第18話 私に翼があったなら-3
「私たち、何かできることないかな」
とりあえず移動したファストフード店で、蘭花はぽつりと言った。
「なにかって……」
隣の美弦が困惑したように言う。
美弦自身、木乃香の話を聞いた上で何をどうすればいいのか戸惑っているようだった。美弦の正面に座る夏樹も、神妙な面持ちのまま口を開く。
「草壁ちゃんの気持ちはわかるよ、俺だって胸糞悪いしな。でも相手もわからないし、俺ら……というか、もう学生の手には負えない気がする」
「でも先輩が退院してきたら、私たちが傍にいて校内で一人にならないようにするとか、それぐらいできると思うの」
「学年も科も違うのに、無理に決まってんだろ」
火連がそっけなく言った。
彼も憤りを感じていないわけではなさそうだけれど、多分、蘭花のほうが無理を言っているのだ。
「でも、先輩にくっついて回ってれば、犯人がしっぽ出すかも」
「おいおいおい、ちょっとまて。蘭花まさか、犯人捕まえようとか思ってないよな」
火連の声が上擦る。テーブルに身を乗り出すように間を詰められて、思わず蘭花はうつむいた。
「いや、その。だって学内で起きたことなら、学生自身が解決できるかなって」
「だから、もう警察沙汰にするかしないかってところまで来てるんだぞ」
「でも校内で起きたことなら、犯人って真木野の学生じゃないの?それなら凶悪犯相手ってわけじゃないんだし、なんとかなるかも」
「あのなあ」
火連が額を抑えた。
「蘭花さあ、世の中、どんな人間がいるか分かったもんじゃないのは身に染みてるだろ。自分だって昔、面倒なことに巻き込まれてめちゃくちゃ危ない目に遭っただろ?」
瞬間、脳裏に遠い記憶が蘇った。誘拐未遂と、転落の恐怖。
「でも、火連くんが助けに来てくれたじゃない」
蘭花はまっすぐ火連を見つめた。
いつだって沸き上がった不安をかき消すのは、彼の炎。
「渚先輩を襲ったのがどんな人でも、火連くんがいれば大丈夫だよ、きっと」
だって火連くん強いもん。そう、本気で言えば。
「おまえ馬鹿か」
強い口調で火連が言った。
呆れよりも、怒りのようなものを滲ませながら。
「お前いい加減にしろよ。俺を何だと思ってんだ。なに無駄に人に期待してんだよ」
こんな強い苛立ちを火連からぶつけられたことはなかった。自分が何を言ってこんなに火連を怒らせたのかも、もう蘭花にはわからない。
「そういうの、正直重い」
そこまで言って火連は顔を背けた。あっけにとられたような美弦と夏樹は何も言えずにいる。
「あー……」
何か言おうとして、ようやく口から出た声は言葉になっていなかった。
「えっと、うん。なんかごめんね。私、結構無茶なこと言ってるよね」
曖昧に笑う。
「その、ちょっと頭冷やすから。私、今日は帰るね。病院、付き合わせてごめんね」
「ちょっと、蘭花」
我に返ったように、美弦が蘭花に呼び掛ける。
「じゃ、また明日」
追いかけるように立ち上がった美弦を振り切って、蘭花は店の出口へ急いだ。
まるで逃げ出すように。
「おい熊谷」
思わず立ち上がったまま、美弦は火連を睨みつける。
「あんた何様のつもりよ」
低い声で火連の頭上に声を落とせば、億劫そうに眼鏡の向こうの瞳が見上げてきた。
「蘭花が重いって?一人の女の子を重いなんて言えるほど、あんたは御大層な人間なんですかね。自分を信頼してくれる子に対して、それを無駄だって重いって?ふざけんな」
蘭花の代わりに、なんて義憤に駆られたわけでもないけれど、美弦は怒っていた。
蘭花と美弦が仲良くなったのは、確かになんとなくでも一緒にいたからかもしれない。だけど、蘭花が自分のようにひねくれた人間を見捨てなかったからだとも思う。
信じてくれたから。
だから、蘭花が信じてくれているのに、なぜ火連がそれを受け止めないのか、美弦は腹立たしかったのだ。
「ねえ、聞いてんの?」
「……うるさい」
見上げてきた瞳が、強い力で睨み返す。
「お前こそふざけんなよ。どいつもこいつも、人の気持ちなんざお構いなしに好き勝手言いやがって。大体なあ、西園も今じゃ友達ヅラして蘭花に味方してるけど、お前だって大概蘭花にひどかったの、忘れてねえからな」
