第3章 彼は道化と踊る

第7話 彼の始まり


 アルバートが前世の記憶を思い出したのは――否、、物心がつく前からだった。


 おそらく最初から記憶はあったのだろう。だからこそ、アルバートは己の中にある記憶を、最初はそうと気づけなかった。


『えみりー、どこにいるの? りじー? またかくれんぼでもしてるの?』


 屋敷中をくまなく探して、でもどこにもいない二人に、幼いアルバートは泣きそうになる。


『えみりー、りじー……』


 そんな息子に、両親はいつも困った顔をしていた。


『アルバートは、いつも誰を探しているのかしら。お母様に教えてくれる?』

『あのね、えみりーはね、ぼくがまもらなきゃいけない女の子だよ。でね、りじーはね、ぼくのたいせつな、しんゆーなんだ。ほかにもね、おんじんのきゃんべるさま、ともだちのるーくも、さがしてるの』

『まあ、たくさんいるのね。でもどこでそんなに知り合ったの?』


 努めて優しく訊ねる母を見て、幼いアルバートは顔を曇らせた。母の瞳の中に、困惑と戸惑いを見つけたからだ。


『……えるゔぁいん……』

『エルヴァイン? どこかの地名かしら。でも、聞いたことないわね』

『エルヴァインといったら、あれじゃないか? 幻の公国と言われる、エルヴァイン公国。もう何百年も前に当時の隣国との戦争で失われた、水の都だよ』


 父の言葉に、アルバートは顔を真っ青にさせた。


『ちちうえっ、うしなわれたって、どーゆーこと!?』

『落ち着きなさいアルバート。どうしておまえがエルヴァインを知っているのかは謎だが、もう昔の話だ。水資源が豊富で、まるで桃源郷のように美しい街並みが多かったと聞くが、戦争に敗れて隣国に吸収されたんだよ。だが、戦争の爪痕が酷くてね。確か元の景観を取り戻すことができず、やがて幻の公国と言われるようになったんだ』

『凄いわアルバート。まだ歴史のお勉強もしていないのに、そんな国を知っているなんて』


 感心する両親に見向きもせず、アルバートは絶望に打ち震えていた。

 まさか、あの美しい故国が、優しい彼らが、もう二度と会えないものになっていたなんて。


 このときようやく、アルバートは全ての記憶を取り戻した。


 隣国から戦争を仕掛けられ、その最中に親友ともを失い、愛する人を置いて逝ってしまったことを。

 薄れゆく意識の中、戦争が無事に終わり、どうか〝彼女〟の未来に平穏が訪れますようにと願った。

 しかし現実は、あまりにも酷だ。


『えみりー……っ』


 急に思い出した悲惨な光景は、どうやら齢四つの子供の頭には受け入れ難いものだったらしい。

 アルバートは高熱を出し、それから三日間、渾々こんこんと苦しむ羽目になった。


 そして次に目を覚ましたとき、アルバートはすでに悟っていた。自分の中にある記憶は、決して誰とも共有できない、表に出すべき記憶ではないのだと。


 今まで両親に心配をかけてきた分、アルバートはもう前世について口にすることはなくなり、侯爵家嫡男としての使命を全うするため、勉強漬けの毎日を送った。

 何かをしていなければ、気が狂いそうだったということもある。誰とも共有できないのに、確かに自分の中に存在する記憶は、日に日にアルバートを苦しめていたから。

 もうどうすることも叶わない。

 もう、どうにもできない。

 なぜならあれは前世かこの話で、人は時を遡れないからだ。


 だから、気が狂いそうになる。

 眠れない日々が続くなか、もしかしてこれは、ただの悪夢なんじゃないか、そう思うこともあった。そう思い込もうとしたこともあった。


 それでも、蘇る記憶の生々しさに、それはないと本能が訴える。まるで逃げることを許さないとでも言うように。

 正直、限界だった。一人で抱え込むには。

 そんなときだ。自分が、このラドニア王国第一王女の、婚約者候補になったと聞かされたのは。


(もう、どうでもいい)


