第6話 惑わされる


「ちょっと!?」


 ちょうど曲が終わるタイミングで、いきなり手を引っ張られる。振り解こうにも相手の力が強く、されるがままテラスへと出た。

 人はほとんどいない。

 オーガストは迷うことなくテラスから庭園に続く階段を下りていく。


 この時点で貞操の危機を察知したアイリーンは、さらに抵抗を試みた。掴まれた手を振り解くため、腕を大きく振ってみたり、階段の手すりに縋ってみたり。

 とても王女とは思えない振る舞いだったが、無抵抗で彼のいいようにだけはされたくなかった。


「大人しくついてきてくださいよ、リジー。無駄な抵抗は危ないですよ」

「私はアイリーンよ。それに誰が大人しくついていくものですか」

「だったら声を上げては?」


 面白そうに喉を鳴らす。

 そんなことをしたらアイリーンの評判に傷がつくことくらい、彼だってわかっているはずだ。男に襲われた、傷物の王女として。


(やっぱり最低ね、この男!)


 手すりを掴んでいた左手に、さらに力を込める。

 が、騎士として鍛えていた前世ならまだしも、今のアイリーンに力などあってないようなものだ。

 結局力負けしてしまい、抵抗していたぶん、身体は思いきりオーガストの方へと落ちていく。


「ほら、だから言ったじゃないですか」


 すっぽりと抱きとめられて、胸の中に悔しさが広がった。

 勢いよく顔を上げて、文句を言おうとした、そのとき。


「アイリーン!」


 自分の名を呼ぶ親しい声に、肩がびくりと震えた。

 振り返ると、階段の上の方にアルバートがいる。その表情には焦りと、少しの怒り。


「ヴァレンタイン伯爵、何をしているんですか。彼女をどこに連れて行くつもりで?」


 いつも優しい彼にしては珍しく、きつく咎めるような声だった。


「何を、と訊ねられましても。愛しい王女殿下との逢瀬を楽しんでいるだけですが?」


 挑発するように抱きしめられて、アイリーンは内心で絶叫した。


「誰がいとっ――」


 文句を言おうとしたら、問答無用で後頭部を引き寄せられて、彼の胸板で口を塞がれる。慣れない香水の匂いが鼻を通り、思わず息を止めた。


(ちょ、この男、信じらんない!!)


 どうやら彼は、さっそく復讐の前菜とやらを実行しているらしい。

 これのどこにアルバートの傷つく要素があるのかは謎だが、とりあえず、抱きしめられている身体には鳥肌が立っている。

 めいっぱいオーガストの胸板を押し返してみたが、びくともしない。


「そういうことですから、あなたはお呼びじゃありませんよ。そもそも婚約者でもないあなたに、口出しする権利がおありで?」


 その言葉には、アイリーンが憤った。


(なに余計なこと言ってくれてるの!? これでもし本当にアルバートが引き下がったらどうしてくれるっていうのよ! 私に明日から屍として生きろと言うのかしら、この男はっ)


 下衆ゲス中の下衆に、アイリーンの怒りはさらに勢いを増していく。


 アルバートは、アイリーンがどうしてオーガストに近づいたのか、その理由を知っている。

 けれど、彼は最初に言っていた。「よかった、君まで毒されてなくて」

 それはつまり、毒される可能性を少しでも考えていたというわけで。

 ここにきてアイリーンが心変わりし、オーガストに毒されてしまったと思われたら、しばらく立ち直れる自信がない。


「さて、ご自分の立場を理解されたなら、さっさと立ち去っていただけますか?」

(嫌よアルバート。行かないわよね? ちょっと本気で気持ち悪くなってきたのよ、こっちは。助けてくれるわよね?)


