それは愛か

旅人

第1話 それは雨の日に 前編

 私が大崎真に会ったのはかなり最近の話だ。彼は東大の修士課程の2年生で、学部は機械工学だったが院から応用数理に進んだ。優秀な人で、私の3つ上だということを差し引いても、私には敵わないと思わせるだけの何かがあった。


 その日、私は総合図書館別館のライブラリープラザにいた。私は数日前から気分が悪くて、いつも痛み止めを飲んでいた。薬を口に入れ、水筒に手を伸ばした時にそれが空っぽであることに気づいた。慌てて3人がけのテーブルから立ち上がって、自販機の場所まで小走りで向かう。薬が口の中で溶け始めて、苦い味が舌の上いっぱいに広がる。自販機の前まで来て、私は財布を忘れたことに気づいた。テーブルにではない。家に忘れたのだ。あの日以来、忘れ物が目立つようになった自分にため息をつくこともできないまま、どんどん苦くなる薬を飲み込もうとして私は何度も嚥下を試みたが、上手くいかなくて口に手を当ててむせ込んだ。体を折って、激しく咳き込む。


 不意に、誰かが私の肩をちょっと触った。見上げると、そこに少し年上の男子学生がいた。ペットボトルの水を差し出している。私は頭を下げてそれを受け取り、キャップを開いて喉に流し込んだ。


「落ち着いた?」


 息をついて口を拭う私を、彼が心配そうに見つめる。身長は170センチくらいだろうか。眼鏡をかけた顔は優しそうで、ちょっと線が細い人なのだろうと思った。水色のカッターシャツを着て、灰色のズボンを履いている。カバンを肩からかけたままなのを見ると、さっき来たのだろう。


「ありがとう、私、財布を忘れちゃって」


 彼は少し微笑んだ。


「体調が悪いみたいだね、無理しないでください」


 そのまま向こうへ行こうとする彼を私は慌てて引き止めた。


「待って、まだお金返してません……」

「おっと、そうだった」


 私たちはテーブルに戻った。小銭入れくらいなら、どこかに……


「ない。財布やっぱり家にあるんだ……」

「そうか……」

「今度必ず返します」

「うん」


 彼は周りを見回した。つられて私も。ほかの席はどこもいっぱいで、空いているのは端っこの方の1人席だけだった。


「よかったらここに座りませんか?」


 彼は重そうなカバンを置いて、テーブルについた。カバンから数学の本と思しき黄色い本を取り出し、小さなノートとペンを出して、私の方を見て恥ずかしそうに笑った。


「なんの本ですか?」

「圏論。数学です。あ、敬語はいいですから」


 私は笑った。


「敬語はいいって、あなたも敬語使ってるじゃないですか」

「まぁそうか」

「ちょっと見せて」


 黄色い本は全部で300ページくらいの教科書で、表紙には『ベーシック圏論』と書いてあった。中を開くとよくわからない数式や記号が楽しげに踊っている。奥付のところに署名と印影があった。蔵書印なのだろう。私は読み上げた。


「大崎真、令和元年6月。あなた、大崎さんっていうのね」

「そうだよ。住んでるのは本郷だけど」

「私は渋谷あかり。住んでるのは本郷だけど」


 彼の声音を真似て言ってみると、大崎さんは笑っていた。


「じゃあ2人とも本郷に名前を変えよう」

「それじゃあ家族みたいね」


 言ってから、私はしまったと思った。プロポーズじゃないのよ。気まずい沈黙が続いて、私は恐る恐る彼の方を見た……彼は笑っていた。


「可愛い妹ができて嬉しいよ」


 安堵で笑いながら、でも、私は、少し寂しかった……

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