 エミリー以外なら、誰でも変わらない。辛い。終わりのない苦しみが。

 それでも侯爵家の後継として、恥ずかしくない振る舞いを心がけようと顔には偽りの笑みをく。

 案内された客間に通されて、母と共に件の王女を待った。


 やがて扉が開き、まず、王妃が入室する。少しだけつり目がちな女性は、相手に気の強そうな印象を与える。彼女が入ってきただけで、部屋の中の空気が緊張した。

 アルバートも手に汗が滲むのを感じた。

 けれど、王妃に続いて姿を現した人物に、アルバートの頭は真っ白になった。


 ――ぽろ、と。


 涙が、静かに頬を滑り落ちる。

 それを見た王女――アイリーンが、目をぎょっとさせた。

 二人の様子がおかしいことに気づいた母たちも、アルバートの涙には困惑を隠せないようだ。


『……リ、ジー……っ』


 人に聞こえるか聞こえないかの、掠れた声。

 こんな声、聞こえていなくていい。聞こえていたら、自分は侯爵家に泥をぬってしまう。王女との対面時に、他の女性の名前を呟くなんて。


 でも、聞こえていてほしいとも思っていた。

 目の前の王女に自分の声が届いていて、彼女もまた、前世の自分の名前を呼んでくれたら……。


(そんな奇跡、起こるはずないのに)


 一目見て解った。彼女はリジーだ。前世の、自分の親友。

 おそらく、魂が反応しているのだろう。ずっと探し求めてやまなかった、前世の大切な人に。


 やっと見つけた。やっと、やっとの思いで、その一人を。

 きっとこのときの自分は、見ていられないくらい縋った顔をしていたのだろう。

 その心境を優しく受け止めるように、アイリーンもまた涙目で微笑む。


『ええ、久しぶりね、エリク』


 そのときの感情を、アルバートは言葉にできない。

 弾かれたように抱きしめて、抱きしめて。

 力の限り抱きしめて。

 思いきり泣き叫びたいのに、あまりに胸が痛くて、呼吸もままならなかった。

 遠慮がちに抱き返される手が、これを現実だと教えてくれて、また涙が溢れる。


 結局このときのアルバートは、相手が王女ということも忘れ、さらには母たちのことも忘れて、これが夢でないようにと祈りながら必死にアイリーンを抱きしめることしかできなかったのだった――。





「――さま。いらっしゃいますか、若様」


 タウンハウスにある自室の執務机でうたた寝をしていたアルバートは、現実の声に目を覚ます。

 目を擦り、どうぞと入室の許可を出した。


 机の上には書類が散らばっていて、眠る前に仕事をしていたことを思い出す。

 まだ侯爵家を継いでいないアルバートは、王宮の文官として出仕している。見習いのようなものだ。

 それだけでなく、父から少しずつ侯爵としての仕事も教わっていた。近い将来、立派に領地を治められるように。


「どうしたの? 何かあった?」

「何かあったはこちらのセリフですよ、アルバート坊ちゃん」


 入ってくるなり渋面をたたえた侍従は、机の上の惨状を見てさらに眉を顰めた。

 彼の言いたいことが手に取るようにわかったアルバートは、乾いた微笑で誤魔化してみる。


「ネイト、坊ちゃんはやめてくれるかい。もうそんな年じゃないよ」

「ではそう言われないよう、自己管理をしっかりなさってください。最近寝ていないそうですね?」

「あー、まあね。でもよくわかったね? 結構うまく隠せてたはずなんだけど。ほら俺、こう見えても次期侯爵だし? 色々考えさせられるっていうか」

「こう見えても何も、あなたほどその後継にふさわしい御方はおりません。いったい何に悩んでいるんです? そのせいで仕事も捗っていないようですが」


 さすが、自分の片腕と認める男である。ネイトは正しくアルバートの状態を把握していた。


 悩んでいる。ここ最近、ずっと。

 それは、前世の親友にも言えない――否、自分でもよくわかっていない、漠然とした悩みだった。

 漠然としているのだが、アルバートにとっては無視できない。


(最近、アイリーンがアイリーンにしか見えないなんて……)


 何を言っているんだ、と周りの人間が聞いたら思うだろう。

 でもアルバートにとってアイリーンとは、リジーという名の、前世の親友なのだ。それ以上でも以下でもない。

 だからこそ、リジーがアイリーンにしか見えない現状に、自身の頭を捻らせた。

 リジーになら考えなかったことも、アイリーンには考えてしまう。

 そう、たとえば。


(アイリーンって、今結婚適齢期だったっけ?)


 彼女の結婚についてとか。

 たぶんそれは、あの舞踏会の夜、オーガストに言い寄られている彼女を見たからだろう。

 

 ――〝あなたが私の言葉を信じてくれて、嬉しかったわ〟


 思い出すのは、そう言って隙だらけの笑みを見せたアイリーンだ。

 その笑みが、あの日からなぜか頭の中を占めている。王妃に似たつり目がちの瞳をふにゃりと垂れ下げて、頬を淡く染める彼女。


 それは言わば、普段王女として凛とした雰囲気を纏わせる彼女が、一気に親しみやすくなる瞬間だった。



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