第2話 移民坂

深見エミは高校を出ると淡路島から神戸に出てきた。エミの夢は服飾デザイナー、新開地三角公園そばにある叔父の家に身を寄せて、洋裁専門学校に通うことになった。

通学は上沢通に出て、湊川公園西口から市電の山手線に乗って、県庁前を過ぎて、中山手4丁目の停留所で降りる。メリケン波止場から大丸、元町駅へと真っすぐ登ってきた道、鯉川筋だ。洋裁学校は看板の文字がなければ、運動場のない普通の学校という感じであった。教室の窓からは港が見え、エミは2年間通うことになるこの小さな学校が気に入った。校門がわりのバラのアーケードには『神戸ドレメ洋装学院』の青い文字の木の看板が架けられていた。

 坂を登りきったところに『移民センター』*があった。エミは、第一回芥川賞受賞と書かれた本に興味を抱いて中学の時読んだ、石川達三『蒼氓』の中に出てきた所であった。ブラジル移民をテーマにした小説だが、移民とは名ばかりで、移民に名を借りた日本から切り捨てられた『棄民』、戦前の貧しい農民の姿がそこには書かれてあった。

 

この本の書き出しは、こう書いてある。


 一九三○年三月八日、

 神戸港は雨である。細々とけぶる春雨である。海は灰色に霞(かす)み、街も朝から夕暮れどきのように暗い。

 三ノ宮駅から山ノ手に向う赤土の坂道はどろどろのぬかるみである。この道を朝早くから幾台となく自動車が駈け上って行く。それは殆んど絶え間もなく後から後からと続く行列である。この道が丘につき当って行き詰ったところに黄色い無装飾の大きなビルディングが建っている。後に赤松の丘を負い、右手は贅沢な尖塔をもったトア・ホテルに続き、左は黒く汚い細民街に連なるこの丘のうえの是(これ)が「国立海外移民収容所」である。

 濡れて光る自動車が次から次へと上って来ては停る。停るとぎしぎしに詰っていた車の中から親子一同ぞろりと細雨の中に降り立つ。途惑(とまど)いして、襟をかき合せて、あたりを見廻す。女房は顔をかしげて亭主の表情を見る。子供はしゅんと鼻水をすゝり上げる。やがて母は二人の子を促し、手を引き、父は大きな行李(こうり)や風呂敷包みを担(かつ)ぎあげて、天幕(テント)張りの受付にのっそりと近づいて、へッとおじぎをする。制服制帽の巡査のような所員は名簿を繰りながら訊ねる。

「誰だね?」


 〈三ノ宮駅と書かれているが、今の元町駅のことである〉


 エミはこんな近い所に本で読んだ場所があると思うと何故か不思議だった。弟と一緒にブラジルに渡る、残す思いを寄せる男に書いた手紙を出すことなく、主人公夏が旅立つ港に降りて行った道かと思うと、エミには通学途中の赤いポストが無情に見え、ロマンチックに語られる港だが、百のヒトや、モノの出入りがあれば百の物語があるのだと思った。エミは神戸の港のことをもっと知りたいと思った。


 思いを寄せる男とは、紡績工場の女工監督で、夏は求婚されていた。徴兵検査を逃れたい弟、孫市のために、一緒にブラジルへ旅立つのである。一年したら帰ってこよう。いや、三年になるかもしれない。それまで待っていてくれるだろうか…。手紙は短いもので、こう書かれていた。

《お手紙を読みました。私は一年たったら帰ります。弟が可愛そうですから行かねばなりません。をこらないで居てくださえ。おたっしゃで居てくださえ。私もたっしゃで居ります。きっと帰りますからをこらないで待って居てくださえ。さようなら。紡績の皆さまによろしく言ってくださえ。さようなら》

 主人公、佐藤夏…。求婚者堀川への手紙を海に投げ捨てるラストがエミは哀しく、読んで涙した。


注釈と資料 

戦前の元町周辺には十数軒の移民宿があり、ブラジルやハワイへの移民が宿泊し、従業員が渡航手続きも代行した。衛生や料金の面で問題ある宿もあり、1928年に、鉄筋コンクリート5階建ての国立移民収容所が開設された。入所期間は10日以内、出港の日まで各種講話と予防接種に明け暮れるが、滞在費は無料であった。

1971年 閉所。43年の歴史に幕を降ろした。その後、再整備して『海外移住と文化の交流センター』として2009年にオープンした。

震災で壊れたメリケン波止場跡はメリケンパークとなって市民の憩いの場になっている。そこに、移民乗船を記念した『希望の船出像』がある。


私が書いた一番長い小説『神戸ファッション物語』からの一節。

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