第5話 - 午前 アルビレナの自宅と森への往路

 扉を抜ければすぐに階段があり、そのまま二階へと通じているようで、その板をかすかに軋ませつつ彼女に従い上っていく。天井は剥き出しで、梁や柱が見て取れるね。

 北向きに上がりきってからは壁に沿って左へと振り返る。そうして招き入れられた部屋は質素ながらも整っていて、まさに"落ち着いた"とでも言い表せる雰囲気の場所だった。木目のブラウンをベースにしつつ所々には植物が添えてあり、それらを暖色のランプがほの暗くも暖かく照らしている。


「お茶を用意しますから少し待っていてくださいね」

 "パタン、パタン"と窓を開けて風を通してから、そういって奥の扉をくぐって消えた。

 東に開いた窓枠からは真っすぐ先に教会が見えていて、つまりはここが路上に掛かる橋部分であることを示している。その道幅は南北2メートルほどだがこの橋はその上部を東西4メートルほどの長さで覆っていて、さらには階段側の建物と一体になって橋上に南北5メートルで東西4メートルほどの大部屋を構成するらしい。となれば彼女がくぐった扉は橋の向こう側であり、道の逆側の建物へ通じているのだろう。

 ボーっと外の景色を見ていると、路地に沿って流れる風が部屋を抜けていく。



「おまたせしました」という声が聞こえ、遅れて紅茶の香りが漂ってくる。余計なお茶請けのないところも彼女らしいが、やや厚めの白磁のカップのその横にはハーブのようなものが小さく添えてある。

「このミントは私が摘んできたのです。どうぞ、お茶に入れてみてください」

 進められるままに入れてみると、その後味には林檎のようなほのかな爽やかさが香った。特に会話のないままにゆっくりと茶を味わい、時折ふわりと抜けていく風だけが時間の経過を意識させる。


 カップの残りも少なくなったあたりで、もはやもう何もかもを投げ出してテーブルへ沈みたい気持ちを抑えつつ、今日の予定について尋ねる。

「んで、どのような準備をすればいいんすかね?」

「え? あっ」

 そういっては"ぱたぱた"と焦ったように走ると、先ほどとは違い橋の手前側の扉へと消え、そして両手いっぱいに物を持って帰ってくる。


「えっと、まずはこれがカバンですね。これだけあればひとまずは大丈夫です」

 厚手の帆布で出来たカーキ色のシンプルなバックパック、容量はおよそ20~30L程度だろう、を渡される。

 やけに軽いなと思いつつ中を確認すれば空っぽなので、「何も入っていないんですが」と質問すれば「ごめんなさい、ただの荷物持ち用のものです……」との答えが返る。

「ほかに持つものはないんですかね」

「この手袋と、このナイフかな」

 "はい、これ"と、皮で出来た手袋と鞘入りのシースナイフを渡される。

「イラクサなどの毒草が生えているので植物に触れる際はその手袋を利用してください。もし手で摘むことができない場合はそのナイフを使ってもいいのですが、どちらかと言えばお守り用なので間違っても動物とは戦わないでくださいね」

「お守り用?」

「はい。旅の安全と、悪霊退散のお守りです」

「お守りですか」

 ふむ、幽霊だって切らば切れるのだろう。ぜひとも試してみたいネ。


「あとは……行きが三時間、むこうで二時間ほど滞在して、帰りも三時間の合計8時間ほどが今日の予定となってます」

 距離としては10キロ強か。実際は一時間ごとに休憩も必要だろうからもっとかかるのかな? いや、普段こなしてる行程なら含んでの時間か。

 帽子の鍔にあたる部分を引き摘んで弄りつつ、何を考えることが必要かなと思索する。

「そういえば、帽子は脱いだ方がよろしいですかね?」

「いえ、そのままでどうぞ。この街では室内でも帽子を被ったままというものが習慣ですので」

 "そっすか"と返し、まぁどうにかなるかなと残りの紅茶を飲み干す。彼女も丁度飲み切るところだしそろそろ出立しましょうかな。


「ではそろそろ出発しますか?」

 向こうが飲み切るに合わせてそう言ったところ、「着替えてきますのでもう少しだけお待ちください」といってまたぱたぱたと速足で消えていく。出鼻を挫かれた俺はテーブルへと沈む。

