第18話 結衣の妹 前編

 私の名前は、山川真衣。6歳上の姉の影響を多大に受け、今や立派なクラオタ2号であり、引きこもり歴5年のしがないオーボエ奏者だ。








 ここは、先週その主を失った、私のお姉ちゃんの部屋だ。家族みんなで住んでいる、田舎の6SLDKの広めの庭付き一軒家。12畳あるお姉ちゃんの部屋には、祖父の形見である、古いが手入れの行き届いたベーゼンドルファー社製のグランドピアノと、それを取り囲むように並べられた本棚の中に、綺麗に整理された数多のCDと楽譜が所狭しと並んでいた。ピアノの下には、ピアノの足を避けるように、大小さまざまな楽器のケースが並べられている。

 

 

 お姉ちゃんを亡くしたあの日も、その日から一週間が経った今日も、私はお姉ちゃんの部屋にある楽器や楽譜、音源たちの手入れと掃除をしていた。引きこもりになって、手持無沙汰だった私にお姉ちゃんが頼んできてから始め、今は私のささやかな存在理由の一つだとも思っている。

ここにあるのは、二年前に亡くなったお爺ちゃんから受け継いだものを含めて、私とお姉ちゃんの宝物だ。いつ、お姉ちゃんがひょっこり帰ってきてもいいように、今も手入れを続けているのだ。



 一週間前の今日、お姉ちゃんは交通事故にあった。



 その日は、お姉ちゃんが楽器店へメンテナンスに出していた、特に大事にしていたフルートを受け取りに行った日だった。



 だから、残業を切り上げて帰ってくるはず。いつもより早く帰ってくるはず。



 最近気晴らしに始めた乙女ゲームにはまっていた私は、その日は続きの話をお姉ちゃんにたくさんできる、と姉の帰りを楽しみに待っていた。



 でも、待てども待てども、お姉ちゃんは帰って来ない。



 最寄りの駅前の楽器店は、20時で閉まるはず。でも、22時になっても帰って来ない。



 電話も繋がらない。ラインも既読にならない。



 お姉ちゃんはかなりマメに連絡をくれる方だった。仕事中でも、帰りがだいたい何時くらいになりそうか、いつも家族の誰かに連絡をくれていた。



 だから、あの日は何かがおかしいと思った。



 実家の固定電話に警察から事故の連絡があったのは、そのあとすぐだった。













 私は、5年間ずっと引きこもりだった。部屋からは出るが家からは一歩も出ていなかった。



 でもこの日は、交通事故で死んだお姉ちゃんに会うために、私は勇気を振り絞り、久しぶりに家から出た。



 両親と一緒に、冷たい台に横たわるお姉ちゃんに会った。事故で損傷の激しかった首から下は隠されていたけど、首から上は奇跡的に傷がほとんどなかったらしく、顔だけは見ることができた。






……お姉ちゃんは、ただ眠っているだけみたいだった。






 そうだ、そうだよ。お姉ちゃんは寝てるだけだよ。



 もう、びっくりさせないでよね、お姉ちゃん。だって、今日は一番大事にしている、お爺ちゃんからもらったフルートを迎えに行ってきたんでしょ?



 だから、今日は早く帰るって言ってたじゃん。また聞いてほしいことがいっぱいあるんだよ!



 ……連絡も無くて心配したんだからね?



 ……はやく起きてよ……



「結衣さんの死因は、外傷による失血多量によるショック死です。事故後、しばらくは意識があったようですが、救急車が到着したときにはもう……」



 ……うるさい。



「飲酒運転でこの事故を起こした加害者は、結衣さん以外にも3名撥ね、その後電柱に衝突し、死亡しました」



うるさい、うるさい。



「結衣さんの遺品はこちらです。バッグと、これは楽器のようなものだと思うのですが……」



うるさい! やめて、それ以上言わないで!







 姉の姿を見た瞬間から、両親は私の隣で膝から崩れ落ち、人目も憚らず姉に縋り、大声で泣き叫んでいた。でも私は泣かなかった。……泣けなかった。



 私は茫然と立ち尽くしていた。姉の死因を聞いても、事故の様子を聞いても、



 この目の前の現実を、大好きな姉の死を、とても受け入れられなかった。








 お姉ちゃんが死んだ? 二度と帰って来ない?





