ずるい人
水無月 漣花
第1話
恋の終わりはこんなにも静かであることを、私はこの日初めて知った。
高校を卒業し、私も彼も違う道を進んで行く。きっと彼の世界から私は消えてしまうのだろう、そう思ってしまうともう耐えられなかった。
コートを着込み、スマホを手に家の玄関をくぐった。三月中旬の夜はまだ冷える。その冷たい空気を肺いっぱいに吸い込みながら、私はスマホの液晶画面に指を滑らせた。
コールが数回続いた後、しばらく聞いていなかった声が耳の中でこだまする。
「もしもし?」
二年前から変わらない優しい声。久しぶり、たった一言が震えた。迸る緊張を押しとどめながら、私は口を開く。
気持ちをなだめようと始めた世間話は、想像以上に私の感情を落ち着かせた。けれど、本題はそこではない。会話が途切れたその一瞬、沈黙が私の気持ちを焦らせた。
「ねえ、去年の夏に私が君に告白したこと、覚えてる?」
声が上ずっていなかったか、早口ではなかったか、そんな事を気にする余裕などとっくに無かった。ただただ、鼓動の高鳴りが嫌という程耳についた。
私の質問に対する短い肯定の返事が、無機質な機械から聞こえてくる。あの暑い日の出来事を思い出しながら、私は密かに目を閉じた。彼が私を意識してくれればいい。そんなささやかな願いを込めた、この日のためのあの告白を。
「あの時は私、気持ちを伝えたいだけだったの。自分の気持ちに整理をつけたくて仕方がなかった。自分勝手だと思うけど、あの時は必死だったの。でも、結局気持ちに整理なんてつかなかった」
喉の奥が痛む。言葉が弾けるように、音になることを拒絶していた。戦慄こうとする私の口が、空気だけを吐き出した。苦しい、息がつまる。それでも言わなくてはいけない。かじかんだ指先を握り込み、私は大きく息を吸い込んだ。
「私、まだ君のことが好き。もし良ければ……付き合って欲しいの」
酷く陳腐な言葉だったと思う。けれど、それが私の精一杯で、全てだった。彼が息を飲む音が聞こえ、再び静寂が私達を包み込む。
「……ごめん」
短い一言が、何度も頭を駆け巡る。何処かで覚悟していた。それでも潤んでしまう瞳を、声色を隠すことに必死だった。気づかれてはいけないと、こみ上げたものを押し留めた。
「嘘をついてたんだ、お前に。夏に告白してくれた時、俺はあいつが好きなんだって言ったよね。でも、違うんだ」
あいつ、と言うのが私の友人であり、部活の仲間であることは理解していた。彼女に彼氏がいることを零してしまったのも私だったのだから。ふと、言葉が出てこなかった。どうしてそんなことをする必要があったのか、全く分からなかった。混乱する私を置き去りに、彼の独白は続いていく。
「あの時嘘をついたのは、他校に好きな人が居るからなんだ。高校進学の時に止むを得ず別れたけど、今でも俺は好きなんだ。だから……ごめん」
そっか、と乾いた声が溢れた。ずるいなぁ、なんて笑うことしかできなかった。彼は失恋したのだと思い込んでいた私にとって、その衝撃はあまりに大きかった。
どうせなら隠し通して欲しかった。こんな時に、変な優しさを見せないで欲しかった。本当にずるい、勝ち目なんてどこにも無かったんじゃないか。言葉にできない思いが行き場をなくしてさまよった。
「ごめんね、ありがとう」
私の呟きに、彼もまた小さく笑みをこぼした。私は上手く、笑えただろうか。彼に言葉を返せただろうか。その後も続いたはずの会話が何一つ頭に入ってこなかった。
ただ一つ。
またね、と言った彼の声の優しさが酷く残酷に思えた。また、なんて返す事は出来なかった。
「ばいばい」
さよなら私の恋心。胸の内で呟くように、そっと言葉を音に乗せた。
闇夜の風が、私の鼻を、頬を冷たく撫でていった。耳に残る甘い残響が、瞬く間に色褪せる。もう二度と、あの声を聞くことはないのだろう。
手の中の液晶画面に指を滑らせ、ふと止める。消してしまっていいのだろうか、戸惑いが胸を締め付ける。ここで彼との繋がりを絶ってしまえばもう二度と、私と彼が繋がることはないのだろう。
人生最後の恋でいい、彼だけでいい。その気持ちは本物だった。激しい痛みが、今でもその気持ちの誠実さを訴えかける。
振り向いてくれないなら、優しくしないでよ。そんな言葉をぶつけることさえ叶わない。せめて最後まで彼の中で、良い人でいたかった。面倒な女だと思われる事が怖かった。やっぱり彼はずるい人。失恋してもまだ、募る気持ちを止めさせない。
きっと彼と会うことはもうないのだろう。鈍感な人だ。私の中に大きな傷を一つ残したことにさえ、気づいてはいないだろう。
頭を巡る数々の思い出を振り切るように、私は夜道を歩き出す。恋心に気づいてしまった日のことも、二人で写真を撮ってもらった日のことも。沢山の大切な思い出はまだ私の心を締め付ける。簡単に忘れることなど出来ない。
それでも私は歩みを止めない。振り返ることなくただ真っすぐ。風を切りながら進み続けろと、心が強く望んでいた。見上げればそこには満点の星空と大きな月。
「さよなら私の恋心」
小さな呟きが、静かな闇に消えていった。
ずるい人 水無月 漣花 @renka0609
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