第248話 生涯一度の【魅了】



「………」


 ローレライは自分の身体に目を向ける。


 体を包んでいた淡い光は消え去っていた。


 いや、光だけではない。

 取り巻いていた風の支援も、いつの間にか失われていた。


 どうやってか、自分への強力な加護が取り去られていたのである。


「……私の負けよ」


 落下していた自分を抱き止めることができたくらいである。

 とどめの追撃を入れることなど、造作もなかっただろう。


 敗北を認めると同時に、ローレライの心の中では一つの決意が現れていた。


「よかった」


 ラモは嬉しそうに言った。


 審判の男がそれを耳にし、ラモの勝利を高らかに宣言する。

 とたんに、観客席からはどっと歓声が沸いた。


 盛大な拍手がふたりに降り注ぎ始める。


「……あなたに決めた」


 そんな中、ローレライは自分を促すように小声で言った。


「ん? なにか言いました?」


「完敗よ。あなたと戦えて光栄でした。最後にもう一度握手をしてもらってもいい?」


 ローレライは今までにない、明るい笑顔を作ってみせた。


「もちろんです」


 ラモは何も疑うことなく近づき、右手を差し出す。


「ありがとう」


 ローレライはラモの右手を両手で包み込むように握り、にこり、と笑う。

 そしてローレライは、人生でたった一度しか行うことのできない、マーメイドの呪いを発揮したのだ。




 ◇◆◇◆◇◆◇




 イザヴェル連合王国沖に棲む人魚族マーメイドは、百年ほど前より戦を続けている。


 敵対勢力はヒットカンポス族。

 古くは同じ領海を共有し、互いを侵害せぬよう共存していた種族だった。


 発端は吹けば飛ぶような些細な出来事。

 一方が出向き、謝罪をすれば、それで済んだかもしれない。


 しかしそれがこじれにこじれ、予想もしなかった大戦争へと発展してしまったのである。


 こうしている今も、争いは絶えない。


 長年、勢力は拮抗したものであったが、つい半年ほど前から、人魚族マーメイドは苦境に立たされている。


 食糧を調達していた海溝を含む西側の領海を、奪われてしまったのだ。

 これには長年戦争をしてきた者たちも、動揺を隠せなかった。


 一族の者たちを養えなくなってしまったからである。


 今は少数混じっている、人になることのできる西方人魚ウェスタンマーメイドたちが地上を往復して食糧を運んでいるが、もし地上で災害による飢饉が起きたら、それと同時に一族は滅んでしまうかもしれない。


 そこでローレライは意を決し、セントイーリカ市国で行われる大会に参加することにした。


 一生に一度しか使えぬ、マーメイドの【大恋の呪い】を使って強者を伴侶とし、このヒットカンポスとの戦いの前線に連れるためである。


 狙いは決まっていた。

 毎年優勝するセントイーリカ市国の枢機卿の男である。


 ローレライの目から見て、腕が確かなのは、世界を探してもこの男しかいなかった。


 心底嫌いな男ではあったが。


 以前に負けているという理由だけではない。

 内面に宿している暗い感情が透けて見えるせいで、生理的嫌悪が先に立ってしまうのである。


 性欲の強い彼女なだけに、愛することなどない男と、今後夜を共にし続けねばならないのは、当然苦悩となってその心を苛んだ。


 だが彼女の中でも、やめるという選択肢はない。

 引き換えになるのは人魚族の滅亡なのだ。


 無垢に笑う幼子の笑顔を見ていると、ローレライは自分の身のことなど、どうでも良くなった。


【魅了】して連れたならば、ヒットカンポスたちの前線を押し返すことくらいはできよう。


(この男なら……)