 しばらくして戻ってきた姿はブラウン色のオーバーオールと白いYシャツで、そこに髪色がデニムのジャケットを思わせるような青を添えている。アズーロ・エ・マローネだね。

 髪は後頭部の高い位置でまとめられ、動きやすいポニーテールとなっている。

 しかし、定住できる住居も未来への希望もなく不安要素しか抱えてない俺はもう起き上がる気力がない。勢いだけで生きている人物など、所詮はそのようなものだ。

「もう俺はここに住むわ~」

 突っ伏したまま顔すら上げずにそう声を漏らす。"帰りたい"、その簡単で当たり前な望みが絶望的であること。たったそれだけが、たったそれだけであるのに、まるで熱病のように頭を支配する。俺らしくもないのにね。


 彼女は困った様子で「もうっ、今はお仕事ですよ」と無理やり起き上がらせると、そのまま今度は椅子の背もたれへと沈む俺を置いて別の扉へ。そうして新たに持ってきたバックパックにはそれなりに荷物が詰まっているように見えるが興味を持てず、戸締りをした彼女によって"行きますよぉ"と腕を取られては連れ出される。




 とぼとぼとしつつも、北門への大通へ出てから北上すると、昨日の門番さんが見えてくる。

「ちわぁす。昨日はありがとうございました」

「おう、問題はなかったようだな。して本日はいかがした?」

「路銀稼ぎとして採集しに行くところですね。詳しいところは彼女に任せっぱなしなのですが」

「そうか、この土地に慣れるまでは無謀をせずによく気を付けることだな」

 "うっす"と頭を下げて彼と別れた。



 歩くにつれて景色は流れ、建物もまばらに消えていく。


 粘ついたようでいて透明感のある夏空の空気。標高ゆえか涼しげであるものの薄っすらと汗をかく。

 二人並んで道を行くがてら、時間も持て余しているので色々と話を聞いておくことにしようかな。


 さて聞いた話の中で興味深い話としては "虚性深度" というものが挙げられる。

 虚性深度、つまり「召喚元との虚数次元方向の距離差」が大きいほどその維持に必要な虚素量は多くなり、一般的にはそのハンディキャップに見合うだけの能力を持つもののみが生き延びているという。ゆえに深度の大きいものは人間にとって致命的な生物であることが多いとのことだ。

 虚素を貯め過ぎると異世界へと放逐されてしまうとされていて、人間の体にはそれを貯めたりするための機関は無い。また虚素を多く持つものほどそれを利用する生物に捕食されてしまいやすくなり、異世界へ送られるほどの量であればまず生き延びることは難しい。それゆえに戻ってくる者がいないともされる、と。


「これから行く場所は"深海の森"と呼ばれていて、詳しい原理は不明ですが光が遮られて昼間でも薄暗い場所となっています。一説にはその場所は太陽のない世界と重なり合っていて、光の粒がそちらに持ってかれてしまっているとも言われています」

「へぇ、そんな所にも生き物が居たりするの?」

「居ますよ。光る動物が見られることで有名ですが、アルキキノコやリクギンチャクも居ます」

「アルキ……。歩くの?」

「歩きます。こう、ぐにゃぐにゃと」

 両手を駆使しつつ一生懸命に説明してくれるその言葉を聞いて、一気に想像が付かなくなる。暗さに起因して深海生物に類似するような生態系があるのはまだしも、歩きキノコや陸ギンチャクは理解不能である。考えるほどに頭が痛くなる。


