祖母
夕日に照らされる別府湾。
その美しい輝きを左手に見ながら自転車を漕いでいた僕は、スマホへの着信でその足を止める。
表示を見ると電話主は妹。
「もしもし、
「お兄ちゃん、そろそろ着いた?」
「今、大分空港から自転車を漕いで別府市内に入ろうかってところ」
「お婆ちゃんの家まであと一息ってとこだね」
「まあ、もう少しかかるかな。この辺りは車通りが多いよ」
妹は「事故らないでね」と言うと、それから少し黙り込んだ。
「……私もお兄ちゃんみたいに暇だったら一緒にそっちに行ったんだけどなぁ」
「誰がニートだよ」
電話口で妹は笑い声を立てた。
たしかに、学生でもないのに八月の初旬の平日にブラブラしているような三十歳の社会人はそう多くはないだろう。しかしそんな僕もニートだという訳ではなく、立派な勤め人である。
社会という荒波に揉まれながらもなんとか首だけを波間から出しているような状態で「立派な」と形容できるかはさておき、僕は勤め始めて八年が過ぎた中堅の社会人だ。
そしてその八年間、ずっと自分のことで精一杯だった僕は気がつけば独身のままこの四月で三十路に突入していた。
お付き合いをしている女性はいるものの、一歩を踏み出さないまま数年。何か結婚を妨げる障害があるわけでもなく、彼女は僕の家族とも上手くやっていた。むしろ母や妹も僕がなかなか動かないことを嘆いているくらいだった。
そんな、僕次第という状況にあっても意にも介さないような僕の態度はどうにも母と妹の気に触ったらしい。僕に身を固めさせるべく、一年ほど前には二人が祖母に意見を求めると言った事件が起きたりもした。
だけど、祖母は二人の思惑とは真逆に優しく僕を擁護してくれた。
僕はその時の祖母の言葉を、今でも忘れることができない。
--おじいさんは何事も入念に準備をしてから取り組む人間だった。この子もきっとおじいさんに似て、じっくり考えて、これと決めた時こそ動くタイプなのよ。
その言葉は、僕の結婚を妨げるものとして大いに二人の不興を買ったらしい。だが、ダメージを受けたのは母と妹だけではなかった。
僕自身も、その言葉に心が痛んだ。
その理由はただ一つ。僕は自分がそんな堅実な人間ではないと思っていたから。
以前から僕は三十歳を超えたら今の仕事を辞めて昔から憧れていた小説家の道を歩みたいと考えていた。
だがしかし、幸か不幸か僕には仕事や勉強の才能があった。そのおかげで良い大学を出て、良い会社でそれなりに堅実な役職を得ることができた。
上手いこと人生の歯車が噛み合って安定した生活を送ることができているが、一方ではそれが夢への足枷にもなっている。
このまま夢を押し殺したまま暮らしてよいだろうか。夢を捨て、そこそこの貯金で何となく定年を迎えることに後悔はないのだろうか。
この悩みこそ、僕が結婚を渋らせている大きな理由だった。今の安定した生活を取るか、未来の約束されていない夢を見るか。熟慮している訳では無い。ただ、決断する勇気が無いだけだ。
祖父がどんな人だったかはよくは覚えていない。けれど、祖母の語る姿と自分の中にぼんやり漂うその背中から想像するに、きっと僕とは違う人間だったのだろうとは思った。
「それにしても、おばあちゃんの家なんて久しぶりだね」
「ああ。風香が小六のころだっけ? 大分から大阪に引っ越したのは」
「うん。それ以来、なかなか顔を出せてなかったから行きたかったんだけどなぁ……」
その頃既に大学生だった僕はともかく、小学六年生の途中で引っ越す事になった彼女にとって、今回の来訪に予定が合わなかったことは相当残念に思っているらしい。元々がおばあちゃんっ子だったから、余計歯痒い思いをしているのだろう。
「……ともかく、お婆ちゃんにごめんねって言っておいて。お手伝いに行けないこと」
しおらしく、妹はそう言った。
そもそも、社会人として大阪で働く僕が大分にいるのには理由がある。
今回の訪問の始まりは、大分に住む祖母からの一本の電話だった。用件はズバリ、「断捨離を手伝ってほしい」というもの。
今年で八十四歳になる祖母は未だに自転車を乗り回すほどに元気で、その風貌からは実年齢が測れないほどに若々しい女性だ。とはいえ、体力の方はそうもいかない。納屋や押入れ、物置などにしまい込まれた数々のガラクタたちを相手取るには助けが必要だった。
