キムラくんとやまにしくん

ギヨラリョーコ

1話 キムラくんとやまにしくんは同居中

 近頃なかなか恵まれていて、死にたいだなんて思わないけれど。

 それでも時々考える。

 ──死んだら地獄に落としてほしい。



 

 教授が教壇を離れると同時に勢いよく立ち上がりダッシュで教室を飛び出す。またかあいつ、みたいな視線を受けている気がするが構っていられない。

灰色がかった足元の廊下だけを凝視していても迷いなく男子トイレに飛び込める。慣れたもんだ。

 本当にいい大学に入ったと思う。いまどきカビの生えたタイル張り床のトイレがあるあたり特に最高だ。奥の個室なんか電球が切れたまま取り替えられずにほったらかされている。言うことが無い。

 こういういまどき珍しいくらいの薄汚い場所こそ、僕の平穏な大学生活には必要なのだ。指先が肥大して視覚情報にがんがん侵食してくるような圧迫感がひととき薄れてくる。

けど、完全に無くなるわけじゃない。大きく深呼吸して手に持っていた生協売店のビニール袋をひっくり返す。

 月間少年誌を売店に置いているあたりも本当にいい大学だ。裏表紙の時計の広告にわずかに息を詰めて、えいとひっくり返す。

 表紙を飾っている、水着の、笑顔の、女性、綺麗な人、指先の感覚が空気の質量も感じるくらいにぴりぴりと膨れ上がって、視覚にべったり絡みつく。真っ白なビキニを押し上げる膨らみの上に圧迫される脳が絞りだした絶叫が乗っかる。掴んで、引き裂いて、耐えられないだろ、早く、はやく、表紙を指がつまんで引き下ろす感覚が脳の深い部分に突き刺さる。今の今までがんじがらめにされていたものが急に紐を全部切られたような感覚。彼女の大きな目を横断するようにまた引き裂く。内臓が緩んでいく。触覚が落ち着き始める。僕には問題がある。綺麗な人だ。白い肌、大きな目、ぷっくりとした唇、艶のある髪。顔面をずたずたにしてからへその方に指を滑らせる。僕には問題がある。彼女だってまさかこんな使い方されると思わなかったろう。割腹みたいに横一文字に引き破る。それでも実際に顔面をぐちゃぐちゃにされるよりはマシだ、絶対そうだ、胸を引き裂く、紙の感触、僕には問題がある。ほんの束の間、体はあらゆる圧迫から自由になる。

 僕には問題がある。

 綺麗なものを、壊さずにはいられない。

 

 

 

 表紙がビリビリになった漫画雑誌はビニール袋に放りこみ、リュックサックを背負ってトイレを出る。


「また合コン?」

「合コンじゃねーよ春のワクワク親睦会!」

「こないだのインカレ新歓にいた女子大の子たちとまたメシ行こうぜってなってさ」


 何でか知らないけど中学でも高校でも大学入っても、トイレ前のちょっと広い空間にたまりたがる奴ってのはいる。

 しょっちゅうトイレに立てこもる僕にしてみるとそういう層は結構迷惑というか、怖い。廊下にたむろして話す人種は全員怖い。あの集団は全員男だが、女の子なんていたらもう本当に無理だ。女子比率20%割れの理学部数学科に入ったのはそういう理由もなくもない。

 いまどきの女の子と言う奴はみんなけっこう小綺麗だ。公共空間で女の子に掴みかかるような真似は万が一にも避けたい。小学生じゃないんだ、次にやらかしたら社会的に死んでしまう。

 あと普通に根暗挙動不審野郎だと同級生に思われているらしいから今更僕としても付き合いづらいというか、いや、まったくもってその通りなんだけど、ともあれ、あんまりあの横突っ切っていきたくないな、どかないかな、とリュックサックの中身を整理するふりをしながら学生4人組を横目で伺っていると、聞きなれた声が談笑に聞こえた。


