第38話 水妖
ナヴゥルの左肩から、鮮血と同色のエーテルが溢れ出している。
しかし如何ほどのダメージも無いのか、ナヴゥルは改めて戦斧を構える。
元より肩口の筋肉は鋼の様に強靭であり、刃の食い込みも深くは無かった。
しかも戦闘用コッペリアとして調整されているナヴゥルは、仕合に際して痛覚を抑制してある、浅いダメージ程度では小揺るぎもしないのだ。
その両腕に装備された強化外殻の甲冑籠手から、蒸気が立ち昇っていた。
ナヴゥルの視線が向かう先では、闘技場の床に片膝を着くエリーゼ。
距離にして七メートル。
右手には、回収した抜き身のロングソード。
身に纏うタイトなドレスは、既に余す所無く、紅に染まっている。
胸元、頬、腕、脚、全身を僅かずつ、刃で浅く裂かれている。
深手では無いかも知れない、しかし出血量は少なく無い。
その姿で判断するなら、誰の眼にもエリーゼが劣勢と映るだろう。
しかしエリーゼの眼に、憔悴の色は無い。
むしろ、口許には淡い微笑みすら浮かぶ。
そんなエリーゼの背後には、半透明の球体がふたつ。
煌めきを乱反射させつつ、空中に浮かぶ。
それは落下する事無く高速旋回し続ける、二本のスローイング・ダガーだ。
エリーゼが『ドライツェン・エイワズ』からワイヤーを伸ばし、フックを用いてナヴゥルへの攻撃に使用した物だった。
左腕が緩やかに動く、空間を撫でる様にそよぐ。
静かな微笑みと、旋回し続けるダガー。
ナヴゥルの眼には挑発と映ったのだろう。
「思い上がるなよ、愛玩人形。死と暴虐を司る精霊『ナクラビィ』の刃が、その笑みを口ごと削ぎ落としてくれよう……」
「それは違います」
怒気の滲むナヴゥルの言葉を、エリーゼは涼やかな声で否定した。
静かに立ち上がり、続ける。
「ナクラビィは、死と暴虐を司る精霊ではございません。その在り方は云わば『水妖』と呼ぶべきもの。海に潜みて人畜に仇成し命を奪う、姿の恐ろしさも相まって、人々に忌み嫌われ、唾棄される……いわば『妖怪』とでも呼ぶべき怪物にございましょう」
「……だから、どうだと?」
すっと眼を細めるナヴゥルに、エリーゼは淡々と応じる。
感情の揺らぎやブレなどは一切感じさせない。
「ナクラビィを畏怖する人の想いに、興味はございません。そこに至った理由にも。私が興味を覚える点はひとつ……水妖の業。水に在るとされる妖の類いは凡そ、そこに在る事で意味を成すモノにございます――」
「玩具の寝言は耳障りに過ぎる」
ナヴゥルは戦斧を横に構えつつ、身体を低く沈める。
「――つまり水妖の類いは『水』という『場に憑く』怪異で『水場』を好む。オートマータの身体を得ても、元来の性質はさほど変わらない。オートマータとはそういう物でございましょう。水妖なれば『悪意』を成すに際して『水』という『場』を望むのでございます」
「その口は削ぎ落とすに限る」
ナヴゥルは苛立ちを隠す事無く、断ち切る様に言う。
エリーゼまでの距離は七メートルだが、遠い距離では無い。
横構えの戦斧――長さは二・五メートル。
ナヴゥルはこれの、柄頭のみを掴んで振り切る事が出来る。
腕の長さと上体の捻りまで含めれば、それだけで四メートル。
単純な距離で言えば、僅か三メートルの踏み込みで刃が届く。
仮にロングソードで迎撃されたとしても、戦斧のリーチで勝る。
止める事も反らす事も叶わぬ筈だ、筋力の差で押し切れる。
スローイング・ダガーを用いた攻撃も、撹乱に過ぎない。
痛覚を抑制している上に、急所以外なら筋肉で抑え込める。
瞬発力もこちらが勝る、一気に踏み込めば、相手は後手に回らざるを得ない。
加えて、自身に備わる『能力』により、エリーゼの行動は『読める』。
このアドバンテージは覆らない。
余裕を見せていても流血は本物だ、仕合が進めば必ず動きが鈍る。
先の反撃。
奴が背中に装備した『武装』――その構造の複雑さと特殊性故に『知覚』の虚を突かれる形となった。しかし攻防を重ねる中で、複雑な機構から生ずる『起こり』の感覚も、徐々に正しく掴める様になって来ている。
あと幾らも掛からぬうちに、確実な挙動を把握するに至るだろう。
つまるところ多少の抵抗はあれど、結果は変わる事無く必殺。
ならば。
躊躇の無い突撃がエリーゼを襲った。
粉塵を巻き上げ突っ込むナヴゥルは、漆黒の砲弾を思わせた。
対するエリーゼは、ナヴゥルの突撃と同時に、後方へ跳躍する。
今までの様に、タイミングのズレや遅延は無い。
ナヴゥルの移動と完全に同期した、完璧な跳躍回避だ。
更に、左腕を軽やかに躍らせる。
高速で旋回し、空中に静止していた二本のダガーが、弾ける様に射出された。
が、ナヴゥルは一切怯まない。
自身の頭部目掛けて飛来するダガーへ、視線を送る事すらしない。
そのまま猛然と間合いへ踏み込む。
エリーゼの後方跳躍も、ダガーの射出も、ナヴゥルは全て把握している。
