世界に歯形を残したい
ロジィ
世界に歯形を残したい
直人に別れたいと告げたとき、彼はとても驚いた顔をした。
「どうして?」
何度もそう聞かれた。でも、私は理由を言いたくなかった。
だって、彼に理解できるとはとても思えなかったから。
****
直人はとても優しい人だった。
よく笑い、よく話す人。それが彼に初めて会ったときの印象だった。
「沙希ちゃん、今度一緒にご飯どうかな? 友達が教えてくれた美味しい店があるんだ」
誘いの言葉はありふれたものだったけれど、それすらも彼の誠実さの表れだと思った。
そして、食事をともにした日、直人は私に告白してくれた。
「沙希ちゃんのこと、もっと知りたい」
そう言ってくれた。だから私も、
「私も、直人さんのこと、たくさん教えてほしい」
と、答えた。
付き合ってからも、彼は優しく、よく笑い、よく話した。
「今日はドライブに行こうか」
何度目かのデートで、直人は私をドライブに連れて行った。目的地は教えてもらえなかった。
「ねぇ、どこに行くの?」
「いいからいいから」
そんな会話が何度も繰り返された。
車はぐねぐねした山道を登り、その道幅はだんだんと細くなっていく。私は不安になって、直人の手をぎゅっと握った。
「ここだよ」
彼が車を止めたのは、山中に突然、魔法のように現れた展望台だった。おっかなびっくり車を降りる私に、直人は微笑んで手を貸してくれた。
風の音がする。というか、風と葉ずれの音しかしない。静寂とも喧騒とも違う、内側にたくさんの音を潜めた、密度の濃い「静けさ」。
「こっちこっち」
まるで秘密基地に案内する少年みたいに、彼は私の手を引いた。
数段の階段を上り、柵の近くまで行くと、私の口から「わぁ」という声が漏れた。
まだ初秋の時期だが、山の木々はほんのりと色づいていて、その遥か遠くには街並みが一望できた。
爽やかな風が吹いて、押し潰されるようだった「静けさ」は一気に軽くなった。私の胸の奥まですっとさせるような、そんな空気が押し寄せてくる。
「綺麗でしょ」
「うん、すごいね」
不安だったことも忘れて、私はその景色に見入っていた。
「沙希ちゃんに見せたかったんだ、ここの景色」
なんて優しいんだろう。自分のお気に入りの場所に私を連れて来てくれたんだ。
自分の秘密を分け与えるようなその行為は、とても崇高なものに思えた。そんな人が私の恋人なんだと、私はとても誇らしかった。
「ここに初めて来たのは、三年前だったかな」
「そうなんだ」
「前に付き合ってた人と一緒にドライブしてたときに見つけたんだ」
スッと体温が下がったような気がした。さっきまで胸を溢れさせていた感情が一気に萎んで、片隅に醜いかたちとなって残る。「静けさ」は圧迫感を取り戻し、私はまた息苦しさを覚えた。
「そう、なんだ」
直人はまた優しく笑った。
彼はとても優しい人だから。だから――そう、仕方ない。
私も直人に笑いかける。
だけど、目の前に広がる景色の美しさなんて、もう分からなかった。
****
彼は優しい人。よく笑い、よく話す人。
いろんな場所、いろんなことを私に教えてくれた。
「このお店、すっごく雰囲気がいいんだ」
「この本は勉強になるから読んだ方がいいよ」
「この公園、小さいときからよく遊びに来てたんだ」
直人が教えてくれるものはどれも素晴らしかった。まるであつらえたように私の好みにぴったりと当てはまった。
「この店は、昔の彼女とよく来たんだ」
「この本は会社の上司に勧められて読んだんだ」
「この公園には、よく家族でピクニックに来たなぁ」
直人が教えてくれるものには、すべてと言っていいほど誰かの影があった。
彼はとても優しい人。
だから、きっと過去の思い出すら私に分け与えてくれているのだ。そう思おうとした。
「そうなんだ。教えてくれてありがとう」
私がそう言うと、直人はとても嬉しそうに笑った。
****
「近くに新しくオープンしたお店があるんだって。行ってみようよ」
コンビニでタウン誌を立ち読みしながら、私は直人に提案した。
新しくオープンする店ならば、私と直人の初めての思い出になる。そんな思惑もあった。
「うーん、でも新しいとこって混むから並ばなきゃいけないでしょ。時間がもったいないから、もう少ししてからにしよう。この間、妹がいい店教えてくれたから、そこに行こうよ」
そう言って直人は優しく笑った。
彼はとても優しい人。そしてよく笑い、よく話す人。
彼が差し出すものはとても魅力的で、素晴らしくて、まるで私のためにあるようなのに。それなのに、口にしようとした瞬間、そこに誰かの歯形が付いているのを必ず知らされてしまう。
目の前のものは魅力を失って、ただの残飯と同じだ。口にすればきっと素晴らしい味がするのだろう。でも、私はもう食べる気にはなれない。
「あ、そうだ。この漫画、友達が面白いって言ってたんだ。今度、漫画喫茶でも行かない?」
――吐き気がした。
****
別れの理由を問う直人に、私はぽつりと呟いた。
「飲み込めないの」
私の言葉に直人は口を開けてポカンとした。とても優しい人、よく笑い、よく話す人なのに。こんな顔で言葉を失うなんて。
もっとそうであったなら、私ももっと、いろんなことを飲み込めたのかもしれない。
「ごめんなさい、さようなら」
そう言って私は席を立った。今日待ち合わせたこのカフェだって、彼が大学生時代に親友たちと入り浸った場所。
直人と別れて歩いていると、ふとパンの香りに気付いた。その小さなパン屋は、彼の家族がお気に入りの店だった。「学校帰りに買っていくと、みんな喜んでくれたんだ」って嬉しそうに教えてくれた。
私はしばらくその店を眺めていたが、香りに引き摺られるように店の中に入った。
いろんな種類、色んなかたちのパンから、私は丸いあんパンを選んだ。これは彼のおばあちゃんのお気に入り。
近くの公園に行き、ベンチに座る。この公園は、彼が初恋の人に告白した場所。
紙袋からあんパンを取り出す。
そして、私はあんパンに思い切りかじりついた。曲線を描く、私の歯形が、丸いあんパンを切り取る。
あんこの甘さと、生地の塩気が口の中で混ざり合う。それを何度も咀嚼して飲み込んだ。
子供の頃、歯並びのよさは私の自慢だった。トーストをかじったとき、そこに現れる美しい曲線に、たびたびうっとりしたものだった。
大人になると、自分の歯形を見る機会なんてなくなって、私の自慢は私の口の中でただじっと出番を待つしかなかった。
あんパンの丸さにも負けないくらいの曲線を描く私の歯形に、私は大きな声で笑い出したい気分だった。
私はまだまだ子供で、世界は私だけのものであって欲しかった。
直人に告げたさよならの理由なんて、たったそれだけだった。
【 完 】
世界に歯形を残したい ロジィ @rozy-novel
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