「なによ、味方して悪い?熊谷の言う通り、私も蘭花に悪いことしたし、反省したからそれでチャラなんて言うつもりもないけどね。でも、それとあんたが蘭花にひどいこと言うことと関係あるの?熊谷が蘭花に喧嘩売るっていうなら私が買ってやるしね、それに、私だって渚先輩のこと助けたいのに変わりないからね」
「なんなんだよ、ふざけんな。お前ひとりだけ色々乗り越えて、すっきりしたような顔しやがって。誰でも自分みたいに、悩みやら葛藤やら乗り越えて前進んでると思ってんじゃねーよ馬鹿!」
「はいストップ」
テーブルすらひっくり返しかねない勢いで言いあう二人の間に、夏樹が割って入った。
「二人とも店の中で騒ぎすぎ」
我に返って、そっと辺りを見回す。
周囲は平和なもので、みんな変わった様子もなくおしゃべりをしたり食事をしたりしていたけれど。
「……ごめん」
気まずくなって美弦は謝る。
多分、周りは見て見ぬふりをしているだけで、迷惑をかけたのには変わりないだろう。
「まあ、熊谷あれは良くなかったわな。草壁ちゃんにきつく言いすぎ。あれじゃ可哀そうだろ」
火連は腕を組んで黙りこむ。ひどく拒絶的に見えた。
「帰る」
美弦に背を向けるようにして火連は立ち上がった。足元の鞄を担ぎ上げる。
「あ、ちょっと」
「蘭花だって帰ったんだからいいだろ」
美弦を振り返らずに火連は出口へ向かう。
「おー、じゃあな。後で連絡するわ」
「用事がないなら、別にいらないから」
引き留める様子のない夏樹にそっけなく言って、火連は店を出て行った。
「まあ、いたたまれないでしょうよ」
椅子に座り直しながら夏樹が言った。
「草壁ちゃんは可哀そうだったけど、でもまあ、熊谷の気持ちもわからんでもないんだ、俺は」
「日向は熊谷の肩持つんだ」
「だって、草壁ちゃんの味方ばっかりしてたらフェアじゃないだろ」
夏樹は意外と物事を冷静に判断するタイプだと、美弦は評している。その夏樹の目から見て、蘭花と火連、どちらに否があると思うのだろう。
美弦から見れば、火連が圧倒的に悪いのだけれど。
「あそこであんなに怒る意味が分かんない。蘭花があんなに信じてくれてるのに、何が気に入らないってのよ」
「俺はそこそこ熊谷と付き合いが長いから、何となくはわかるけど」
そこで夏樹は、少しだけ目を細めた。
僅かに、口惜しそうに。
「熊谷は、自分を信じてないんだ」
将来の夢は?と聞かれて、何の疑いもためらいもなくヒーローやプリンセスと答えることができるのは、せいぜい小学校に入学するくらいまでだろう。
多くの子どもは憧れのキャラクターがフィクションの世界のものだと知ると、現実の未来に思いを馳せ始める。
パイロットやスポーツ選手、お花屋さんにケーキ屋さん。
その中で、自分の憧れたヒーローやプリンセスの姿を警察官や消防士、アイドルやファッションモデルの中に見出すこともあるのだろう。
とかく子どものうちは頻繁に将来の夢なんてものを聞かれる。
学校の文集や作文の課題なんてものは、事あるごとになりたい職業や思い描く未来について問うてくるし、大人になるまでの道のりに、将来について問われるのは当たり前なのかもしれない。
子どもながらの憧れを夢想する者もいれば、とにかく課題のためにそれらしい職業について語るものもいたし、真剣に将来像を思い描く者もいた。
絶対プロのサッカー選手になるんだ、と言ってクラブ活動に精を出し、幼稚園の先生になるの、と言ってピアノのレッスンに励んでいたクラスメイトがいたけれど、高校生になった今も思いは変わらないのだろうか。
火連もそうやって将来の夢を思い描いてきた。
幼い頃の夢はヒーロー。かっこいいアクションと超パワーの必殺技を放つヒーローに、周りの子どもたちはみんな夢中だった。だからきっと、魔法使いでなくても憧れたはずだ。
ただ、魔法を持たない子供に比べると、殊更希望を持っていたように思う。