同時に動けたとしても、結果は変わらない。
むしろ、ズレや遅延が無い分、はっきりとエリーゼの行動が読める。
神速の踏み込みは、跳躍するエリーゼを射程に捉えた。
加撃可能な距離だ、その上でナヴゥルが仕掛けた攻撃は、溜めを作った横構えから繰り出す、渾身の薙ぎ斬り――では無かった。
横構えは見せ掛けであり、放たれた戦斧の軌跡は高速の縦回転。
戦斧先端は下から前方へと、小さな銀輪を描きつつ流れる。
そこから繰り出された攻撃は、閃光の如き刺突。
横薙ぎと誤認させてからの刺突は、距離と速度を見誤らせるに足る技だ。
強烈に突き出されるナヴゥルの右腕。
手の中で、戦斧の柄が縦に疾走り抜け、間合いが伸びる。
エリーゼが後方へワイヤーを放ち、加速に用いると確信している。
得物から開放されたナヴゥルの左掌は、眼前へ翳される。
直後、飛び来るダガーを二本とも掴み取っていた。
全てを読み切り、全てを見切っていた。
戦斧先端に設けられた鋭利なスパイクが、エリーゼの喉元へ迫る。
後方へ跳躍し、空中でワイヤーを用いて加速するエリーゼに追い縋る。
全ては予定調和の如くに。
全てはナヴゥルが予想通りに。
そのままエリーゼの喉へ、切っ先が吸い込まれる様に――。
が。
エリーゼは驚くべき柔軟さで身体を捻りつつ、大きく仰け反った。
そのまま低空で旋回、姿勢を入れ替える。
更に、ナヴゥルの足元へと滑り込んだ。
ワイヤーを用いての挙動か。
それは慣性の法則を無視した流れる様な動き――有り得ない姿勢制御だ。
ナヴゥルは眼を見開く。
初動に遅延やズレも無かった、読みは確実だった。
背中の『武装』から得られる『起こり』の感覚も掴み掛けている。
にも拘らず、予想は大きく外され、回避されたのだ。
否、読み切れぬ行動は回避に止まらない。
戦斧を突き出し伸び切った右腕に、斜め下から高速の斬撃が跳ね上がる。
エリーゼが手にしていたロングソードだ。
身体ごと旋回しながらの逆袈裟斬り。
「ちぃッ」
ナヴゥルは甲冑籠手に仕込んだ隠し爪で、エリーゼの繰り出す白刃を弾いた。
火花が飛び散り、激しい衝撃が右腕を襲う、しかし耐え切れぬ程では無い。
体を入れ替え、ダガーを投げ捨てると、両手で戦斧を構え直す。
直後、不穏な微かな風切り音が、ナヴゥルの耳朶を打つ。
「!?」
視界の隅で銀光が煌めく。
旋回しつつ喉許へと飛来する、スローイング・ダガーだ。
驚くほどに距離が近い。それも二本。
まさか、今、投げ捨てたダガーか?
ナヴゥルは上体を仰け反らせながら戦斧を振るい、ダガーを弾く。
ダガーは喉を逸れ、ナヴゥルの頬と腕に朱線を引き、床の上を滑る。
「くっ……」
ナヴゥルもまた身体ごと旋回し、ダガーを弾いた勢いのままに戦斧を振るう。
ワイヤーで距離を取ろうとするエリーゼに、上から叩きつける一撃だ。
しかし届かない、エリーゼは全身のバネを駆使して回避する。
しなやかに、柔軟に、それでいて機械仕掛けの様に。
後方転回を繰り返しながら、ナヴゥルから距離を取る。
なおも追い縋ろうと、ナヴゥルは体勢の崩れも構わず踏み込み、戦斧を振るうが、やはり届かない。
エリーゼは連続後方転回から一際高く背面へ跳躍、大きく距離を取った。
戦斧を振り切ったナヴゥルの視線、一〇メートルほど先。
緩やかな弧を描き、軽やかに宙を舞う小さな身体。
やがて爪先から着地する――しかしそこは、石床の上では無かった。
カチンと、冷たい金属音が響く。
それはロングソードの切先が、石床に触れた音だった。
鋭利に尖った刃の先端。
その一点のみが、床に触れている。
突き立てる様な形で、直立するロングソード。
その上に。
飄然とエリーゼが立ち上がっていた。
どれほどに研ぎ澄まされた平行感覚のなせる業か。
エリーゼは口を開いた。
「……水妖は『水場』を好むもの。それが海魔たる『ナクラビィ』であるならば『海』を望む筈。どの様に姿を変えても、その性質は変わらない、『ナクラビィ』にとって最良の狩場は、やはり『海』」
鮮血の如きエーテルに塗れた、真紅のドレスを纏ったまま。
背を伸ばし、腕を垂らし、爪先を揃えて真っ直ぐに。
僅かにぶれる事も、揺らぐ事も無く。
その立ち姿は驚く程に自然体であり、それがむしろ異様であった。
「過去の例を鑑みるに――」
エリーゼは緩やかに両手を広げ、指先を滑らかに躍らせる。
複数の風切り音が、小さく響く。
「数多のオートマータが、魔物たる自身に相応しい『場』を望んだ様に、水妖にして海魔たる貴方もまた『海』を望み、この場を『海』と『見立て』、策を弄し、仕合に臨んだのでございましょう」
剣の上に立ち、静かに囁くエリーゼの背後に、半透明の球体が四つ。
それは空中にて高速旋回を続ける、四本のスローイング・ダガーだった。
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