第8章 望まぬ願いを叶えるために
第18話 ファルシュの王子
アイリーンは宮殿から望む絶景に、忘我のひとときを楽しんでいた。
白壁で統一された、王都イル・カバナ。
迷路のように路地は細く、入り組むように住宅が建てられている様は壮観である。自国とは似ても似つかない風景だ。
これぞ、まさに異国という佇まい。
アイリーンは今、ラドニア王国から遠く離れた、ファルシュ王国という砂漠国家にやって来ている。
ラドニアよりも日差しが強いと聞いていたとおり、肌を露出しようものなら容赦なく日差しが肌を刺す。焼くなんて生易しいレベルではない。
が、それでもファルシュ人に言わせれば、今時期はそこまで強い日差しではないらしい。
なんでも今は、一年を通して過ごしやすい季節なのだとか。
だとしても、ラドニアの涼しい秋を知っているアイリーンにとっては、日差しは十分強く感じるし、ラドニアの真夏と同じくらいの暑さを感じている。
初めて触れる遠い異国の環境は、まだまだ馴染めそうになかった。
(でも、全然ラドニアとは景観が違うから、見ていて飽きないわ)
遠くに見える砂色に、手前に見える白い家々。
空はからっと晴れていて、海にも負けないほどの紺碧色だ。
そのコントラストは、この国に来なければお目にかかれなかったものだろう。
(世界って広いのね。前世を合わせても、知らないことばっかり。どうせならアルバートにも……)
――見せたかったわ。
そう思いかけて、慌てて思考にストップをかけた。アルバートのことを考えている場合ではない。
アイリーンが遠いファルシュにやって来たのは、まさに彼を諦めるためなのだから。
表向きは、ラドニア王国第一王女の、知識と見聞を広めるため。
しかし実際は、ラドニア王国第一王女の、婚約者を決めるための訪問だ。
何も知らないファルシュの人々は、笑顔でアイリーンを迎えてくれた。
(私の
明るく快活な国民性なのだろう。
他国の王女にも気さくに話しかけてくれる人々に、アイリーンは心を和ませた。
天候こそ慣れないものの、ここの人々の気質を気に入ったアイリーンは、ますますこの国に嫁ぐ気持ちを固めていく。
「姫様」
ふいにアデルが声をかけてきた。
「そろそろ中にお入りください。姫様の玉の肌が焼けてしまいます」
真顔で促され、アイリーンは苦笑する。
本当はもう少しぼーっと街を眺めていたかったが、アイリーンのためにずっと日傘を差してくれているのはアデルだ。これ以上は申し訳ないと感じた。
「そうね。そろそろ殿下もお見えになる頃だし、中に戻りましょう」
そのとき、タイミングを見計らったように部屋の扉が来客を告げる。
顔を出したのは、このファルシュ王国の第二王子アズラクだった。
「また見てたのか」
どこか呆れるような、けれど仕方ないなと言わんばかりの微笑を浮かべる。
アズラクは、多くのファルシュ人がそうであるように、肌は健康的に焼けている。
彫りが深く、精悍という言葉が最も似合う風貌だ。太陽が身近なこの国に相応しい、燃えるような赤色の髪と瞳。
この国の美の基準などわからないアイリーンでも、彼が女性にモテるだろうことは容易に想像できた。
事実、この国にやってきて早数週間。宮殿内にいる女性陣から熱い視線を送られているところを、アイリーンは幾度となく目撃している。
「またとは何よ。何度見ても飽きないのだからいいでしょう?」
「気に入ってもらえたのは嬉しいが、俺が心配しているのはおまえの身体だ。慣れない日差しに当たりすぎると、立ちくらみを起こすぞ」
とても知り合って数週間とは思えないほど、二人は砕けた調子で会話を交わす。
周りはそんな二人の急接近に、最初は戸惑いを隠せていなかった。
しかし今では慣れたものだ。
互いが互いを「アイリーン」「アズラク」と呼び捨てても、顔色ひとつ変えない。
いや、裏ではそんな二人について、楽しげに噂をしまくっているらしいが。
「そうね、気をつけるわ。心配してくれてありがとう」
「気にするな。ところで……」
