第32話 さよならを


「アズラク殿下」


 アルバートが、地を這うような声でアズラクを呼んだ。

 アイリーンは突然のアルバートの登場にただただ困惑して、動けずにいた。


 いつまで経っても抱き合って離れない二人に、アルバートがついに限界を迎える。

 アズラクの腕を頼るアイリーンの手を奪い、引き寄せ、腰を抱き、そのまま自分の後ろにアイリーンを隠す。

 アズラクはその流れるような動作に感心した。


「どうやらアルバートのほうは衰えていないらしい」


 くつくつと喉奥で笑うアズラクを、アイリーンはアルバートの背後から睨んだ。

 まだその話題を引きずるのかと。

 しかし、その意味がわからないアルバートは、打ち解け合う二人に眉を顰めた。


「アズラク殿下におかれましては」


 それは、アイリーンが初めて聞く、彼にしては厳しい声音。

 アイリーンをからかっていたアズラクが、途端瞳を鋭く細める。


「アイリーン王女の婚約者に名を挙げているということですが、そう簡単に彼女を渡すつもりはないと、今この場で申し上げておきます」


 アイリーンは思わず声を上げていた。え、と。それはいったい、どういうことかと。

 その疑問を代弁するように、アズラクが訊ねた。


「それは、つまり?」

「あなたにこれ以上伝えることはありません。伝えたいのは、アイリーンにだけですから」


 そんなことを言われたら、鈍感と評されたアイリーンにだって、さすがに気づくものがある。

 もしかして。

 もしかして、今度こそ? と。

 そんな淡い期待が、心臓を優しく叩く。


「つれないな。俺たちは友人だろう?」

「確かに、ルークとエリクは友人だった。でも俺とあなたは、互いのことなど何も知らない」

「……へぇ?」


 辛辣なことを言われているのに、アズラクはどこか嬉しそうに応える。


「俺は、ルークではないと?」

「魂は同じです。でも、同じではない」

「ああ。おまえも、エリクだけど、エリクではないな」

「そのとおりです」

「なら、アイリーンは?」


 アズラクの問いに息を呑んだのは、アイリーンだ。

 思わずアルバートのジャケットを掴んでしまったら、それを受け入れるように彼がアイリーンを振り返って、柔らかく微笑んでくれる。

 その優しい眼差しが、アイリーンは何より好きだった。


「アイリーンも同じです。リジーじゃない。エミリーだって、本当はもう、この世にはいない。いなかったんです。俺はアルバートで、アイリーンはアイリーンで、ユーインはユーインだ」