「キムラも来いって。バイト休みだろ? お前が来ると喜ばれる」

「あはは、そうなの?」


 周りより頭一つ背の低い学生が愛想よく、明るい笑い声をあげている。やっぱりキムラくんだ。

 キムラくんはどちらかと言えば小柄だが、派手なので遠めに見ても一発でわかる。がっつり脱色された金髪に、今日は劇画風のゾンビが描かれた灰色のTシャツと蛍光オレンジのズボンだ。ああいうのってどこで売ってるんだろうな。僕自身はネット通販でしか服を買わないからわからない。


「そうなの? じゃねーよ、こないだすごかったじゃねえか」

「キムラってそんなモテるの?」

「高橋くんとかのがモテてるよ」


 どうしようか、声掛けていった方がいいんだろうか。別にキムラくんは僕がシカトしたところで気にしないだろうけど。


「こいつはモテるっつーか、女の子おだてるの上手いんだよ」

「『かわいい』とか『美人』とか初対面の女子に臆面無く言うもんな」

「だって言うと喜ばれるし」


 そういうとこだよ、と誰かが言う。まあ僕もそういうとこだよなキムラくん、とは思う。褒め上手の聞き上手というか、人に好かれるのが妙にうまい。屈託なさそうだから媚びてる感じがしないんだろうな。僕もキムラくんといると割と安心するけど。

 横目でちらちら伺っていたら、話していたうちの1人と目が合ってしまった。


「じゃあ合コン連れてったら全部持ってかれちまうんじゃん?」


 会話は一見何事もなかったかのように進んでいるが、しかし微妙に4人がトイレの前を空けるように移動した。いやありがたい。もう別に不気味がられていることはいい。今更なじめる気もしないし。避けてくれたのだからありがたく通っていこう。


「それがよ、こいつ付き合うとこまで行っても妙に長続きしないんだよな」

「お前、なんかしてんの?」

「してないよ」

「まあキムラがズレてるのはそうだもんな、服のセンスやばいし、こないだもやっばいブスのこと一目見るなり『かわいい』って言いだして」

「そんなことあったっけ?」


 すれ違いざま、そらとぼけるようなことを言うキムラくんの顔から笑顔が消えるのが見えた。思わず振り返ってしまう。キムラくんも僕に気づいたらしくちらっと首を傾けてくる。

 これは助けろってことなのかな。どうだろうか。キムラくんが何を考えてるかなんてわからないし、そんな発想があるのかどうかも怪しい。


「俺ら気ぃ遣って外見の話とかしなかったのに、それで場が凍ったもんな──」


 なのでこれは完全に僕の独断だ。

 床を凝視したまま大股でキムラくんに歩み寄って肩を叩く。明らかにグループの空気が凍る。かろうじてキムラくんの顔を横目に捉えながら口を開くと、もう笑ってしまうくらいに顔の筋肉が強張っているのが分かった。実際には笑うどころかとんでもなく怖い顔をしているだろうけれど。


「やまにしくんじゃん」


 キムラくんからさっきまでの人懐こそうな笑顔がごっそりなくなっている。普段ニコニコしている人の真顔って結構怖いと僕は思う。


「キムラくん、今日買い出し当番でしょ」

「俺? そうだっけ?」

「そうだよ」


 いや嘘だけど。キムラくんは無言で状況を整理している。他が3人からの視線が痛い。空気がいい加減重いので頼む早く何か喋ってくれ、こんなことするんじゃなかった、と内心頭を抱えたところで、ぱちんとスイッチがはいったようにキムラくんが笑顔になる。


「うん、そうだったね! ごめん!」


 キムラくんはくるっと身を翻すと「ごめん、俺帰るから」と言うと、ぽかんとしている3人も俺も置いてスタスタ歩き始めてしまう。慌てて後を追う俺の耳に、取り残された3人の控えめな声が聞こえる。


