第20話 王女の不在
アイリーンが外交のためにファルシュへと旅立って、一ヶ月が経とうという頃。
アルバートは今日も今日とて王宮の執務室にこもっていた。
他にやることがないからだ。
話し相手ならアイリーン以外にもいるけれど、どうにもそんな気分にはなれず、ひたすら仕事に打ち込んでいる。
前世でも、今世でも、アイリーンとこんなに長く離れたのは初めてのことだった。
「ネイト、次の書類」
城に与えられた執務室で、アルバートは自分の侍従に指示を出す。
といっても、本来ネイトにそこまでの役目はない。彼は侍従であり、あくまで日常のお世話係だからだ。
しかし独身で、頭の回転も早いため、アルバートは公私共にネイトをそばに置いている。
裏を返せばそれだけ信頼しているというわけだが、そんな信頼している侍従に、アルバートは可哀想な化け物でも見るような目を向けられていた。
「次の書類なんてもうありませんよ、若様」
「アンセルムに届ける決裁書は」
「全て処理済みです」
「父上に任せられた領地内の橋の修繕見積書は」
「すでに旦那様に決裁を仰いでおります」
「騎士団の事務方から頼まれた備品の購入リストは」
「先日必要なものをピックアップしてご自身で事務官に渡したのをお忘れですか? そもそも、騎士団関連は若様の仕事ではないはずですが」
「……他の雑務は」
「あなたがしなければならないような雑務は、ありません」
ぴしゃりと断られてしまい、ついにアルバートも閉口する。思いつく仕事が他になかったからだ。
ここ一ヵ月は、少しでも手が空くと退屈に感じてしまい、ずっと仕事をこなしていた。
明日や明後日にやらなければならない仕事を前倒し前倒しとやっていたら、いつのまにか二ヵ月先の仕事まで終わらせてしまっていたようだ。
残るは日々の雑務のみ。だから、他部署の仕事も積極的に請け負ってきたのだが。
「領地の仕事、もう少しもらえないか父上に相談してみようかな」
「おやめください。それ以上働いたら死にますよ」
「ええ? まだ結構元気だけど」
「自覚がないだけです。顔色が変わらないのはさすがと言いたいですけれど、顔色など見なくても明らかです。仕事量が度を越してます。馬鹿なんですかあなたは」
「馬鹿って……それはさすがに酷いんじゃ……」
容赦ないネイトに、アルバートは苦笑する。
いや、浮かべようとして、表情筋が動かないことに気がついた。
「……あれ?」
「どうしました、若様?」
「いや、なんか、顔が……」
言いながら、顔の違和感を確かめるために腕を上げようとしたところ、こちらもまたなかなか上がらない。
力が入らないのだ。
さっきまで羽ペンを握っていたはずなのに、ひと段落ついて手を止めたら、ペンすら握れなくなっている。
(あ、まずいかも……)
己の疲労や痛みに鈍感なアルバートも、さすがにこれはヤバイと思った。
全身に力が入らない。気怠い。瞬きすら億劫だ。
そういえば、もうずっとまともな食事をしていなかった。
仕事の片手間に食べられるような軽食ばかりで、睡眠も普通の人間の仮眠程度にしか取っていない。
ただただ、空いた時間を作りたくなくて。
「ネイト」
「なんですか、休憩してくれますか」
ネイトは気づかない。アルバートの変化に。
いつもこういうとき、誰よりも早く変化に気づいてくれるのは、アイリーンだった。
だからアルバートは、今まで最悪の事態に陥ったことはない。その前にいつも彼女がストップをかけてくれていたからだ。
しかし今、そのアイリーンは他国へと外交に出かけている。
「まずい。本当に、冗談抜きで、倒れそう」
「……はい?」
まるで血の気が引いていくように、頭の中が真っ白になる。ついでに視界も真っ白だ。椅子に座っているはずなのに、その感覚までもが遠くなっていく。
わかる。本能は、あと指先一本でも動かせば、この身体は倒れるだろうと理解している。
「ごめ……あと、たの、だ」
「若様!?」
