第26話 (第2章)「事件」(五月九日・午前中)(2)
「観月若師匠と話ししはったんでしょ?」
光香が言った。隣の福波が嬌声を上げる。
「へ?」
豆初乃は、ぽかんと口を開けて聞き返していた。
「もう!売れっ妓はちゃうな!すっとぼけてからに」
大阪出身らしく関西弁が板についている光香が、豆初乃の脇腹を肘でつついた。脇腹が弱い豆初乃は、ひょっ!と変な声を出してしまう。福波も光香も吹き出す。
「昨日、松茂家さんで、観月若師匠と話してはったって聞いたで!」
光香が豆初乃の手を掴んで言う。
「ああ、観月若師匠、格好いいねんなあ」
福波は目をうっとりさせながら言う。
「かっこええなあ。シュッとしてて、きらっとしてて、さっとしててなあ」
「何言うてるかわからんわ、あんたの言い方やったら」
光香と福波の掛け合い漫才を聞いて、ようやく豆初乃は何の話か思い出した。紅乃が話し込んでいた能楽の若師匠のことが話題なのだ。
「観月若師匠さんて有名なお人なん?昨日はお座敷を引けるときに、松茂家さんでたまたま行き会うた形になっただけで……」
豆初乃は風呂敷を下ろしながら、語尾を濁した。紅乃のことはなぜか言えなかった。
「あのことと違た……」と胸のなかでは一息ついていた。
光香が、ひーと喉から息が抜けるような声を出した。
「ひー!あんた、本気で言うてんの?!」
「観月若師匠が有名な人なんか、って」
「あんた知らんの?テレビ見いひんの?」
光香と福波が矢次早に質問を投げつけて来る。
信じられない!と金切り声を上げる光香。
そこへ、「コホン!」という咳払いが聞こえた。
豆初乃が目を上げると、先輩の芸妓たちが自分たちを見てひそひそ話をしているのが目に入った。
「ちょっ……騒ぎ過ぎやって」
豆初乃は、年上の舞妓や芸妓たちが騒いでいる自分たちにいい顔をしていないことを伝えようとした。が、光香と福波は興奮していて周りが目に入らないで嬌声を上げている。
「テレビ……は、たまには見るけど、忙しいし……」
豆初乃はその場を離れるために、風呂敷を手早く畳んで棚に入れる。一階のロッカールームを出て、二階の踊りの稽古場へ向かう階段に向かった。
お姉さん芸妓達がいい顔をしていないのが分かっていたからだ。花街といえども、目立つことをすればそれだけにらまれる。どこの世界でも同じで、目立てばそれだけ何かと目をつけられることは間違いが無い。紅乃がいないときならなおさらだった。
豆初乃は、それなりに売れっ妓になったあたりから、お茶を挽いている芸妓からは風当たりがきつい。花街では、若い舞妓の仕込みから現役の80代のお姉さん芸妓まで、誰かが誰かのお姉さん芸妓であり、誰かの妹芸妓や妹舞妓である。人望と実力で一目置かれる芸妓に連なると、姉妹も一目置かれることになる。紅乃は歌と三味線の腕と人柄で大きな信頼を勝ち得ているので、紅乃の妹舞妓の豆初乃は表立って八つ当たりされることは少なかった。紅乃がいる場所では、だが。
今日はなぜか紅乃の姿が見えなかった。さっきから見当たらない。いつもは、誰よりも早く来て準備をしている人なのに。
二階の踊りの稽古場に来ても、紅乃は見当たらなかった。奥の師匠が座るあたりにも姿が見当たらない。紅乃は、踊りの稽古のときは師匠の横で三味線を弾くことが多い。
豆初乃がきょろきょろと紅乃を探していると、待ってましたとばかりに雷が飛んだ。
「やかましいことやなあ。さえずり雀か。紅乃お姉さんの目の届かへんところになったら、とたんに『キャー若師匠さん、かっこええ』『若師匠さん❤』ってか。おぼこいように見せておいて、ようやるなあ」
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