 そんな中でも浮かんだ質問を続ける。

「光がないってことは森の木々は緑色じゃないとかですかね?」

「真っ白です!」

 "雪が降ったみたいに綺麗なんですよ"と、少しずれた感動を教えてくれる彼女へ続ける。

「葉っぱはどうなってるのかというか……、そもそも生えてる?」

「生えていますよ? 光の代わりに虚素を吸収しているらしいです」

 ということは"虚素を貯蓄して存在している"ということであり召喚植物であるかと問えば、むしろ虚素を集めたその葉を他の世界へ送り、代わりに栄養素を送り返して貰うという次元を越えた共生関係を形成しているだけの普通の植物という。

 "落ちた葉が空気に溶けるように消えていくところが美しいのです"とは彼女の弁である。



 自然と会話が途切れ、長く沈黙が流れる。

 行程は一時間を過ぎたあたりだろう。彼女を見れば息が上がりつつあるようで、その細く柔らかい髪は汗で頬に張り付きのたうっている。この徒歩の速度は時速5㎞/h程度、軽く話しながら歩くのに丁度いいペースだが、彼女には少し速すぎたかもしれない。

 帽子を取って頭に風を送りつつまわりを見渡すと、上がり調子の草原の途中に幾つかの岩場が見える。

「そろそろ小休止にしましょうぜ」

 そうしてそこへ辿り着くと平らに割れた岩に座り、荷物を降ろして足を放り出す。休止の際にこのように脚を投げ出して休めることはちょっとした要である。


 しかしここにきて問題が発覚した。水が無い。

 安全で飲用もできる水というものは何をするにも重要で、これがないとろくに歩くことすらままならない。特に熱中症や怪我の処置などにおいては冗談抜きで命に直結するため、旅の途中で失ってはいけないものの筆頭である。

 出がけに気づくべきことだったなぁと引き返すことも考慮しつつ彼女に聞くと、「持っています」と二人分の水筒をバッグパックから取り出す。1.2Lほどのものが二つ。

 おぅけぃ、荷物の確認をするべきだったネ。

 水筒を受け取るついでに"重いものを寄越せ"と言ったところ渋られるが、ばてているのは彼女だけだと説得してやや無理やりに引き取る。幾つかの無駄だと思えるデッドウェイトを鞄へ入れた。



 15分ほどしてから先と同じペースで歩き出す。

 "背中がとても軽いですよ"と、はしゃぐ彼女の隣を行く。


 ふと"洞窟はあのあたりだったはずだ"と目を向けるが直視はできない。

 見覚えのある景色を北西へ通り過ぎると山間の平地へ入り、遠くには森、普通の森林が見え始める。そして一時間も掛からない内にその入口へ辿り着いた。深い木々に遮られて"深海の森"とやらは見て取ることができない。

 再度の小休止を挟むと、彼女の要請により幾つかの荷物を返す。

 そうしてから森へ侵入すると徐々に空が黄色くなり、夕焼けのような赤を経て藍色に落ち着いた。大気と同じく、光の周波数に対する選択性があるらしい。恐らくこの土地に漂う虚素とやらはエネルギーの高い光と優先的に結合し、逆に言えば赤外線であれば比較的奥の方まで見通すことができるのだろう。


 木々は元気な深緑から日照不足のような枯れ木となり、やがて白い葉の生い茂るものへと移り変わる。時折落ちるその葉はひらりひらりと音を立てる間に白色を失い、最初から何もなかったかのような透明となって無音の余韻を残していく。ゴースト・リーフ、"幽霊の葉"とでも呼べるだろうか。

 昼間であるにも拘らず新月の夜のような暗闇が立ち塞がる。すると突如左隣から明かりがあふれ出す。見ればアルビレナがランプに火を灯していた。日帰りにはただの不要物であると思っていたが、こうしてみると必須な道具であったと分かる。


 ここからはお仕事の本領である。何が起こるか分からぬ幻想的な雰囲気に好奇心を惹かれつつも、形式的には気を引き締めた。

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