「……やまにしってちょっと怖ぇよな」

「目がやばいっつーか」

「キムラ、あいつと一緒に住んでんだろ」

「らしいけど、俺あいつからやまにしの話聞いたことねえ」

「謎だよなー……」


 聞こえてる聞こえてる。慣れてるからいいけどさ。


「ごめん、なんかまずい流れっぽかったから連れ出しちゃったけど、合コン行くんだったんだよね」


 キムラくんに追いついて謝ると、キムラくんはううん、と笑った。


「あれ以上あの話続いてたらついてける気しなかったし」

「……よかった」


 自分で自分の顔のこわばりが緩んでいくのが分かる。


「キムラくんの友達みんな派手だから割って入るの怖くて……っていうか目に入れるのもギリ無理……」

「そうなの?」

「そうなんだよ」

「じゃあますますありがとうだね。『怖い』と『無理』はマイナスだから、その分を加味して評価しないと。お礼にグラビア写真集でもケーキでもなんでも買ったげる」

「……あのねキムラくん」


 階段を下りながら、僕は言葉を探す。別に僕の言葉でキムラくんが傷つくとは思ってないけど、キムラくんにちゃんと伝わるような言葉を選ぶのはちょっと難しい。


「普段からさ、それくらい考えて人のこと褒めなよ。やみくもに褒めると逆に嫌味に聞こえるし」

「そうなの?」

「そうなんだよ、僕が『明るく活発』なんて言われても皮肉だと思うだろうし、キムラくんが『人の心が良く分かってる』なんて──」


 口が、滑った。

 青ざめているだろう僕を振り返り、一歩先のキムラくんは何も言わずにニコニコとただ僕の言葉を待っている。そうだ、僕の言ったことでキムラくんが傷つくなんてことは無い。無いんだけど、これは僕の気分の問題だ。たとえボケ老人相手でも暴言を吐いたら罪悪感を覚えるのと一緒の、道徳的な気分の問題。


「……とにかく、人を褒めるにしたって言葉は選べってこと」

「あの子は『かわいい』じゃなかったってこと? やまにしくんはいつ女の子に『かわいい』って言う?」

「会ってないんだから知らないよ」

「写真見る?」

「いいよ、可愛かったら困るし」

「『おいしそう』ならよかったかな」


 そういえばキムラくんにくっついてあまり使わない方の階段に来てしまったなと思って、ふと顔をあげる。


「やまにしくんは『おいしそう』って言われたら、嬉しい?」


 薄暗い玄関口の向こう、振り返るキムラくんの背後に、桜並木が見えた。


「あ」


 ぎちりと脳が締め上げられる。指先がぴりぴりと震える。胃の奥で熱いものが跳ねている。

 春は、美しい季節だ。

 指がさまよう。景色はあまりに遠い。目を離せ、という理性からの指令がようやく体に届いて、ほとんど壁に頭を打ち付ける勢いで視線を逸らした。一瞬にして挙動がおかしくなった僕を見て、「あ、桜か」とキムラくんがのんきに呟く。


「えーと、なんかあったかな? これは? これ潰す? これ『綺麗』?」


 キムラくんが飲みかけのお茶のペットボトルを差し出してくるが、手のひらで押し返した。


「いい、綺麗じゃないし、中身入ってるし……」

「そうなんだ?」

「あんまりペットボトルのこと綺麗っていう人、知らないな」


 ビニール袋をひっくり返して、漫画雑誌のボロボロの表紙を引きちぎる。巻頭カラーのグラビアページを引きはがし、寝そべるモデルの体を真っ二つに破いた。かわいいひとだ。そのまま顔部分が小指の爪大の紙片になるまで細かく、細かく、なるべく細かく、綺麗な顔が、判別不能になるまで、もはや綺麗ともなんとも言えなくなるまで、細かくちぎってビニール袋の中に落としていく。

 少しずつ、感覚が元の通りに収まっていくのに合わせて2,3度深呼吸をする。


「こうしてみると似てるもんだね」


 キムラくんが床に落ちた紙切れを拾い上げて、外の景色に透かしているのがちらりと目の端に映った。


「綺麗っていうのはこういうことかな」


 全然違う。違うけど、僕はそれを説明できる元気はないし、第一キムラくんには分からない。


「みんな桜の花好きじゃん、でも俺さー幹んとこ方がおいしそうだと思うんだけど」

「……あっそ」


 キムラくんには問題がある。キムラくんには「綺麗」ってものが分からない。




 キムラくんが「別の出口から帰ろっか」と言ってくれたので、それ以上並木を見ることなくいつも通り商店街側に出ることが出来た。

 なるべく道行く人と目を合わせないように、キムラくんの靴のかかとに焦点を合わせて歩く。服と比べて地味な灰色のスニーカーの結構速足なテンポに合わせてキムラくんが喋っている。