 そんな決意とともに今回の大会に参加したローレライであっただけに、思わぬ事態に遭遇していた。


 なんと初戦の相手が度肝を抜く強さだったのである。


 目論んでいた枢機卿の男が相手の時は、少なくともローレライは、勝機を見出すことができた。


 戦いの末、ミスを丁寧に咎めた枢機卿の方がうわてだったというだけのことである。


 しかし、今回の初戦の相手はどうか。

 あまりにレベルが違いすぎて、何もさせてもらえない。


 イザヴェル連合王国で随一と言われる自分が、である。


 底が知れぬ強さに、鳥肌が立つとともに心の中には好奇心が湧いていた。


 そしてもうひとつ、ローレライが初めて出会う感情も。

 そう、少なくとも枢機卿の男よりは、よほど好感の持てる男だった。


「……魅惑されたわ」


 ローレライがラモの両手を握りながら、満足そうに頷く。


 王族人魚ロイヤルマーメイドだけが持つ、一生に一度の男を惑わす強力な呪い。


 歴代のロイヤルマーメイドたちの記録を振り返っても、この呪いに抵抗した者は一人もいないとされている。


 その言葉が聞こえたかのように、ラモの表情は急にそれらしくなり、その目は、ぼんやりと空を見つめ始めた。


「これだけの男なら、私の仲間を守ってくれることでしょう」


「………」


 ラモはぼんやりしながら、小さく頷いた。


「さあ。私の男になった証に、皆の前でキスを」


 ローレライが近づき、ラモの頬に手を添える。

 ラモは心なしか、ぴくり、と動いたが、ローレライは気づかなかった。


「………」


「さあ。唇を重ねなさい」


「………」


「早く」


「いやー、こんなところで恥ずかしいなぁー」


 ラモが身をよじって照れた。


「……え?」


 ローレライが瞬きする。


「効いて……いない?」


「はい」


 ぼんやりしていたはずのラモが、にっ、と笑った。


 赤面したローレライが、慌ててラモから跳び退さる。


「ど、どうして!? この呪いを避ける方法なんて……」


「自分でもよくわからないんだけど」


 ラモはローレライに笑いかけた。


「もしかしたら僕、もう他の誰かに呪われているのかも」


 ラモは屈託のない笑顔で、驚いたままのローレライを見ていた。





    ◇◆◇◆◇◆◇





「おおぉぉー!」


「勝ってくれ―!」


 観衆が今までにないほどに熱狂していた。

 それもそのはず、開催国であるセントイーリカ市国の代表の男が登場していたからである。


「………」


 現れた男は無言のまま、右手にある剣を上げ、その声援に応える。


 被った白い神官帽の下からは、焦げ茶色の髪が覗かせている。


 右手には『真実の剣ソード・オブ・ライト』、神官服の上には『真実の鎧アーマー・オブ・ライト』と、セントイーリカ市国が誇る強力な古代遺物アーティファクトを装備し、この場に立つ男。


司教枢機卿カーディナルビショップ』ケビン・レンドルナーである。


「知っての通り、当代の勇者ならびにリンダーホーフ国王を務めるアラービスだ。ひとつよろしく頼む」


 対するは最強と名高いこの男であった。

 決勝かというほどの沸き立った空気の中、二人は向き合う。


「………」


 しかしケビンは何も言葉を発しなかったために、沈黙が流れた。


「挨拶が聞こえないが、気のせいか」


 アラービスが穏やかな笑みを浮かべながら、男に訊ねる。

 二人が向き合うと、若干アラービスの方が背が高かった。


「こういうことは本来、開催国が気遣う内容だと俺は思うがな」


「我は偉大なるセントイーリカ市国の枢機卿のひとり。弱者に名乗る名はなし」


 ケビンが無感情に告げると、アラービスがハッハ、と高笑いし、大げさに肩をすくめた。


「なんだ、これはなにかの冗談か」


「勇者と言えど、頭を下げるいわれもない」


「……なんだと?」


 ケビンの誤解しようもなくなった態度に、アラービスの顔からは笑みが消えた。


「俺は魔王を倒し、この世界を救った男だぞ?」


「お前のやってきたことは全て、私にもできる」


「――おい、なんだこいつは。失礼すぎるだろう!」


 アラービスは対戦相手を指差し、近くに立っていた審判の男に怒声を発した。

 しかし審判の男もアラービスに同調することなく、ただ無言を貫く。

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