第26話 黒い影とお勤め初日 後編

最後のGHDGの和音がリュフトシュタインから離れ、人々を通り越し、祈りの塔の壁にすうっと吸い込まれるように消えていく。







 私はふうっと息を吐いて、手足を鍵盤から一旦戻した。祈りの塔の中は、水を打ったように静まり返っている。



 これで終わりじゃないんだよ。今日はまだもう一曲あるんだから。







 私は、記憶させたコンビネーションを一度全てリセットする。



「リュフトシュタイン、ちょっとコンビネーションを変えるからね。今度は、『G線上のアリア』っていう名前で覚えておいて」



「相分かったぞ」



 私はリュフトシュタインの返事を聴きながら、昨日の夜にソフィアが選んだ『Air on the G string』の楽譜を頭の中で広げつつ、ストップレバーとコンビネーションボタンを操作していく。







『Air on the G string』



 『G線上のアリア』と和訳され、よく学校の卒業式とかでも使われるので、ほとんどの人が聞き馴染みのある曲だろう。だがこのタイトルは、実はバッハ様が付けたものではないことはあまり知られていない。



 G線上のアリアの元になった曲は、バッハ様作曲の『管弦楽組曲第3番』第2楽章のアリア。

Airはエアと読むけれど空気のことではなく、オペラの独唱にあたるアリアのことだ。

 バッハ様がこのアリアを作った当時は、それほど注目を浴びなかったと言われているこの曲だが、のちにヴァイオリニストのアウグスト・ヴィルヘルミによってピアノ伴奏付のヴァイオリンの曲へと編曲されたこともあり、その知名度が格段に上がっていく。



 ヴィルヘルミは、ヴァイオリニストであると同時にたくさんの曲をヴァイオリン用へと編曲した、編曲者でもあると言われている。当時、ヴァイオリンのGゲー線という、4本ある弦のうち、一番低い音が出る弦だけで演奏するというパフォーマンスが流行していた。

G線上のアリアもその流行に乗って編曲された曲の一つだ。G線だけで演奏できるよう、原曲のニ長調からハ長調に書き直されている。



 だから、オーケストラやパイプオルガンで弾くG線上のアリアは全然G線上じゃない。私が、最初にこの曲をオーケストラの演奏で聴いた時、「冒頭からEエー線じゃん。どこがGゲー線上なの?」と不思議に思ったものだ。両者は似ているけれど、実は別物なのだ。






 私は、リュフトシュタインにコンビネーションを記憶させながら、くすりと笑みをこぼす。そして、右足でスウェルという音量調節のためのペダルを試しに踏んでみる。



 パイプオルガンは、ピアノと違ってその鍵盤では音量調節ができない。鍵盤は、オンオフを切り替えるスイッチのようなもので、打鍵が強くても弱くても音量は同じだ。



 だから、音量を調整したいならストップレバーを使って鳴るパイプの数を減らすか、スウェル・ペダルというパイプの中のシャッターを開閉できるペダルを踏んで、全体の音量を上げ下げするのだ。



 ちなみに、スウェルを踏み込むと音量が大きくなるだけじゃなく、音色もはっきりする。逆にスウェルを戻すと音は小さく、柔らかくなる。イメージは車のアクセルペダルのような感じだろうか。



 私は手鍵盤でFisファ♯を押さえながら、スウェルをゆっくりと踏み込み、そして戻すのを何度か繰り返す。スウェルの踏み込み具合でどんな音量、そして音色をリュフトシュタインが出すのかを確認した。



 ちなみに、さっき演奏した『主よ、人の望みの喜びよ』では、私はスウェルをいちいち操作しない。バッハ様が強弱の指示をしていないこともあるけれど、その必要性を感じないからだ。

 でも、アリアは別だ。それらしく、叙情的に弾くのに絶対にスウェルの操作が必要だ。それも繊細な操作が。……うう、この身体ではかなり辛い。



 コンビネーションのセッティングとスウェル・ペダルの感触を確かめた私は、もう一つの曲を弾こうと、鍵盤に両手と左足、そしてスウェルに右足を乗せて構えた。










 G線上のアリア。今は原曲通り、ニ長調というFファCシャープが付く楽譜で弾いているので、厳密にはG線上じゃないんだけれど、便宜上G線上のアリアということにしておく。



 私は、そのアリアの名に相応しく、オペラの独唱のように感情豊かに歌い上げることをイメージしながら、その美しい曲を弾き始めた。






 第一ヴァイオリンのFisファ♯と第二ヴァイオリンのDの伸びやかなハーモニーに、ヴィオラのAからHが加わることでのハーモニー移り変わりを感じながら、私はスウェルをほんの少しずつ踏み込む。実際のアリアであれば、歌い手がビブラートを利かせる様に。弦楽器ならばボーイングでゆるやかにクレッシェンドをかけるように、リュフトシュタインを鳴らしていく。



 左足では、コントラバスがピッチカートという、弓ではなく指で弦を弾きながら演奏するように、足鍵盤の上を滑るように動かしながら8分音符をゆったりと刻んでいく。



 『主よ、人の望みの喜びよ』と違い、バッハ様がこの曲を作った背景ははっきりとはわかっていない。これだけ美しいメロディーのアリアなのだ。歌が付いていたとすれば、どんな歌詞だっただろうか。






 ああ、なぜこの曲は、バッハ様の生前だけでなく、死後約100年もの間も埋もれていたのだろう。ああ、信じられない! ああ、なんてもったいないことを!





