第25話 黒い影とお勤め初日 前編

「ふーん、あれが父上の言ってたソフィア嬢か。ただのガキにしか見えないんだけど」


 燃えるような赤い髪に、深碧の眼。灰色のローブを着て、そのフードを頭からすっぽりかぶった少年が、祈りの塔の入り口近くの壁際によりかかりながらぽつりとつぶやいた。



 昨日、父上の屋敷のある王都までこいつの噂が流れてきていた。おかげで、慌てた父上からこいつの様子を見るのと、できればこの場を攪乱するなりしてこいつの評判を下げてこいって命令されてきたんだけれど……



「あいつが、本当にジンに呪いを返せたのか? そうは見えないんだけど」



 ぶつぶつと独り言を呟きながら、俺は周りに流した噂の広がり具合を耳をすませて確認する。人はいい噂よりも悪い噂を何倍も好み、早く流してくれる。

ソフィア嬢の人格を貶めるものや、ハルモニア様の使徒は嘘だというもの、神官への多額の寄付で無理矢理その地位を得たこと、この領地の次期領主として相応しくないことなど、とにかくあることないこと……いや、会ったこともないんだから全部ないことなんだけれど、命令通りに流した。



 おかげで、今の祈りの塔の雰囲気はかなり悪い。さあ、どうする? このまま自滅してくれたら、それはそれで俺は楽なんだけどね。



「さて。お手並み拝見といこうか、ソフィア嬢?」



 俺はにやりと笑みを浮かべながら、祈りの塔の隅でソフィア嬢の後ろ姿をじっと見つめていた。














 みんなの視線が痛い。やっぱり昨日とは全然雰囲気が違う。



 本当は下を向いて、この注目から少しでも逃れたい。



 でも、そんなことは許されない。



 今の私は、辺境伯爵家の令嬢で、ハルモニア様の使徒。



 そして、ここにいる人たちのほとんどは我らが領民だろう。ならば、彼らの前で、領主の娘である私がみっともない態度や振る舞いをするわけにはいかない。



 祈りの塔の長い廊下を一歩一歩進む。頭を軽く下げてくる人もいれば、じろじろとこっちを見定めるように見てくる人もいる。ひそひそと「あれが領主様の娘か?」とか、「本当にハルモニア様の……」とか話している声も聞こえる。やはり良くない雰囲気も感じる。



 私は誰のことも見なかった。リュフトシュタインだけを見て、まっすぐ歩いていくので精一杯だ。数のプレッシャーは思ったよりもすごい。



 まあ、普通に考えれば、今の私は男の子のような姿をした小娘に過ぎない。領主の娘とは言え、別に強そうでもなんでもないのに、なぜかハルモニア様の使徒らしい。となれば好意的な目だけじゃなく、懐疑的だったり、ぶしつけな目で見るものもいるだろう。その気持ちがわからないことはない。



 私はリュフトシュタインの前まで来て、一度後ろを振り返る。千人、いや二千人くらいいるんじゃないかというくらい人がたくさんいる。みんなこちらをじっと固唾を飲んで見ている。最前列の端っこの席に、グレゴリウスと一緒にお母様が座っているのが見えた。



 お母様と目が合うと、お母様はにっこり笑って「がんばってね」と口の動きだけで伝えてきた。






 ――そうだった。周りの視線なんて、周りがどう思ってるかなんてどうでもいいじゃないか。






 私は仕事をしに来たのよ。周りの人間なんか、別に呼んでもいないのに勝手に来たんでしょう?






 だったら、勝手にすればいいわ。私が気を遣う必要なんかない。






 それに、せっかく楽器が触れるんだもの。クラオタなのよ、全力でそれを堪能しなくてどうするの?







 私はお母様に頷くと、魔力を失ったからなのか、壁の色と同化したリュフトシュタインにそっと右手で触れた。



「おお、小娘か。今日も仕事じゃ仕事! まずは腹ごしらえじゃ」



 以前、プリンシパルと呼ばれていたお爺さんの声が頭に響いたかと思うと、またぐっと魔力を食べられた。リュフトシュタインが、昨日と同じように白く輝き始める。私の後ろからどっと人々がざわめき出すのが聞こえた。でも、振り返ったりはしない。



「……あれ? これだけでいいの?」



 しかし、前回に比べたら魔力を食べられる量がかなり少なかった。ん? 昨日は8割くらい食べてなかったっけ? 今日は半分も食べてないぞ?



「俺たちはなあ、まず壁から出てくんのにすげー魔力を使うわけ。お前が最低1日1回ちゃんと俺たちを食わせてれば、これくらいで十分仕事できんだよ」



「はあ、でも、それ以上間隔が空くと、また壁にもどっちゃうからね。ふう、そしたらまた大量の魔力が必要になるのよ」



「ねえねえ、まだあまってるんだったら、もっとたべてあげようかー?」



 なるほど、そういうことか。親切にも、リュフトシュタインのうちの何人かが私の疑問にいちいち答えてくれる。なんだか最後らへんに恐ろしいこと言っているのがいた気がするけれど、スルーしておく。手元に残る魔力が多いに越したことはない。



「ねえ、リュフトシュタイン。今日から2曲弾くんだけど、1段目と2段目の手鍵盤の高さをちょっと縮めて、鍵盤の縦の長さを少し短くするってできる? ちょっと指が届かなくなりそうなの」