「ハム、ハム買うから今日」

「任せるよ」

「俺、今日めっちゃハムの気分なの」


 わはは、と意味がなさそうな感じに笑ってちょっと振り返り、キムラくんはうつむいた俺の顔の前で手を振った。


「先帰ってる?」


 僕がうなずくと、「じゃあね」と言ってキムラくんはぱっと身をひるがえした。

 スーパーマーケットの自動ドアを軽々くぐるキムラくんを見送ってから、僕は裏道を通って一人で家へと向かう。

 

 僕はスーパーマーケットに入れない。入れないこともないけどなるべくなら入りたくないので多少誇張した表現でキムラくんをなだめすかし、日々の買い物当番を押し付けている。

 人のいるところは出来るだけ避けたい。ぴかぴかのフルーツや卵が積まれているところを目に入れると、発作がやってきかねない。

 僕のこれを発作と表現したのはキムラくんだ。

 綺麗なもの、可愛いもの、うつくしいもの、かっこいいもの。

 そういうものを見ると、駄目にしたくてたまらなくなる。

 それが気持ちいいとか楽しいとかではなく、息をいつまでも止めていられないとか、排泄を我慢し続けることはできないとか、そういう次元の話だ。

 そんなことは無いはずなのに、壊せないなら死ぬしかないと、僕の脳はそう思っている。

 可愛い動物を見ると動かなくなるまで地面に叩きつけたくなる。綺麗な花を見ると踏みつぶしたくなる。

 だからなるべく足元だけを見て歩く。一歩ごとに物を壊して歩くのはごめんだ。

 そうして黙々と大学から徒歩で8分、築30年2DKが家賃7万5千円を折半する我々の家である。日当たりの悪さと壁の薄さがややネックだがまあ贅沢は言わない。アクティブなキムラくんとしては駅から遠いのが面倒らしいが、出不精の僕にはあまり関係がないし。

 リュックから紙くずと化した月刊誌を取り出してゴミ箱に放り込む。

 今日はひどく疲れた気がして、そのままリュックを放り出し座卓の下に半分潜り込むようにリビングの床に転がる。

 桜が散るまで大学を休みたいがそれをやると落単は免れないし、それがもとで留年になったら困る。

 春は憂鬱な季節だ。綺麗なものが多すぎる。花とか。花とか。

 近寄りがたくて、眩しくて、神経が暴走しっぱなしでぐったりしてしまう。

 僕が近寄れるものは醜いものに汚いもの、どうでもいいもの、それから。


「ただいま」

「……早かったね」


 壊すまでもなく壊れているものだけだ。



 キムラくんに渡されたスーパーのビニール袋をのぞき込む。基本的にはキムラくんが買い出しで僕が料理の担当だ。食費も折半、ただし嗜好品を除く。


「ウインナーじゃん」

「おいしいからね! いいじゃん別に日持ちするし。ハムも買ったし、あとトマトね、トマト。大きくて傷が無くて赤いやつ。だから怒んないで」

「別に怒られたって何ともないくせに」


 不幸中の幸いと言うべきだろうか。どんな水でものどの渇きは潤されるように、僕の衝動もある程度代替品で解消できる。本物の女の子の代わりにグラビアピンナップの美女、桜の代わりはまあ、今日はトマトでいいだろう。「傷が無くて色が濃い」、僕がキムラくんに教えた『綺麗』なトマトの条件だ。

