第33話 (第2章)「事件」(五月九日・午前中)(9)
「ひゃああああああ」
豆初乃は思わず素っ頓狂な声を上げた。ぶつかる直前に振り返ったことで、正面衝突せずに済んだ。ぶつかって来たそれは、半身がぶつかったために豆初乃はふらついたが、危うく尻もちをつかずに済んだ。
「なっ……」
豆初乃が驚いてよく見ようとする間に、三差路の角を勢いよく曲がって来た人間は、豆初乃の巾着の紐に指先を引っかけた。
(引ったくり!)
豆初乃は巾着の紐に指をしっかり絡めていたから、豆初乃自身が引ったくりの力に引きずられることになった。
若い男だった。若い男が、豆初乃の巾着を奪おうとしていた。豆初乃は奪われるまいと、渾身の力で踏みとどまり、巾着を挟んでにらみあいになる。
吹き出物のある十代後半の黒いTシャツにジーンズといういたって平凡な姿の男だった。
「ちっ!」
男は豆初乃をにらんで、一気に巾着を奪おうと力を込めた。
いくら人通りが少ないとはいえ、昼日中の大観光都市京都である。最初はただの出会いがしらの衝突に見えても、稽古帰りの舞妓が荷物を奪われようとしていることに、周囲もすぐに気づいた。地元の配送業者や酒屋の配達人が異常に気付いて、遠くから駆け付けようとしていた。
「何してるんだ……!離せ!」
弱々しい声が、巾着を奪い合っている豆初乃に聞こえた。もみあっている男は、そちらに一瞬気を取られた。そこには、細身のジーパンとチェックシャツに黒縁眼鏡の青年が立っていた。本を抱えてて震えている。ひったくりの男は、見るからに弱々しそうだ、と踏んだらしく、眼鏡の男を無視して豆初乃の巾着を思い切り強く引っ張った。
「や、やめろ、女性に、こんなことを……」
チェックシャツ眼鏡の男は、ふたりの間に割って入ろうとした。
「……っちっ」
男は再び舌打ちし、躊躇なくチェックシャツの男の顔を肘で一撃した。その間も、豆初乃の巾着の紐からは手を離さなかった。顔面に肘鉄がきれいに決まり、チェックシャツの男は一発で倒れた。
「きゅう……」
というマンガのような声とともに。
同時にチェックシャツ眼鏡の男の持っていた本が散らばり、豆初乃に当たった。豆初乃の注意が一瞬それたために、巾着の紐が指から外れそうになった。
(取られる!)
豆初乃が思った瞬間、
バアアン!
豆初乃の正面の骨董屋のガラス扉が砕け散らんばかりの勢いで開いた。屈強な男性が白シャツ蝶ネクタイ姿で飛び出してくる。
「豆初乃さん!」
「け、慶次郎マスター」
弾丸のように飛び出して来た男性を、豆初乃が紅茶屋のマスターだと認めると同時に、巾着は引ったくり男に奪われた。男はすぐに走り出そうとする。
「あっ!」
豆初乃が声をあげたときには、慶次郎マスターが空中を飛んでいた。
慶次郎が飛び出して来た速さのまま、チェックシャツの男の上を飛び、ひったくり男の背中に蹴りを決めていた。
蹴りは華麗に決まり、ひったくり男はもんどり打って、ゴロゴロと転がった。引ったくり男が転んだ拍子に、巾着は彼の手を離れ、豆初乃の足元に飛んで来た。
周囲は突然の蝶ネクタイシャツの男性の登場に呆気に取られた。通行人の見守るなか、軽やかに着地した慶次郎は、巾着の無事を確認するために振り返った。豆初乃が巾着に駆け寄るのを見届けて、慶次郎ーはひったくり男を押さえ込もうとしたが、すでに男は走り出していた。
「その男を捕まえてくださいませ!皆様!」
慶次郎ーがよく通るソフトボイスで叫ぶと、唖然としていた通行人の何人かハッとして走り出した。しかし、引ったくり男は空き地の横の小路に走り込み、家の塀を乗り越えて姿を消した。身軽さに誰もが追いきれなかった。
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