そうしてアルバートは、椅子から転げ落ちるように倒れたのだった。
「――ということがあってね。君が呼ばれたのは、そのせいかな」
はは……とアルバートは乾いた笑みで繕った。
一方、そんなことを聞かされたユーインは、眉間にぐぐっとしわを寄せ、わずかに呆れのこもった目でアルバートを睨む。
「なるほど、理解しました。ですが、それは貴殿が寝台に張り付けられている現状の理由についてです。なぜそこで私が侯爵家に呼ばれたのか、それが理解できません」
ごもっともな疑問である。アルバートもそう思う。
頭を抱えたいことに、ユーインをオルドリッジ侯爵家にあるアルバートの私室に呼んだのは、母や妹、そしてネイトだった。
というのも、彼らはアルバートがユーインを気に入っていると勘違いしているからだ。
いや、ある意味勘違いではないのだが、こういうときに呼んでほしい人ではない。
だってエミリーならともかく、ユーインはアルバートを嫌っている。向こうにとってはいい迷惑だろう。彼の邪魔なんてしたくない。
それに、本当はこういうとき、そばにいてほしいのは――。
(アイリーン、まだ帰ってこないのかな)
外交に赴いている
彼女にとって、今回が初めての国外訪問だ。何も問題が起きていないといいけれど。
「……用がないようでしたら、私は帰らせていただきますが」
アルバートが思考に気を取られていると、ユーインがそう言った。
「えっ? あ、待って。ごめん、考え事してた」
慌てて彼を引き止める。無意識だった。
すると、扉に向かおうとしていた足を止め、ユーインがもう一度アルバートを振り返った。
その顔は、今までアルバートに向けていたものと同じ、感情のない無表情だ。とても好意的な表情ではない。
だからこそ意外に思う。
いくら侯爵夫人にお願いされたからとはいえ、彼がここに来てくれたことや、アルバートの「待って」という言葉に、素直に足を止めてくれたことが。
「なんですか?」
「え?」
「引き止めたのは貴殿でしょう? ご用件は?」
思えば、お菓子作りのときから彼の態度は軟化している。
けれどあのときのようにため口はやめたらしい。
そこにエミリーと同じ生真面目さを垣間見て、アルバートはわずかに口元を緩めた。懐かしい。一度砕けたのなら、もうそのままため口でよかったのに。変なところで頑固なのは変わらないらしい。
そんなところが、愛おしかった。
(何を言っても頑なで、次第に頬を膨らませる姿がかわいくて)
脳裏に浮かぶ、前世の恋人。好きだった。大切だった。守ってあげたかった。
ふと、ユーインに視線を持っていく。
我知らず、そこにエミリーの姿を重ねようとして――。
(あ、れ……?)
どういうわけか、重ならない。
互いに真っ直ぐと交わる視線。エミリーのものとは違う色の瞳。
それでも、今までは何度もその顔にエミリーが重なった。その痛いくらい真っ直ぐな瞳に、エミリーを感じた。
なのに、今はどれだけ凝視しても重ならない。
そこにいるのは、冷えたアイスブルーの瞳をもち、漆黒の髪をさらりと流す、気難しそうな男しかいない。
魂はエミリーと同じだと、それは今でも感じられるのに。
どうしてか、ユーインにしか見えない。少しもエミリーの欠片を見出せない。
唖然とするアルバートに気づいて、ユーインが片眉を跳ね上げた。
「さっきから何でしょうか。人の顔をまじまじと見て」
「えーと、その、意外だなって」
「意外?」
自分の変化に戸惑っていたアルバートは、咄嗟に嘘をついた。
「だってほら、ユーインって俺のこと、嫌いだよね? だから、いくら母上の頼みとはいえ、来てくれるなんて思わなくて」
ユーインは答えない。
ただじっと、何かを誤魔化すような微笑みを浮かべるアルバートの顔を、観察するように眺めていた。
やがて、彼が口を開く。
「嫌っては、おりません」
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