 ――そんなの嘘。



 お姉ちゃんが死んだなんて嘘。私は信じない。絶対に信じない。



 全てを否定するように頭を左右に振った私の目に、



 ひしゃげて割れた、黒い楽器ケースの残骸と、そのケースの割れ目から、もはやフルートの原型を留めていない、血の付いた銀色の塊が映ってしまった。















 ――それからのことは、よく覚えていない。



 多分、お姉ちゃんのお通夜やお葬式、告別式をしたのだろう。そして、私も参列したと思うが、お姉ちゃんが、自分の命と同じくらい大事にしていた楽器の惨状を見た時から、ここ一週間の記憶がほぼ無い。



 人間、あまりにもショックなことがあると、脳がその記憶を思い出せないようにしてしまうことがあると聞いたことがある。もしそれなら、どうせだったら……あの無残に壊れた楽器の光景を忘れさせて欲しかったのに。



 私は一人、そんな不満をこぼしながら、グランドピアノについたわずかな埃を丁寧に取り除いていく。表面が綺麗に磨かれ、曇り一つない黒い鏡のようなピアノに映る自分の姿を見ながら、私は大好きな姉のことを思い出していた。












 私の姉の名前は、結衣。6歳離れた、たった一人の姉妹だ。歳が離れているからか、物心ついた時から私はいつもお姉ちゃんのあとを追いかけ、お姉ちゃんはいつも私と遊んでくれていた。お姉ちゃんは時々毒舌だが、基本的に優しく、そして心の底から音楽と楽器を愛していた人だった。



 大人になってから気づいたが、私の家族はちょっと特殊だ。両親は公務員だが、母方の祖父は元プロオーケストラのフルート奏者で、祖父の従妹はピアノの先生ということもあり、姉も私も3歳からピアノを始め、姉は5歳からフルート、私は9歳からオーボエも習い、いつも身近に音楽がある生活を送っていた。



 両親は、普通のおもちゃやゲームは全然買ってくれなかったけれど、音楽に関わるものなら快く買ってくれた。おかげで、小さいころのおもちゃは、プラ管と呼ばれるプラスチックでできた様々な管楽器だったし、お絵かきをするのは、五線譜が印刷してあるノートだった。



 私が幼稚園に入るころになると、姉はそれまで私と二人で落書きに使っていた五線譜のノートに、耳コピと言って、耳だけで聴いた曲を楽譜に起こす遊びを始めた。

 最初は単音だったのが、いつしか和音になった。聞き取る小節が増え、片手だけの楽譜が両手になった。ピアノの演奏の聞き取りをしていたのが、交響曲を聴いて、その中の1つの楽器やパートを聞き取るようになっていた。

 この遊びを二人で『調音ゲーム』と名付け、お爺ちゃんも一緒になって、毎日のように何回も何回もゲームをしては、答え合わせをした。そして、今日はいくつ合っていたか、間違っていたかを夢中で競い合っていた。

 例えるなら、英語のリスニングで流れてくる文章をそのまま書き取って、どれくらい正確に書き取れたかを競うのをゲームにした感じだ。



 私たち姉妹は、小さいころから遊びながら楽譜や楽器に親しみ、いつの間にか祖父が持っていた膨大な量の楽譜を、一通り一度は見たり、聞いたりしたことがある、軽めのクラオタになっていた。



 ただ、姉は『カメラアイ』だった。時々そういう人がいるというのは聞いたことがあったから、特に驚きはしなかった。よく言う、将棋を指す人の中には、その盤面ごと写真のように覚えていく人がいるという、あれの楽譜版だ。お姉ちゃんの場合は、楽譜しか覚えられないと言っていたが、楽譜であれば、一度見たら、写真のように覚えることができた。これに気付いてからは、お姉ちゃんは一人、お爺ちゃんの楽譜を漁って、頭の中で楽譜集めをしていたらしい。



 この頃、既に中程度のクラオタになっていたかもしれない。



 お爺ちゃんの楽譜を網羅したお姉ちゃんは、次にその楽譜を自分で演奏したいと言い出した。

お姉ちゃんが小学校を卒業するころ、「私、いつかオーケストラになりたい。ダメなら一人オーケストラがやりたい」と言い出し、楽器好きでたくさん集めていたお爺ちゃんに頼み、様々な種類の楽器を借りては練習していた。

 お爺ちゃんは、一人じゃオーケストラにはなれないよ、と笑っていたが、姉は夢中で練習していた。学校へ行く前に練習、帰ったら練習、休みの日も練習。暇さえあれば楽器の練習ばっかりしていた。でも、いつも本当に楽しそうに、幸せそうにしていた。