「お前さあ、昨日こんだけちっさくしてやったのに、まだ届かねえのかよー。ほんと、人間の子どもって不便な身体してんなあ」



「ぷりんしぱるー、もっとちっちゃくだってー! まだできるよねー?」



「仕方ないのう……ほれ、これでどうじゃ?」



 リュフトシュタインは昨日のままにしてくれていた鍵盤を、さらに小さくしてきた。私は2曲目で鍵盤を跨る部分を指で何か所か押さえ、届くことと距離感を確認した。うん、これならなんとかなりそう。



「ありがとう、プリンシパル。これで弾けそうだよ。演奏前に、レバーをオフにしたまま、ちょっと指慣らしさせてね」



「わかったのじゃ。ただ、もうすぐ7時になるからの。準備は早く済ませるのじゃぞ」



 私は、リュフトシュタインたちの声を聞きながら、ストップレバーをオフにした状態で手鍵盤と足鍵盤でのウォーミングアップをしつつ、演奏の準備を整えた。










「小娘、時間じゃ。始めるぞ。1曲目は昨日と同じでよいな」



 おっと、時間切れらしい。ほんのひと時だが、短くなった鍵盤の感覚を少し掴んだところでお仕事タイムとなった。



 プリンシパルは、私が頷いたのを見ると、昨日私がセッティングした通りのコンビネーションを自分で呼び出し、ガチャガチャとレバーを動かしてセットしてくれた。すごい、なにこれ楽ちんじゃん! もしかして、1回セットすれば自分で覚えてくれるのかな。なんて素晴らしいパイプ……じゃなかった、リュフトシュタイン!



「ありがとう、この曲は『主よ、人の望みの喜びよ』っていう曲なの。そのコンビネーションと一緒に覚えておいて」



「もうおぼえたのー、ぼくたちはゆうしゅうなのー」



「一回やれば覚えるに決まってんだろ! 誰が作った神獣だと思ってんだよ、こんなの朝飯前だぜ!」



 うふふ、助かるわー、これで少しずつ記憶させればそのうちいつでも弾きたい曲がすぐに弾ける! ふふふ、ふははは!



 私は、さっきまでの周りの声や態度と言ったものを完全に忘れ、リュフトシュタインを弾くことに集中した。そして、すうっと息を吸い、ゆっくりと吐くと両手両足を鍵盤の上に構え、左足でG(ソ)の鍵盤を優しく押した。










 昨日と同じように、リュフトシュタインはその澄んだ音を響かせ、その音圧で祈りの塔をわずかに震わせながら、美しいハーモニーとともに人々の魂と心を洗い流していく。






 J. S. バッハ作曲の『主よ、人の望みの喜びよ』は、8分の9拍子で奏でられる、オーケストラの伴奏つきの四部合唱の曲だ。バッハ様が作ったカンタータという教会音楽の第147番の中で、最後にあたる十曲目の曲でもある。



 曲の冒頭から、8分音符の3連符による印象的なモチーフが出てくる。一度聴くとなかなか耳から離れないので、聴いたことがある人も多いだろう。

 元々1stヴァイオリンとオーボエがユニゾンで奏でるそのメロディーは、途中移調しながらも曲の始めから最後まで何度も何度も繰り返し演奏され、まるでその3連符が次々と連なり大きな円を描きながら、空へ空へと昇っていくような……そんな印象さえ抱かせる。



 私は右手でそのメロディーをゆったりと弾いていく。本来は、バッハの時代の8分の9拍子はそんなに遅いテンポではない。でも、今そんなに早く右手の動きであるアルペジオを弾きこなせないし、個人的に今はこの曲を少し味わうように弾きたい。それこそ、一本一本のリュフトシュタインが、一つひとつ人の負の感情を癒していくように。



 そして、そのモチーフと対になるように出てくるのが、トランペットの美しい伸びやかな音とともに現れる、コラールと呼ばれる合唱だ。実は、このコラールに含まれている音は、8分音符のモチーフの中にも含まれている。バッハが仕掛けたこの2対のメロディーは、付点四分音符の動きで深く、そして大らかな響きで全体を包み込むコントラバスに支えられ、絡み合いながら昇華していくようである。



 私は、左手でこのハーモニーを押さえながら自分だけに聴こえるように歌う。神様の名前のところをハルモニアに変えて歌う。どうか、女神ハルモニアに届きますように。この世界に届きますように。



 右手の1stヴァイオリンとオーボエ、その裏に奏でられる左手の2ndヴァイオリンとビオラ、そして代わるがわる出てくるトランペットと四部合唱のコラール。

 昨日はハルモニア様のおかげで、演奏には全然集中できなかった。今日は邪魔する人はいない。ふふふ、ふははは!



 私は、拙い指使いでもこちらの意図を汲むように応えて歌うリュフトシュタインの音色に、音圧に、オーケストラを目の前にしているかのような響きを感じた。



 ああ、なんて幸せなんだろう。



 毎日これが弾けるなんて! ああ、ハルモニア様ありがとうございます!



 私は、両手両足で紡ぐ美しいハーモニーに女神ハルモニアへの感謝と祈りを乗せ、最後のフェルマータの響きが消えるまで弾き切った

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