第28話 (第2章)「事件」(五月九日・午前中)(4)

登美菊が意地悪そうに口を歪めた。

 豆初乃はハッとして顔を上げた。動悸が激しくなる。

 ―――指輪のことを知ってはるねんろか?登美菊さんにかかったらどんな酷いでっちあげされるかわからへん。

 ふだん、どんな嫌味を言っても逆らわず頭を下げ続ける豆初乃が、まっすぐに見つめて来たことで登美菊はたじろいだ。

「……殊勝な態度は男の前だけかァ?そういう態度でどれだけの男を落としてきたんやろな?」

 豆初乃の態度に怒りを駆り立てられた登美菊は、ますます責め立てた。

「うち、聞いたで。あんた、ここに来る前、千寿小路の粟田宮さんの近くで同級生の男に絡まれて―――」

 登美菊は口を噤んだ。豆初乃の顔が強張ったのである。

豆初乃は、怒りで眉間に皺が寄り、登美菊を凝視することをやめられなかった。 

 ―――なんやて?指輪のことと違て、3年前にうちが絡まれたことやって?うちが誘惑したって?

 豆初乃は怒りが噴出しそうで体が熱くなった。息が苦しい。

 稽古場に三々五々と現れた、芸妓や舞妓たちが静まり返っている。誰もが、思いがけない展開に息をのんでいる。元気で売れっ妓でも先輩に逆らったことがない豆初乃と、意地悪で有名な登美菊が向き合っているのである。

登美菊も周囲の目があって、引くに引けず、凍り付いた雰囲気が流れた。

「何してんねや!突っ立って!ええ年したお姉さんたちまで。稽古始めまっせ!」

強い声が飛んだ。佐藤流の踊りの美津子師匠が、シュッと座るところだった。

一気に空気が変わる。美津子師匠はものすごく厳しいので有名だった。

「ほな、立ってはる登美菊さんからやってもらおうか。他に、照雛さん、豆芳さん、小菊さん、鈴子さん、朋佳さん、麻里花さん、立って!」

 ふん、と鼻を鳴らして登美菊は豆初乃を一瞥してから、自分の踊りの定位置へ立って行った。

豆初乃は若手の舞妓たちと一緒に後ろに控えて座る。無表情なまま、何も言わない。隣同士でひそとでも会話したら、すぐに叱責が飛んでくるので、誰もが無言のままだ。お姉さん達の踊りの稽古を見ていないで上の空でも、師匠はすぐに見抜く。


「登美菊さん!なにしてんのや!ちゃう!」

 登美菊の動揺が現れて、ささいなところでとちっては、美津子師匠に叱り飛ばされていた。

 美津子師匠は、佐藤流の踊りの名人位である当代の佐藤松千佳を継ぐために、今の佐藤松千佳名人の養女になったほどの踊りの名手で、当代名人よりも厳しいことで有名だった。

「照雛さん、手はもっと上や!苦しいからって下がってきたらあかん!」

小柄で細身で儚げな体のどこから出るのかと思うほど、大きな声と熱気が稽古場を包んでいく。

「登美菊さん!何回言うたら分かんねんや!ええかげんにしい!」

美津子師匠が扇子で床をピシッと叩いたときだった。

「キャーッ」


 ロッカールームの方から大きな悲鳴が聞こえた。

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