 重度のクラオタである。



 私はというと、音楽は楽しいし、楽器も面白い。でも姉のように寝る間も惜しんで、オーケストラの楽器を全種類網羅すべく練習するほどではなかった。私は、すでにピアノもやってるし、どれかもう一つくらいで満足だった。だから、姉が「オーボエだけは、どうやっても音が出ない」と絶望的な顔で言ってきたときに、これだと思った。



「お姉ちゃん。お姉ちゃんができない楽器は、私がやってあげる。私ができれば、全種類攻略できるんでしょう?」



 幸い私は、ダブルリードで音を出すのが最も難しい管楽器と呼ばれるオーボエの音を、不思議なくらいすんなりと出せた。姉にできないことができたのも嬉しかったし、なにより姉が喜んでくれたことが嬉しかった。姉は一応一通り吹けても、クラリネットやオーケストラの編成には無いサキソフォンといった他のリード楽器も苦手だった。だから、私はオーボエを専門にしながら、姉のために他のリード楽器の勉強も少しずつしていた。



 気づけば私もかなりのクラオタだった。いや、大好きなお姉ちゃんを喜ばせたかっただけなのかもしれない。



 姉が、一体どうやって『オーケストラになる』のかわからなかったが、大好きな姉の夢なのだ。一人で叶えられないなら、一緒に叶えたかった。



 姉は、大学生になると、一人オーケストラへの第一歩としてパイプオルガンも習いに行っていた。パイプオルガンは一人オーケストラに今までで一番近かったらしいが、いかんせん、打楽器がなかった。惜しい。



 打楽器はさすがにお爺ちゃんも持っていなかった。買うのにも打楽器は基本的にどれも高いし、とても場所を取る。いくら田舎の一軒家でも、打楽器は置けなかった。



 しかし、姉はそのぐらいでは諦めない、重症のクラオタだった。社会人になってから、近隣の中学校の吹奏楽部にボランティアの講師として指導しに行く傍ら、自分でも打楽器の勉強をし始めた。吹奏楽部で使う曲の譜読みのために、指導前に少し打楽器を借り、実際に鳴らして確認してから指導することで自分もちゃっかり練習していたらしい。



 恐るべきクラオタ魂、いや、執念と呼ぶべきか。







 姉は、自分が下手したら音楽に命を懸けかねない、重度のクラオタだということは、家族以外には漏れないようにしていた。一度子どもの時に、友達に休みの日に何して遊んでるのかを聞かれて、調音ゲームや楽器を練習しまくる話をしたら、心底気持ち悪い人扱いされたからだ。ちょっとショックだったらしい。



 気持ち悪い、は言い過ぎかもしれないが、興味が無い人に理解されないのはわかる。今は広く市民権を得たアニメやゲームのオタクと呼ばれる人達が、少し前までは理解されていなかったのと近いかもしれない。



 それでも、他人にどう思われているかなんて、私もお姉ちゃんももはやどうでもよかった。ただ、好きなことのために自分たちの時間を最大限割いてのめり込んだだけで、それが何よりも楽しかった。私たちが大人になろうと、私が引きこもろうと、姉が社会人になろうと、一緒に音楽談義をしているだけで幸せだった。










 だから、『オーケストラになる』夢をまだ叶えていない姉が死んだなんて、私はどうしても納得できなかった。



 姉の遺体は見た。でも、やっぱり信じられない。



 そこらへんにいて、ただいまー、とか言って帰ってきそうだもん。



 あんなに、傍から見たら異常なまでに音楽に執着してたお姉ちゃんが、オーケストラになる夢も、一人オーケストラを叶えることもなく死ぬ? あり得ない。



 ねえ、お姉ちゃん。私たちは、まだ夢の途中でしょう?



 私がお姉ちゃんなら、幽霊になってでも、この世に、音楽に、絶対にしがみつくね!



 ……あはは、そうだよ! お姉ちゃんなら本当にしがみついてそう! 見えないけど、もしかしたらもう、ここにいるかもしれない。それなら尚のこと、楽器たちの手入れを怠ったらお姉ちゃんに祟られそうだし……







 私は自分の考えが、本当にあり得そうだと思って、久しぶりに笑った。そして、思ったより長く考え事をしていた気がして、時間を確認しようとスマホの画面を付けた。



 『アプリの新着情報があります』



 スマホのロック画面に、なぜかいつもオフにしているはずのアプリの通知が来ていた。

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