 不安で胸の中がぐちゃぐちゃだ。

 そのときアルバートから、はぁと呆れたようなため息が吐き出された。どくり。心臓が嫌な音を立てる。このが妙に緊張する。


「わかってませんね、伯爵」

「と、言いますと?」


 ぎゅっと拳を握る。何を言われても、耐えられるように。


「彼女があなたのような男になびくはずがありません。嘘は通用しませんよ」


 その言葉に、アイリーンの目頭が熱くなった。

 誤解されていない。それだけのことが、こんなにも嬉しいなんて。

 無意識に強張らせていた肩から、そっと力を抜いた。


「俺が信じているのは彼女であって、あなたの言葉に貸す耳はない。彼女が自らあなたを好いていると言わない限り、俺は何度だって邪魔をしましょう。――アイリーン」


 急に名前を呼ばれる。

 オーガストにはあんなに冷たい声だったのに、最後、自分の名前を呼ぶときには打って変わって温かくなった声音に、アイリーンの心臓がきゅうと切なくなった。


「ねぇ、アイリーン。君は、彼が好きなのかい?」


 首を横に振る。ちぎれても構わない勢いで。

 物理的に口を封じられていたため、アイリーンは今の自分にできる最大限の拒絶を示した。


「ということらしいですよ、伯爵。彼女を返してくれますね?」


 わざとらしく友好的に微笑むアルバートに、オーガストはつまらなさそうな顔をした。

 アイリーンの拘束を解くと、白けた声で言う。


「なるほど、そうやって彼女を繋ぎ止めているわけですね。天然なのか計算なのか。まったく、あなたほど残酷な男はなかなかいませんよ。殿下には同情します」

「余計なお世話だわ」


 アルバートの許に逃げ込んだアイリーンは、感情も露わに言い返した。

 同情なんてされたくない。特に、オーガストのような男には。


「まあいいでしょう。王女殿下に免じて、ハンナ嬢からは手を引きます。ただし、殿下は覚悟しておいてくださいね?」


 うっすらと笑みを浮かべ、獲物をロックオンした獣のように瞳を光らせる。ハンナよりもアイリーンのほうが生贄としての価値があると判断したのか。

 なんの未練もなく、オーガストはこの場から立ち去った。


 なんとか役目を果たせたアイリーンは、とりあえず怒りを鎮める。

 けれど、アイリーンと違い、いまだに不機嫌な人物がいた。アルバートだ。


「いったい彼とどんな話をしたの? アイリーン」

「特にこれといった話はしてないわ。いい加減にしないと怒るわよってくらいで」

「それでどうして君が同情されて、覚悟する羽目になってるの?」

「そんなの私だって知らないわよ。ほんと、噂通りふざけた人ね。アルバートもいちいちあんな人の言うことを真に受けてたら、身がもたないわよ?」


 会場に戻るべく、アルバートを置いて階段を上っていく。後ろから「アイリーン!」と咎める声が聞こえたが、わざと無視した。


 だってこれ以上深く突っ込まれれば、全てを話さなければならなくなる。

 アルバートには、今世こそ幸せになってもらいたいのだ。他の瑣末事に巻き込みたくはない。


「そうだわ、アルバート」

「なに?」


 階段を上りきったところで、アイリーンは後ろを振り返る。

 納得のいっていないアルバートは、少しだけ不貞腐れた顔をしていた。唇を尖らせて、まるで拗ねる子供だ。

 そんな彼を視界に映しながら、アイリーンはオーガストの言葉に思いを馳せる。


 ――〝あなたほど残酷な男はなかなかいませんよ〟

 

 まったくだ。アイリーンもそう思う。

 それでも、心は彼を求めてしまう。どんなに残酷な彼だろうと、どうしても嫌いになれない。

 だって、彼がそれ以上に魅力的なことを、アイリーンは知っているから。


「さっきは助けてくれてありがとう。あなたが私の言葉を信じてくれて、嬉しかったわ」

「……!」


 本当に。とっても。

 照れくさくなるくらい、嬉しかった。

 他人の言葉よりも自分のことを信じてくれた彼に、自然と頬が緩む。


 それは、アイリーンが親しいものにしか見せない、無邪気で隙だらけの、満面の笑みだった。



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