第22話 第1章「謎の始まり」 五月七日・宵(7)

「豆初乃さん」

 ぼけっとしていた豆初乃の後ろから静かな声が響いた。

一瞬で豆初乃は総毛だった。

―――この声は怒っている声……!!

紅乃はとても静かな人で、よほどの必要に迫られなければ声を荒げることはなかった。怒っていてもとても静かなのだった。紅乃が声を荒げたのを豆初乃が見たのは、豆初乃が中学生のときに不良に絡まれていたときに啖呵を切ったときだけだった。だから、紅乃の声の調子に豆初乃は敏感だった。

 豆初乃は震え上がりながら、紅乃お姉さんに素早く向き直った。

「す、すんまへん!!」

頭をペコペコ下げた。

「ほんまにすんまへん!」

「あんたな、立ち聞きはバレへんようにするもんやで」

紅乃お姉さんは静かな声のまま続けた。足袋で立っていると、豆初乃よりも紅乃お姉さんの方が少し背が高いので、頭を下げ続けている豆初乃を見下ろす形になる。

「それができひんのやったら、気づかへん振りして、さっさとその場を去りなはれ。分かってると思うけど、今日みたいなただの立ち話で若師匠が捌けたお人柄やったから、問題にならんですんでるけど、そうやなかったら、評判を地に落としまっせ」

紅乃お姉さんが自分の評判のことを心配してくれはる、と豆初乃は感謝した。いつも紅乃は豆初乃のことを考えてくれるのである。単なる姉芸妓だからという関係だけでなく、紅乃の人柄だと豆初乃は思っている。

「へえ。すんまへんどした。気をつけます。うち、上手くやれへんで……」

豆初乃が顔を上げると、紅乃お姉さんが困ったな、という顔で見下ろしていた。紅乃お姉さんの表情からは、さっきの冷たい雰囲気はみじんもうかがえなかった。豆初乃には、もういつもの紅乃お姉さんに見えた。奥で若師匠と話していたときの雰囲気とは、違うように見えた。どこにも、何かを隠そうとしているような雰囲気も見受けられなかった。

「ほんまに……豆初乃ちゃん、あんたも舞妓さんにならはってからもう半年や。仕込みさんとちゃうねんから、どう見られてるかよう気をつけなさいよ」

―――ただの立ち話……

 豆初乃は頷きながら、紅乃の言葉を思い出していた。ただの立ち話には思えなかったと、思いながら、紅乃お姉さんと若先生が話し込んでるのがとても絵になっていたのを思い出していた。

「豆初乃ちゃん!」

「はいっ」

夢から覚めたような気持ちで豆初乃は返事をした。

「はい、ちゃうやろ。へえ、や。次のお座敷ちゃうんか?」

紅乃お姉さんに間髪入れずに怒られて、豆初乃は思い出した。次のお座敷や!

「すんまへん!お先に失礼します!」

豆初乃はおこぼを履いて、松茂家の母屋の玄関を飛び出した。

豆初乃が慌てて庭を横切って、表の門を抜けていく後ろ姿を紅乃は見送った。その後、何事もなかったかのように、門のところで松茂家の女将さんに挨拶をし、妹舞妓が挨拶もせずに飛び出して行った非礼を詫び、次のお座敷へ向かった。

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