だが祖父は二十年ほど前、僕が小学五年生の時に鬼籍に入ったし、ほかの親戚も忙しかったり高齢だったりで手を貸せる人がなかなかいない。
そこで話を持ちかけられたのが、大阪に住む僕たち兄妹だった。
だが、今年で大学三回生となり大学の資格講座を申し込んでいた妹は来れなかった。
そこで、タイミングよく仕事が閑期に入っていた僕だけが有給を取って一人で祖母の家へと向かうということになっていたのだ。
「大丈夫、ちゃんと伝えとくよ」
「ありがとう」
「ああ。風香も大学の資格勉強、頑張れよ」
「うん! じゃあ、勉強の続きやるから電話切るね。あ、写真だけ撮って私に送って!」
「おう、任された」
「ありがとー! ばいばーい!」
電話が切れると、そのままカメラを起動してレンズを海に向ける。そのままパシャリと一枚。カメラの心得はないが、いい写真が撮れた。喜んでくれるだろうかと、おっさんの心は少しウキウキした。
「よし」
画像を送信すると、再び自転車に跨る。
流れる別府の風景は変わっているところもあるが大抵は昔住んでいた頃と変わらぬ見慣れたもので、特に迷うことはない。ものの三十分ほどで目的地である祖母の家に着いた。
丘の上に立つ古い日本家屋。遠くに別府湾を望むこのロケーションは、街に出るには少し不便だがその分景観は抜群だ。
「こんにちはー!」
チャイムを鳴らさずに僕は扉の前で声を出す。
「おばーちゃーん! ……庭かな?」
「はいはい、お待たせしました。空いてますよ」
なかなか返事がないため外を見て回ろうかとした時、丁度声が聞こえた。玄関へ入ると、すぐに祖母が顔を出す。
「遠いところをありがとうね。わざわざ来てくれてご苦労様です。どーぞ上がって上がって」
「ありがとう、お婆ちゃん」
低い物腰に静かで温かい口調。
祖母の顔と雰囲気は、いつも僕を癒してくれる。
お邪魔しまーすと言いながら早速家に上がると、まずは奥の仏間へと向かう。
仏壇の側の梁にはご先祖様の写真や絵がズラリと並んでいて、まるで僕の一挙手一投足をじっと見守ってくれているかのように感じる。そんな包み込まれるような視線の中で仏壇の前に座ると、ロウソクに火を灯して線香を上げた。
手を合わせる前に目線をあげると、仏壇の中には祖父の写真が小さく飾られていた。
「いつも、うちに来ると必ず手を合わせてくれるのは
「いえ、そんな……」
「きっとご先祖様やおじいさんも喜んでいるわ」
すぐ隣に腰を下ろした祖母はそう言うと、僕と一緒に手を合わせた。
お参りが終わると、挨拶もそこそこに早速整理を言付かって押入れへと向かう。
「わぁ」
扉を開けると、そこには宝の山が広がっていた。
「すごい! なんか古いモノが沢山ある! あ、これ昔の扇風機だ!」
幼い頃の遠い記憶の中にかすかに残っていた青い羽の扇風機。
かつては白かったであろうそのボディは長年の活躍の印として黄ばみが浮かんでいる。
「あれ? これは?」
片付けを進めていると、何か小さな桐の箱が出てきた。紫綬が結わえられたその箱を開けることは出来ず、手に取る。
「ずいぶん古い箱だ……」
「あ! それは!」
開けようとすると丁度通りかかった祖母が慌てて僕の手から取った。
「これは、開けてはダメなもの」
「そうなんですか?」
「そう。おじいさんが子供の頃から大切にしていたモノよ」
「へぇ……」
気にはなった。
だが、そこまでして祖母が見せまいとするものをどうにかして見ようとまでは思わなかったので作業を再開する。
箱があった辺り、その隣の棚にはこれまた随分と古い花柄のポットのようなもの。
「これは……魔法瓶?」
「正解!」
「あはは。こんなのよく残っていましたね!」
「本当にねぇ。あ、この置き時計、ここにあったのね」
魔法瓶の奥には置き時計。
十時を差したまま固まっている針を祖母は寂しそうに眺める。
「この時計、おじいさんと銀婚式のお祝いでスイスに行った時に記念に買ったものだったの。今から……ざっと四十四、五年前のものだねぇ」
「そんなに前の……」
「懐かしいわね。どこに行ったかしらと探してたのよ」
そう言うと祖母は大事そうに時計を抱え、背面のネジを回した。固まっていた時が動き出す。
