されたん?カワイソー」

しかし、お父さんよりも先に現われたのが、孫の理帆だった。

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