言いながら、アズラクは自身の騎士に目配せをした。さがれ、と伝えたらしい。心得たように部屋から出ていこうとする彼らを見て、アイリーンも自分に付けられたファルシュの侍女たちを同じように退出させた。
残ったのは、アイリーンとアズラク、そして事情を知るアデルだけだ。
今回の訪問では、アイリーンはアデルと数名の騎士しか国から連れて来てはいない。ユーインでさえ、彼女は伴わなかった。
「はぁ、やっと二人になれた」
まだアデルがいるが、彼女はいつも空気と化しているため、アズラクもそう扱うようにしたらしい。
ソファにどかりと腰掛けると、背もたれにもたれる。
「なんだかお疲れのようね。優雅にお茶しかしていないのが申し訳なく感じるわ」
「いや、その〝お茶〟が女性にとっては戦場なのだろう? そんなのばかりさせて、こちらこそ申し訳ないな」
「あら。あなたが女性のことに詳しいなんて、アルバートが聞いたら発熱を疑われるのではなくて?」
「それはない」
アイリーンがくすくすと笑うと、アズラクが少しだけ眉根を上げた。
「ふふ。本当にあなたは……昔よりも随分と感情表現が豊かになったわね?」
「おまえは、昔よりもずっと意地が悪くなった」
「まあ」
またくすりと笑ってしまう。
失礼なことを言われているけれど、それが目の前の男なら気にならない。
なぜなら彼は――否、彼も。アイリーンと同じ、前世の記憶を持っているからだ。
そして彼の前世は、リジーとエリクの友人だった、同じ騎士のルークである。
「ルークはいっつも無口無表情で、たまに何を考えているかわからなかったけど……。じゃあ昔は私のこと、少しは良く思ってくれていたのかしら」
「……まあな。大切な友人だと思ってた」
「今は?」
「同じだよ。なんだかんだ、おまえは変わらない」
「あなたもね」
どちらからともなく微笑み合う。
二人が知り合って間もなく打ち解けたのは、前世のことがあったからだ。
例に漏れず、二人は出会った瞬間に理解した。
彼は、彼女は、前世の友人だと。
思いきって記憶があるかどうか訊ねたのは、アイリーンのほうだった。
「でもまさか、こんな遠いところに転生しているなんて思わないわよ、普通」
「それを言うなら、リジーもエリクも、さらにはエミリー様まで転生しているなんて思わなかったさ、俺は」
「そうね。改めて考えると、すごいわよね」
今度は二人して頷き合う。
でも、ファルシュ王国の第二王子がルークであって、アイリーンは嬉しい誤算だと思った。
これなら、何も知らない相手に嫁ぐより、断然抵抗が少なくなった。
「さて、昔話はこれくらいにして、そろそろ本題に入ろう」
「ええ。こちらの目的と条件は先日話したとおりよ。私を受け入れてくれたら、そちらには良いこと尽くしだと思うのだけど」
「それは否定しない」
アイリーンがファルシュを訪問したのは、何度も言うが、婚約のためだ。
遠い異国であるために、手紙で何度もやりとりしていては時間がかかる。そう考えたアイリーンは、さっさと目的の人物に会って、婚約にこぎつけようと画策した。
だからアイリーンから手紙を出し、返事が来た一ヶ月後に、こうして本当にファルシュを訪れたというわけである。
この訪問で、アイリーンはアズラクとの婚約を成立させるつもりだった。
そのためには、いかに自分の価値を提示できるかが鍵となってくる。
こんな婚約の仕方は、異例中の異例だろう。
「アイリーンの言いたいことは理解した。おまえの価値も理解した。だが、おまえの本音を聞いていない」
予想外の返答に、アイリーンは生唾を呑み込んだ。
心臓が飛び跳ねそうになったのは、ただの気のせいだろう。決して、痛いところを突かれたからじゃない。
「本音なんて……王族の婚姻には必要ない。そうでしょう?」
それはアズラクだって解っているはずだ。
王侯貴族に政略結婚は付きものである。昔より恋愛結婚が目立つようになってきた御時世とはいえ、アイリーンは今回、それを求めてはいない。
「そういう理屈は今は聞いていない。そうではなく――エリクも、ここに生まれ変わっているんだろう?」
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