ヒーローや漫画の主人公によくある、「選ばれた力」を魔法に置き換えるのは簡単だったから。しかも炎の魔法に適性があって、いかにも必殺技のようなそれはヒーローそのもののような気がした。
「俺は魔法使いだから、悪いやつが来たらやっつけてやるよ!」
そう蘭花に言った言葉は、半ば本気だった。
同じ年の、同じく魔法使いの少女は素直に頼ってくれたし、弱気になる蘭花を励ませば、彼女は嬉しそうに笑った。
だから恐ろしい事件に巻き込まれた時は、本当に、本気で、戦う気だったのだ。
連れ去られる蘭花の姿を目撃して、危機感から駆け出した。正義感だってあった。
けれど現実の悪意と暴力の前にはなす術もなくて、大袈裟でなく、死に際まで追いやられたのだ。
それなのに、なぜあの状況で自分はあんなにも希望に満ち溢れていたのだろう。あんなにも自信満々に、将来を夢見ることができたのだろう。
きっと自分は、何も、全然わかっていなかった。
あれだけの目に遭ったのに、結果的に魔の手から逃れられたことと、空を飛んだ感動に興奮しきって、事の重大さなんて、全部どこかに追いやってしまった。
蘭花を巻き込んで。
自分と同じく、いや、もっと恐ろしい思いをしたであろう蘭花も、火連とともに盛り上がった。頑張って立派な魔法使いになろうと、まるで約束のように言いあった。
その蘭花は、事件の後に姿を消してしまった。
小学校生活の間に、夏休みや長期休暇の節目に引っ越しや転校をする児童は何人かいた。クラスが違うのなら、お別れの挨拶もなしにいなくなっているなんてことは珍しくなかった。
夏休みが終わって、一学期のように一緒に帰ろうと蘭花のクラスを訪ねた時、火連は蘭花が転校したことを知ったのだ。
同じクラスの子たちには、夏休み明けにお世話になったお礼として鉛筆が配られたらしいけれど、夏休み前に蘭花の口から転校するということは聞いていなかったという。夏休み中にいなくなってしまったために、誰一人、顔を合わせてお別れを言ったものはいなかった。
「あんなことがあったから、急いで決めたんでしょうね」
母に話したら、妙に落ちついた様子で言われた。きっと予想の範囲だったのだろう。
「せっかく仲良くなったのに残念だったね」
母は度量の広い人で、わが子が危険な目に遭ったことと、蘭花と親しくすることは別のことだと考えていたようだった。事件後、火連が蘭花のことを話しても嫌な顔をしなかった。
むしろ母に平身低頭謝っていた真子の方が、引け目を感じていたかもしれない。
だからというわけではないだろうが、転校するまでの間、火連はほとんど蘭花と顔を合わせていない。
下校時、蘭花にはいつも迎えの車が来ていた。真子の迎えか、でなければ子どもの送り迎えをサポートするキッズタクシーが来ていて、ずいぶんと目立っていたが、それも数回のことですぐに夏休みに突入した。
だから新学期に入ったらもっと一緒に遊ぼうと思っていたのに、蘭花の転校はそんな矢先のことだった。
(あの誘拐未遂のせいで、蘭花はいなくなっちゃったのか)
事件の後、お詫びにもらったチョコレートを食べながら考えた。
(死にかけたもんな)
体が宙を舞った。
掴むところもすがるところもなく投げ出された体が地面に引っ張られて、地に落ちるまでもうどうすることもできなくて。
「……っ!」
悪寒が走って息を詰まらせる。
実際に地面に叩きつけられたわけではないのに、想像だけなのに、恐怖が背中を這い上がってきた。
あの時回避できた衝撃を、時間を越えて身に受けたみたいだ。運良く助かっただけで、本当に、死んでいてもおかしくなかった。
瞬間的に涙が流れてきて止まらなくなる。
気づいた母に慰められて落ち着きを取り戻したが、恐怖の経験は幼い火連の心を間違いなく傷つけていた。
自分の苦しみを自覚すると同時に、同じ出来事を共有した蘭花もまた、同じ苦しみの中にいるのではないかと思うようになった。
いつか立派な魔法使いになろうという約束が、彼女を縛り付けてはいないだろうかとも。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます