第181話 本当の別れ



 連合学園祭が終わり、六日が過ぎていた。


 フィネスは午前中に王宮の雑務をこなし、午後から学園の授業に出て帰ってきていた。


 夕食を来賓とともにし、最後に自らの剣舞を披露してフィネスはやっと自由になった。


 しかし自由になってしまうと、フィネスは苦しかった。

 一人の時間は、胸にぽっかりと穴が開いているかのようだった。


 湯浴みを終え、寝衣に着替えたフィネスは、思い出すとわかっていても窓辺に座り、空を見上げる。


「………」


 そしてその美しい顔を歪め、ひとり、涙を流す。


 その時、コン、コココン、と扉を決まった形でノックする音が室内に響いた。


「フィネス様。わたくしです」


「入ってください、カルディエ。開いています」


 ハンカチで涙を拭い、取り繕ったフィネスが言う。


 キィ、と音を立てて扉を開け、カルディエがやってくる。

 一礼したカルディエが、フィネスに微笑みかける。


「扉の外まで、誰かと話したそうな空気が漏れていましたので」


 フィネスが小さいながらも、笑顔になる。


「ありがとう」


「今日は雲のない、綺麗な夜ですわね」


 2、3歩の距離まで歩み寄ってきたカルディエが前かがみになり、窓を覗くようにして言った。


「ええ」


「確かに今日は、月明かりだけで十分明るいですわ」


 カルディエがロウソクひとつ灯されていない、沈んだ室内を見渡しながら、独り言のように言った。


「今日の学園はいかがでしたの、フィネス様」


 カルディエは王宮の雑務で欠席していた。


「特に変わりない午後でした」


「気晴らしにはなりましたの?」


「そうですね……」


 そこでフィネスが、あ、と言う。


「通りすがりにイジン先生にレポートを急かされました」


 カルディエがわざとらしい、しかめ面をつくる。

『バトルアトランダム』で敗北した生徒全員に、イジンは1万字の反省レポートの提出を指示していた。


「まったく、やな男ですわね」


「カルディエ、あなたにも伝えるようにと」


 カルディエがはぁ、とため息をついて、その赤髪に指を通した。

 しばしふたりに言葉はなく、そのまま時が過ぎる。


 ふいに、窓の外を見たままのフィネスが呟いた。


「忘れようと思います」


「それが良いですわ」


 カルディエが、その横顔に微笑みかけた。


「最後にやってしまったあれも、いつかは笑い話となりましょう」


「そうなれるといいです」


「名前だけで必死になって探したあれも」


「それは時間が立たなくても笑い話ですよ」


 言葉の通り、フィネスはふふ、と小さく笑った。

 カルディエも「確かに」とつられて笑う。


「でも不思議ですね、カルディエ」


 フィネスがカルディエを見る。


「どうされましたの」


「だって、お付き合いもしていないのに、こんなにたくさんの思い出があるなんて」


「ホントですわね」


「どれから忘れましょう」


「お好きなものからで大丈夫ですわよ」


 ふたりがしばらく、くすくすと笑い続ける。

 そのふたつの笑い声が収まり、聞こえるのが夜虫の音だけに変わった時。


「ところで、カルディエ」


 フィネスは再び、窓の外に視線を戻すと、ぽつりと言った。


「はい」


「私に、忘れ方を………教えてくれませんか」


 言葉の半ばから、フィネスの声が潤んだ。

 そのほっそりとした肩が、小さく揺れ始める。


「フィネス様……」


 カルディエもつられて、その目を潤ませる。


「……私……わかっていたのです。だから本当は……後戻りできなくなっている自分が怖かった」


 フィネスは涙をこぼしながら、空に浮かぶ月を見上げる。


「……それでも、想いを止められなかったのです」


「フィネス様……」


「……私、馬鹿ですね……」


 フィネスは、笑おうとするもできなかった。

 逆に、涙がいっそうあふれた。


「そんなことはありません」


「……ううっ……」


 嗚咽が止まらなくなったフィネスの背中を、カルディエは優しくさすった。


 すすり泣くフィネスにカルディエは何も言わず、ただ寄り添う。

 そのまま二人だけの、静かな時間が流れた。


「月が綺麗ですわね」


「……ええ」


 やがて二人が、空を見上げる。


「フィネス様は今、 どうされたいのですか」


「どうしても諦めたくないのです」


「なら今はきっとそれで、いいのだと思いますわ」


 カルディエは優しく言った。


「本当の気持ちに抗うのはいけませんわ。ただ素直に自分の心に従う、それだけで楽になります」


「もう叶わない恋なのに、ですか」


「わたくしもそれほど経験はありませんけど、殿方を無理して諦めようとするから、辛いんじゃないんですの?」


「……そうかもしれません」


「このまま会わないようにするだけでも、気持ちはいずれ冷めゆくでしょう。『想いはいずれ思い出に』ですわ。フィネス様はそれをただお待ちになればいい」


「 想いはいずれ……思い出に……?」


 フィネスは口の中でその言葉を繰り返す。

 カルディエは頷いた。


「そうしながらでも、努めて他のことに意識を向けるといいそうですわ。何でもいい、花でも、紅茶でも、剣でも。そうすればだんだん、変わっていけるのだと」


 それが忘れ方だそうですよ、とカルディエが微笑む。

 フィネスが瞬きをした。


「……そんなこと、誰に習ってきたのですか」


「はて」


 カルディエがとぼけた表情を浮かべる。

 その豹変ぶりがおかしくて、フィネスはくすくすと笑う。


「でもフィネス様、絶対にやってはいけないことがひとつあるそうですわ」


「それは?」


「殿方とお会いしたり話したりすることですわ」


「それはなんとなくわかります」


 フィネスは頷いた。

 思い出にしようとしている人に会うことは、ただ障害にしかならないだろうから。


「それさえ守れば、いつの間にか次の恋ができるようになっていますわよ」


 フィネスの顔が、急に険しくなる。


「次なんて金輪際不要です。私は一生諦めたくないのです」


「だから、今はそれでいいんですわ」


 カルディエがくすくすと笑う。


「……そうでしたね。少し気が楽になりました」


「そういう意味では、もう6日も頑張れていますわ」


「確かに」


 二人で笑い合う。


「あ、でも、早速問題が」


「明日ですわね」


「ええ」


 明日は調査隊が天空庭園へ出発する日であった。

 フィネスは王族の一人として、その送別に立ち会い、見送る役割を任せられていたのである。


「断ろうとしたのですが、お母様が不在なのです。一応顔だけ出そうと思います」


「さっそく試練ですわね」


 愛したあの人の隣には、あの銀髪の少女が並んでいる。

 自分はその二人と、向き合わねばならない。


 フィネスは視線をまた、窓の外の月に移した。


「……大丈夫です。見ないようにしますから」




 ◇◇◇




 抜けるような青空である。

 ジューレス天空庭園視察部隊、出発当日。


 整列した50人余りの視察部隊の後ろには黄色の体躯をした、顎髭の長い三体の大竜が、顎を石畳につけるようにして寝そべっている。


【可順】と呼ばれる竜亜種騎獣の一種である。


 いつも寝ていようとする様子からもわかる通り、【可順】は巨大な竜でありながら極めて穏やかな騎獣である。


 飛行速度が遅いことが難点であるが、大人で二〇名程度を同時に乗せることができ、大気が薄くなる高度の高いエリアでも、魔法の保護なしでやすやすと飛行できる利点がある。


「では君たちの調査の結果を期待している」


 軍部司令官の長く仰々しい激励の後、視察部隊の面々が列を崩し、次々と可順の周りへと動き始める。

 その一人となったサクヤも、指示を受けながら行動をともにしていた。