 自炊を始めてから気づいたけれど、料理ってのはいいもんだ。

 台所なら綺麗なものを切り刻んでも割っても潰しても誰にも文句は言われない。




「というわけで今日は卵あったから張り切ってオムライスです。中身はチキンライスじゃなくてハムライスだけど。ウインナーは明日ね」

「いえーい」


 なんと付け合わせにトマトもつけてある。くし切りではなくみじん切りのドロドロだがスプーンですくえばよろしい。僕にとっては切り刻むという行為が大事なのだ。


「いただきまーす」


 好き嫌いがないのは良いことだ。「おいしいものが好き」とか言う具体性のない嗜好をしている我が同居人だがはっきり言って食べられるものは何でも食べる。


「おいしいです」

「そりゃどうも」


 僕はと言えば料理は好きだが、あまり食事自体に興味がない。

 興味はないが、ただ食事をしているときはキムラくんとわりと会話が成立するので、二人で食事をできるときはなるべくしようと思っている。


「これハムライスって呼ぶ人あんまり聞かないけどね。ケチャップライスじゃない?」

「チキンじゃなくてハムだからハムライスでしょ」


 これはたぶん、僕がこの世の人間と一番まっとうに会話ができる時間なのだ。


「やまにしくん、電話」


 低いバイブレーションの音にキムラくんが手を止める。


「そうだね」

「『そうだね』じゃなくて、電話鳴ってるよ」

「……僕か!」


 完全に他人事だと思っていた。友達の多いキムラくんならいざ知らず、僕に電話がかかってくるなんて。携帯なんてこの一年ちょっと、キムラくんにお使いを頼むメッセージを送るか、バイト先に火急の連絡をするかの2択でしか使っていない。

 狼狽えているうちに電話は切れてしまった。一応相手を確認するためにリュックをひっくり返して携帯を取り出す。いまや大学生世代では絶滅危惧種である僕のガラケーを見て、キムラくんが言う。


「それ買い換えないの? もうだいぶ古いよね」

「『古い』は分かるんだ」

「だって単に使われてる年数が長くて、市場の主流モデルじゃないってことでしょ」

「まあ、そうだけど……」


 手の中の携帯電話が短く鳴る。


「ヒッ」

「さっきの人かな」

「僕に誰が何の用だよ!」

「バイト先とかじゃないの?」

「そうであってほしい……」


 とはいえ、僕から掛けるならまだしもバイト先からじかに電話が来たことは、実は一度もない。キムラくんの視線にさらされながらおっかなびっくり携帯を開いて、メールの差出人名を確認する。


「……母さんだ」

「身内じゃん」


 携帯は高校からずっと同じものだし、アドレスも番号もいじってないのだからそりゃ連絡がつくのは何もおかしくない。

 キムラくんは興味を失ったらしく食事を再開する。僕はメールを開く。

 指が震えるのが分かった。

 母親を相手として除外していたのは、もう一年、連絡を取っていないからだ。できればずっと、少なくとも在学中は連絡を絶ったままでいたかった。


『久しぶり、もう学校は始まったの?』

『奈緒もこの春から高校生です』


 夏も正月も家に帰らなかった。家族にはなるべく会いたくない。

 そんな息子でも母親は心配なのだろうか。

 泣きたいような、恐ろしいような、嬉しいような気持ちで文面を読み進めていく。


『本当は休みに帰ってきたら見せようと思ったんだけど、結局帰ってこなかったから』


 文章だと思って油断していた。


『写真を送ります』


 画面の下半分に映り込む、ブレザーを着た少女。そんな他人行儀なものじゃない。はにかんだ顔。笑っているときはことさら顔を見ないようにしていたけれど、そうだ誕生日なんかにこんな顔をしていたような気がする。元気そうな顔。お兄ちゃんはもっと人と関わりなよなんて、本気で心配そうにしてくれた別れ際が頭によぎった。

 駄目だ。

 駄目だ駄目だ駄目だ。

 もう駄目だ。

 手から携帯が滑り落ちる。派手な音を立てて床に落ちたそれを、躊躇う間もなく足は踏みつけていた。何度も、何度も。

 ばきりと関節部分からひしゃげ、転がるものをきちんと目に捉えた瞬間、血の気が引いた。とたんに足の痛みを感じ、床にへたり込む。まだディスプレイを光らせている携帯を掴んで、壁に叩きつける。あんたすぐもの壊すから、とにかく頑丈な奴にしようか、と伏し目で笑った母親の顔がよぎる。