「おじいさんが亡くなった時のドタバタの中で失くしてから二十年、まさかここで見つかるとは思わなかったわ」
「良かったですね」
「ええ。やっぱり元気なうちに整理を始めて正解だったわ。悠くんも手伝ってくれてありがとう」
このたった一言にどれだけの想いが込められているのだろうか。コチ、コチ、と祖母の腕の中で時を刻み始めた時計を見ながら思わず想像した。
こんな調子で、夕方六時から一時間ほど押入れの整理をした。炊飯予約をしてあった炊飯器が米の炊き上がりを示す音楽を奏でた頃になってやっと、残りはまた明日ということで整理を切り上げた。
手洗いを済ませて台所へ向かうと、なにやらスパイシーな香りが漂ってきた。
「あ、もしかして晩御飯はカレーですか? やった!」
「そうよ。最近の若い人たちが何を食べるのかは分からないけど、悠くんの好きなものはよく知ってるからね」
「流石、おばあちゃん!」
「らっきょうがダメなのも知ってるわよ? 入れる?」
「残念ですね、最近らっきょうの美味しさがわかるようになってきたんですよ」
「あら、大人になったのね」
「もう三十路ですから」
よそったご飯にカレーをかけている祖母の隣で、福神漬けや野菜などの付け合わせを盛り付ける。
出来たものからお盆に乗せて台所の隣の居間へと持っていく。ついでにテレビもつけた。なにやらSNSの投稿についての番組だった。
「SNSねぇ……世界と繋がるなんて凄い時代ね」
丁度コップとやかんを携えて居間に入ってきた祖母が、テレビ番組に反応して呟いた。
「でも、こうして身内での繋がりが残っている家がどれだけあるか……悠くん、今日は来てくれてありがとうね」
「いえ、僕も顔を出したいと思っていたところなので丁度良かったです」
そういってから思い出した。
「そういえば、風香がよろしく言っておいてと言っていました。来れなくてごめんなさいとも」
「優しいわね。世界中と繋がれる時代でも、その世界の片隅の老いぼれのことを大切にしてくれる子がどれだけいるか。幸せなことだねぇ……」
しみじみと呟いた祖母はそれから気を取り直したように手を合わせて「それじゃあ、ご飯をいただきましょうか」と言った。
カレーを食べながら思う。
きっと、祖母は知らない。僕がどれほど祖母のことを大切に想っているのか。妹が、どれほど祖母に会いたがっていたのか。
それは言葉では半分も伝わらないだろう。僕達がいつも、一人で暮らす祖母のことを心配しているということも、きっと知らないだろう。
二十年ほど前に祖父が亡くなって以来、祖母は広い家の中に一人ぼっちで暮らすことになった。
妹が小学六年生になるまでは……つまり今から十年ほど前までは僕達も祖母の近くに住んでいたが、父の転勤に伴い大阪に引っ越してからはまさに一人きりの生活だった。
僕は当時も大学生ながらに、そして三十歳になった今ではより一層、一人で暮らす祖母のことを心配に思っている。
けれどもそんな心配をよそに、この家はそれからも大きく変わることのないまま在り続けてきた。まるで押入れに忘れられていた時計の針が止まったことで、この家の時間そのものも凍りついたかのように。祖父が亡くなってから二十年、いつ来ても変わることのない懐かしい空間がここにはあった。
ふと目線をあげると、居間のガラス戸越しに見える夕闇の中の海と空のグラデーションが美しい紫に染まっていた。その景色はかつて見たものと変わらず、美しい。
その幼い頃からずっと見てきた景色を見ていると、この二十年間のことが走馬灯のように頭によぎった。豊かな色彩に溢れたかつての日々。
--断捨離は、そんな美しい思い出を捨てることなのではないか。
ふと、そんなことが頭をよぎった。
この二十年、変わらぬままにあり続けたこの家をまるっきり変えるというのは、この二十年とその先にある祖母の大切な日々を壊すことになるのではないだろうか。
分からない。
分からないが、もう窓の外を見ていられなくなって目をそらした。
胸には黒く小さなモヤモヤ。それを深いところに押し込みながら、再び祖母のカレーを口に運ぶ。
「美味しい」
やはりそれは、昔から変わらぬ美味しさだった。
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