「そうだな。そして俺は、アズラクだ」


 アルバートは、同意するように大きく首を縦に振った。


「そうか。俺が何かしなくても、おまえはちゃんと答えに辿り着いていたんだな」

「……いや、正直なことを言うと、君にアイリーンを奪われると思ったから、ようやく気づけたんだ。情けないことにね」


 アルバートが力なく口元を崩すと、アズラクから容赦ない言葉が吐き出される。


「なんだ、それは本当に情けないな」

「そういうところはルークだね!?」


 張り詰めていた空気が一気に緩んだ。

 アズラクを睨んでいたアルバートも、アルバートを試すように厳しい目をしていたアズラクも。

 どちらも、肩から力が抜けている。


「まったく、世話の焼ける奴らだよ。アイリーンから色々と話を聞いちまった俺の身にもなってみろ。ああこいつら完全に拗らせてんなって、頭を抱えたくなった。いや抱えた」


 そう言ったアズラクの表情は、まるで幼い弟妹を見つめるようで。


「せっかく生まれ変わったのに、何やってんだって。なんで前世かこなんか引きずってんだって、ちょっと引っ掻き回してやりたくなったんだ」


 そこでアルバートが、大きなため息をつきながら自身の顔を両手で覆う。


「なるほどね。それにまんまと騙されて引っ掻き回されたのが、俺ってことか」

「ははっ。まあそうなるな」

「笑い事じゃないんだけど!?」


 それでも二人は、先ほどの剣呑な雰囲気など最初から無かったように。

 アイリーンはとめどなく流れ出る涙を拭うので、いっぱいいっぱいだった。

 だってやっぱり、二人が仲良くする姿は、どうしても懐かしくなってしまって。


「さて、じゃあ役目を終えた哀れな狼は、ここらへんで砂漠くにに帰るとするかな。怒れる猟師アルバートに狩られても嫌だし」

「……狼が帰るなら森のような気がするけど」

「そこは突っ込むなよアルバート。おまえは黙って感謝だけしとけ」


 アズラクが剥れると、アルバートが「ぶふっ」と吹き出した。

 アイリーンは思う。この二人は、もうとっくに友人だったのだと。

 言葉なんてそんな無粋なもの、今の二人には必要なかった。


「じゃあまたな、アイリーン、アルバート。今度会うときは、普通に話をしよう。思い出話でも、未来の話でも、なんでもいい。他愛ない話を」


 二人は頷いた。

 ここにいる三人とも、数奇な運命を辿っているのだ。そんな中でこそ、とりとめのない、ちっぽけな話をしたい。

 それはきっと、三人の心を癒すから。


 アズラクを見送ると、部屋にはアイリーンとアルバートが残った。

 掴んだままだった彼のジャケットから、そっと手を離す。

 けれど、すぐにその手をアルバートが引きとめた。


「アイリーン。俺、アイリーンに伝えなきゃいけないことがあるんだ」


 アイリーンの胸がドキドキと高鳴っている。

 それは素肌に触れる彼の体温を感じてか。

 それとも、甘い予感がしているからか。


「まずは、今までずっと、ごめん。アイリーンはアイリーンなのに、リジーと一緒にしたりして。そのくせ、誰にもアイリーンの隣をとられないよう、通いつめたりとか」


 もう、その言葉だけで。

 それだけで、アイリーンの心臓はどうにかなってしまいそうだった。

 なのにアルバートは、まだ甘い攻撃を仕掛けてくる。


「馬鹿だよね。無意識だったけど、本当はちゃんと、わかってたはずなのに。エリクである俺は、エミリーだけを想ってなきゃいけないんだって、勝手に思い込んだりして」


 でも、駄目だったんだ。彼はそう続けて。


「アイリーンが俺から離れていくなんて、到底許せなかった。アイリーンの隣が他の男のものになるなんて、絶対に嫌だった。アイリーンの隣は俺のもので、俺の隣にも、アイリーンじゃなきゃ嫌だと思ったんだ」


 アイリーンは、小さく頷いた。

 大きく頷いてしまったら、瞳の中に溜まっている雫が、今にも零れ落ちてしまいそうだったから。

 アルバートは空いている片手を、アイリーンの頬にそっと添える。


「アイリーン・ミラー王女」


 彼が名前を呼ぶ。

 かしこまったそれに、アイリーンは唇を尖らせた。


「嫌よ、アルバート。いつものように呼んで。いつものように、優しい声で」

「……かっこつけたい俺の気持ちは?」

「今は要らないわ」


 アルバートが困ったように眉尻を下げる。

 お願い、と言うように、アイリーンは頬を撫でる彼の手に、自分の手を重ねた。


「わかった。わかったから、そんなかわいいおねだりしないで。何も伝えられてないのに暴走しちゃうから、俺」


 暴走が何を意味するのか、アイリーンにはわからなかったけれど。

 顔を赤く染めるアルバートを見られたのは、とても嬉しかった。


 コホンッと気を取り直して、アルバートがもう一度名前を呼んだ。

 アイリーンの希望どおり、優しい声で。


「アイリーン」


 そしてアイリーンの希望以上に、甘やかな声で。


「俺は、君が好きだよ。他の誰でもない、アイリーンを愛してる」

「……っん……うんっ」

「気づくのが遅くなってごめん。ねぇ、俺は間に合った? 本当は君のお父上に許しをもらってからうつもりだったんだ。フライングになっちゃったけど、フライングしないと、君が誰かにとられそうで……。俺は、ちゃんと間に合った?」


 応えるために口を開こうとすると、アルバートがわずかに肩を跳ねさせる。

 その表情は、不安そうに揺れていて。


(もしかして、怖がってるの? 間に合わなかったかもって。私が、もう誰かの婚約者になっちゃったかもって?)


 そんなはずないのに――。


「馬鹿ね。アルバートは大馬鹿者だわ。大馬鹿者で、残酷で、とってもまぬけ」

「……アイリーンは俺を殺す気かな?」

「そんなわけないじゃない、馬鹿。私は、とっくに、あなたがエミリーエミリー言ってるときから、ずっとあなたが好きなのに」


 そう、ずっと。

 二度と恋はしないと決めたのに、また恋をしてしまった。

 エリクではなく、アルバート・グレイという男に。


「私は、ずっと、好きであなたの隣にいたのよ。好きだから、あなただけに私の隣を許してたの」


 その瞬間、アイリーンはアルバートに抱きしめられていた。

 優しい力ではない。強くて、少し苦しいけれど、その強さが今は心地いい。

 嘘じゃないのだと、これは現実なのだと思い知らせるように、もっと強く抱きしめてほしいとさえ思ってしまう。


「アイリーン、好きだ。好きなんだ」

「私も、好きよ」


 声が涙に濡れる。

 長かった。本当に、長い片想いだった。


「愛してる。君だけを、愛してるんだ」

「私も。あなただけを愛してるわ」


 でも片想いは、今日で終わる。

 だって、ようやく――。


「君の隣は俺だけのものだ」

「あなたの隣も、私だけのものよ」

「俺と、結婚してくれる?」

「ふふ。もちろん、喜んで!」


 長かった片想いが、ようやく実を結んだのだから。

 





 

 さよなら。

 さようなら。

 

 ずっと言おうとして、言えなかった言葉がある。

 

 ――〝さようなら、アルバート〟


 ずっと、言おうと思っていた。

 諦めるつもりの想いだったから。

 けれど今は、この言葉はふさわしくない。

 代わりにアイリーンが口にするなら、この言葉を自分に贈ろう。




 ――〝さようなら、私の片想い〟







〈了〉

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