 キムラくんは何も言わずにそれを見ていた。

 吐き気がせりあがってくるのに、あふれてくるのは涙ばかりだった。

 僕には問題がある。

 綺麗なものを壊さずにはいられない。綺麗だと僕が思った物を、僕はめちゃくちゃにしてしまう。

 それでも、こんな僕にすら心はある。

 綺麗なものは好きだ。美しいものは良いものだ。好きなものは、余計に綺麗に見えるものだ。だって心があるから。

 家族。どうしようもない僕にも、それでもなんとか優しくしてくれた僕の家族。好きだ。大事にしたい。大事にしたいくらい、好きで、綺麗に見える。

 だから壊さなければ息もできない。目にも入れられない。遠ざかって目も耳も閉じて初めてなんとか生きていける。


 死んだら地獄に落ちたい。そこには美しいものはなく、家族もあこがれの人もきっとやってこない場所だろうと思う。

 

「それは『悲しい』? 『苦しい』? 『痛い』? それとも他の何か?」


 表情のごっそりなくなったキムラくんの顔が、蹲る僕をみつめて問いかけてくる。そこからゆっくりと視線をそらして、僕は首を横に振った。


「全部違うの?」

「……全部なんだよ」

「ふうん、複雑だ」


 キムラくんはぺたぺたと這ってきて、ばちばちと明滅しながらもまだ写真をかろうじて映しているディスプレイを指した。


「これ誰?」

「妹」

「『かわいい』?」

「……すっごく」

「そっかあ。『良かった』ねえ」


 良いも悪いもわからないくせに、誰かのセリフをなぞる声ばかりは心底の同情の色をしている。


「……僕の妹、おいしそう?」

 無駄な質問をしたのは、キムラくん自身の言葉を聞きたかっただろうか。唐突な僕の問いに、ん、とキムラくんは首をかしげる。戯画的で、わざとらしいふるまい。


「うーん、やまにしくんには悪いけど、あんまり。しらたきって感じ」

「しらたきはおいしくないんだ」

「味しないじゃん」


 キムラくんはそう言って意味もなく笑う。ただの反射だ。

人が話しかけてきたから笑う。目の前にいるから誉める。反射。プログラム。空っぽの、学習の賜物。

 『明るく』『優しく』『みんなに好かれる』キムラくんには、人の心がわからない。

 『綺麗』も『かわいい』も『辛い』も『悲しい』も人間なら誰だってわかる価値や感情が理解できない。理解を拒んでいるのでも感性が独特なのでもない。30㎝の定規で物の重さや水の量を量れないのと同じだ。それを理解するように、キムラくんは出来ていない。

 キムラくんの持っている主観の物差しには『おいしい』と『おいしくない』だけがでかでかと書かれている。それだけがすべてだ。主観的なバロメータすべてが、彼の脳のバグった回路で変換されてその両極の間のどこかになって出力される。

 ウインナー。ハムライス。桜の幹。ゾンビのTシャツ。おいしい、らしい、ものたち。かわいいかわいい、しらたきみたいにおいしくない僕の妹。

 考えるだけ、無駄だ。


「やまにしくんどうしたの」


 キムラくんの側にいると安心できる。その事実さえあればいい。

 『美しい』も『愛おしい』も理解できないキムラくんは、きっとそのようなものになることはない。

 僕はきっと彼のことだけは、壊したくなることはないだろう。

 オムライスにスプーンを突き立て、卵の膜を破る。

 一口分を口に押し込んで咀嚼する。

 壊さなければ生きてはいけない。それをわかっていて、しがみついていく。

 そのためには逃げ場所が必要だった。


「いや、我ながらおいしいなと思って」




 キムラくん。みんなに好かれる同級生。僕の同居人。

 君が壊れていて、本当に良かった。

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