第17話 第1章「謎の始まり」 五月七日・宵(2)

「すんまへん、豆初乃さんはそろそろ次のお座敷がありまっさかい」

香月が助け舟を出して、退出をスムーズにしてくれる。。

「ほな、すんまへん。またよろしうお願いたのももうします」

豆初乃が挨拶すると、大塚社長が盃をかかげて言った。

「豆初乃ちゃん、また来てや、君がくると唄がたのしいて」

「もう。唄だけやのうと踊りも見てください。そや、社長さん、次は歌でうちと勝負でっせ」

「ええ~それはかなんなあ」

 最後に座を湧かせることは忘れない。

 豆初乃は、こういうときに相手が何を言ってほしいかが分かる。どうしたら座が湧くか分かる。座持ちの良さは抜群だ。

襖を閉めて廊下に出ると、豆初乃は息をついた。香月が、声をかけてくれる。

「豆初乃ちゃん、あんた大丈夫か」

「えっ」

 豆初乃は内心ドキリとした。頭に指輪のことが思い浮かんだ。完全に忘れていたつもりだったが。

 豆初乃は携帯電話に目をやった。ストラップが揺れている。

 (指輪のことは知られていないはずだ。じゃあ、あの事故を見てたとか……?)

「顔色、よくないで」

 豆初乃がいろいろと思い浮かべているうちに、香月は次の言葉を継いだ。

「えっ、ほんまですか」

 香月は優しい人なのだ。決して美人とは言い難いが、唄が上手くて、いつもにこにこしていて人の好さが溢れている。ふっくらとした人柄が、座を納めるのが上手い。荒れたお座敷でも香月がくると、静かになるので有名だ。そんな香月と豆初乃の元気っぷりが相性がいいのか、揃ってよく呼ばれる。

「最近、いそがしいし疲れてるんですやろか」

「あんた、無理してるしな、いつも。」

「えっ」

豆初乃は今度こそ驚いた。

自分が無理をしているように見えるのだろうか。求められることを出来る限りやっているつもりだったが、無理をしているつもりはなかった。

「まあ、うちはええ年やし、舞妓はんもようけ見てきたし。うちは入ったのが遅かったから、舞妓から始めたんとちゃうし、舞妓のしんどさ、言うもんがほんまに分かってるわけとちゃうけど。」

「ええ年って、香月お姉さんはまだ二十七歳ですやん」

「十七歳のあんたより十歳も長く生きてるってことやな」

香月は笑いながら、階段へと続く廊下を歩いていく。

「舞妓をやったことないからこそ、成人してからこの世界に入ったからこそ、外から見えるものがあるってことやな。潰れていった舞妓ちゃんもようけ知ってる。無理はせんとき。目先のことだけとちごて、舞妓の後のこともよう考え。あんたが舞妓で使い倒されて終わる気とちゃうんやったらな」

「先のこと……」

「あんたは何のためにこの世界に入ってきたんや?きれいな着物着たい、そういう話と違うって聞いてるで。売れっ妓でも、芸が無いのは飽きられるのも早いで。まあ、あんたとこのお母さんは、舞妓で潰れてもええというような人とちゃうけどな。紅乃お姉さんという人もいるし」

階段の手前で、香月は「次のお座敷があるから」と言って去っていった。

見送る豆富士の目に、香月の小柄な後ろ姿が映る。ふっくらとしたなだらかな首から肩の線が、成熟した女性の美しさを物語っていた。豆初乃は若くて薄い自分の肩との違いを感じた。香月お姉さんの白くてふっくらとした頬と、笑うと糸のように細くなる目が、慈愛に満ちていたことを思いだす。

―――先のこと?なんのためにこの世界に入ってきたか?

 豆初乃は考えながら、階段を降りていった。褄が引っかからてつんのめりそうになる。

―――無理してへんか?

(無理してる?香月お姉さん、ええ人やけど、心配しすぎやわ。うちは、あの家にいるときよりよっぽど今の方が……ずっと……)

 豆初乃はふと家のことを思い出しそうになって、頭を振った。思い出さないために。

家のことは考えたくない。思い出したくない。去年の6月に家を出て、雪駒家へ来てから豆初乃は一度も家に帰ってなかった。お正月にも帰らなかった。雪駒家のお母さんは、糸魚川のお母ちゃんと電話でなんか話していたようやけど、それ以上は何も言わずに雪駒家でお正月を迎えさせてくれた。

もう糸魚川の家に帰ることはない、と豆初乃は思っていた。

私の家は、ここ花街や。花街の雪駒家。そうやって生きていくんや。

豆初乃は思い出したくないことを思い出しそうで、避けるために少し足を速めて階段を下った。


「―――やで」

「―――」

 低い話し声が耳に飛び込んできた。

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