 私は、時に上下の手鍵盤を跨りながら、音がぷつりと途切れてしまわないようにギリギリまで指を伸ばし、この美しい響きを、そして音の流れを維持していく。



 

 浜辺に打っては返す波のように繰り返される、美しく、そして切ないメロディー。アリアに相応しく叙情的に歌うその旋律に、私は一人、元の世界へ残してきた両親や妹への思いを乗せて弾き続けた。











 最後にDFisファ♯ADの明るい和音鳴らし、私はストップレバーを1本ずつ静かにオフにしていく。そして、いくつかオフにしたところで、スウェルを戻しながらゆっくりと鍵盤から手足を離す。

 祈りの塔いっぱいに溢れていた音が、少しずつその響きの範囲を狭め、そして私の手が離れると同時にふわりと余韻を残して消えていった。













 祈りの塔は静まり返ったままだった。後ろを振り返らなければ、数千人がひしめき合ってたことなど忘れてしまいそうだった。



 昨日はハルモニア様のせいで、一面みんなひれ伏していて困った。今日は入って来た時からすごい人数で驚いたし、あんまり良くない雰囲気も感じて狼狽えた。今度はどうなるのか……考えると気が重くなって、ここから動くのが嫌になってしまう。



 でも、弾き終わったのにいつまでもここにいるわけにはいかない。とりあえずお母様に声をかけて、さっさと屋敷に帰ってしまおう。うん、そうしよう。



 そう自分の中で心の準備をすると、私はリュフトシュタインの椅子からぴょんと飛び降りた。



「リュフトシュタイン、ありがとう。そして、お疲れ様。また明日ね!」



「おう! 待ってるからな! 忘れずに来いよ!」



「おなかすくのー、あしたもはやくくるのー!」



 口ぐちに別れの挨拶をしてくれるリュフトシュタインだが、基本的に私はご飯扱いであることについ笑ってしまう。私はそんなリュフトシュタインを労うように撫でると、くるりと背を向け、お母様のところに駆け寄った。



「お母様、お仕事終わりました! 屋敷へ帰りましょう!」



 私は努めて明るく話しかけたが、お母様は目に涙を浮かべ、ハンカチで目元をそっと拭っていた。



「昨日も聞いた曲は、心が洗われるような清々しい気持ちになる曲だったけど……今日のはまた、なんというか、美しくてそして涙が出ちゃうような、なんだか切ない……でもいい曲だったわ。ソフィー、がんばったわね」



 そう言って、泣き笑いしたような顔をしながら、お母様は私の頭をよしよしと撫でていた。すると隣に座っていたグレゴリウスが、私がビックリするくらい号泣しながら、



「うう、なんと美しい調べなのでしょう! ぐすっ、ソフィア様、これもハルモニア様から教わられたのですか? ああ、ああ、まるで私はハルモニア様に慰められたような気持になりましたよ! 

ぐすっ、このように素晴らしいものがずっと祈りの塔にあったというのに、なぜ神に仕える身でありながら気づかなかったのでしょう! ああ、我々はもっと精進しなければ……!」



 最後の方は、また昨日のようにハルモニアワールドへと旅立っていた。今日は伝えなきゃいけないこともないし、このままそっとしておこう。うん、呼び戻すの大変そうだしね。



 まだ一人でぶつぶつ言っているグレゴリウスをとりあえず放置して、立ち上がったお母様に手を取られながら、私はお母様と一緒に祈りの塔の通路を入り口に向かって歩いていく。

 あれ? なんとなくだけど、演奏前と比べて周りの空気がガラリと変わった気がする。ちらりと目に入った人々の表情は、一様に晴れやかだったり、ほろりと涙を流していたり……でも私への疑うような、嘲るような目は、もうどこにもなかった。



 私は、柔らかくなったこの雰囲気はリュフトシュタインのおかげだな、と心の中で彼らに感謝しながら、祈りの塔を後にした。













「……っ、なんだよあれ……なんだよあいつ……」



 俺は、寄りかかっていた祈りの塔の壁から崩れ落ちそうになっていた。



 ソフィア嬢が一体何をするのか、面白半分、残り半分は監視命令で眺めていたが……彼女は壁から生えた、よくわからない物体を使って、祈りの塔に神秘的な現象を引き起こした。



「あれは呪いか? それとも『祝福』かなにかか……?」



 わからない。でも、あいつが触った瞬間光輝き、美しい音を降らせ続けたその物体は、目に見えて周りの人間の様子を変えた。俺が流した噂で猜疑心に満ち溢れていた領民たちが、嘘みたいに穏やかな顔になり、涙を流すやつまでいる。どういうことだ?



 いや、待て。俺だってそうだ。魂に、心に積もっていた何かが流れるように消えていった気がする。



 本当なら、俺も周りの人間のように穏やかな気持ちになるはずだったのだろうか? そういう術なのだろうか? でも、俺はなんだか、心が軽くなりすぎて自分が空っぽになってしまったみたいに感じる。怖い。



「……あれが何かはわからないけれど、あいつにむやみに手を出すのはやめた方がいいな。父上にもそう伝えよう」



 俺は、自分の意思に反して綻びそうになる顔と軽くなった足取りを不思議に思いながら、祈りの塔から王都へと足早に向かった。

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