「お気をつけて」


 王族らしいほほ笑みを浮かべながら、フィネスは王宮の二階のテラスから、王宮の者たちとともにその様子を眺めていた。

 彼女は王族らしい白を基調としたノースリーブのブラウスに、プリーツになったミニスカートを穿いている。


 フィネスは視界の中にサクヤらしき存在を認めた後は、視線を何もない空へと移し、決してそちらを見なかった。


「大丈夫ですの」


「ええ。心配いりません」


 隣で顔を向けずに訊ねてくるカルディエに、フィネスも前を向いたまま答える。


 視線の先では、可順の背中の鱗に備え付けられた鞍に、次々と視察部隊の者たちが跨り始めている。


 ひとり、またひとり、と。


「………」


 そんな光景を視界の隅で捉えているフィネスが、ふいに、はぁ、と息を吐いた。

 胸元を右手で押さえる。


(……なんだろう……)


 フィネスは、いつのまにか乱れている呼吸に気づいていた。

 だんだんと、息が詰まってくるような苦しさを感じていたのである。


 理由はすぐにわかった。


 あれだけ探し、逢いたくとも逢えずにいた人である。

 目の前にいると知っている以上、目が勝手にその人を捜そうとしてしまうのである。


 それを堪えているから、苦しいのだ。


「………」


 とうとう耐えられなくなり、フィネスは見送りに無礼とわかっていながら、視線を自身の足元に追いやった。

 琥珀色の大理石の石畳に、白いハイヒールが二つ並んでいる。


(何を馬鹿なことを考えているの)


 一週間も経つのに、まだわかっていない。


 自分は失恋したのだ。


 サクヤ様の隣にはもう、アリアドネさんがいる。

 自分が泣き続けたこの六日間で、二人はきっと、もっと深い関係に至ったことだろう。


「………」


 フィネスは唇を噛み締めた。

 じわり、と涙が浮かぶ。


 理解しなければ。

 どんなに強く願っても、もう戻れないことを。


「フィネス様?」


 カルディエが怪訝そうな様子で、声をかけてくる。


「………」


 だがいくら言い聞かせても、何度となく止めようとも、身体が力強く反発する。

 この目が、もう一度見たいと急かす。


 逢いたかったあの人を。


 フィネスはもう自分をどうにもできず、視察部隊に背を向けた。


「フィネス様? どうかなさいましたか」


 そこでばさり、と翼を開く音がした。

 一体目の可順が飛び立とうとしているのだった。


 フィネスが背を向けたまま、はっとする。


「サ……」


 その名を口にしそうになった自分に気付き、すぐに口を押さえた。


(だめ)


 見ればつらくなるだけ。

 また涙ばかりで、眠れない夜が増えるだけ。


 想いが思い出に変わるのが、先になるだけ。


 やがてもう一体の可順が、翼をはためかせて飛び立ち始める。

 ばさり、ばさりという音とともに、風がフィネスの髪とスカートの裾を大きく揺らした。


 フィネスの身体が我慢に耐えられず、震え始めた。


「……サ……様……」


 フィネスの口があえぐように、その名を勝手に紡ぎ続ける。

 それを押さえたまま、フィネスは涙をこぼす。


(サクヤ様……)


 今、あなたが近くにいるとわかっている。

 そうと知った心が、身体が、 どうしようもなくあなたを求めている。


 そう、これだけ深い悲しみで打ちひしがれても、自分はなにひとつ変わっていない。

 あなたを一心に愛し続けていた、あの頃と。


「フィネス様、大丈夫ですの?」


「サク……さま……」


 だめ……振り返っては。

 目に映ってしまう。


「………」


 だがフィネスに長く寄り添った感情が、繰り返し告げてくる。


 ――今日この時を逃したら、本当に終わってしまう――と。


(ううん、それでいい)


 いくら足掻いたところで、もう手遅れなのだから。


(………)


 再び、フィネスの漆黒の髪が眼前を舞い始めた。


 ばさり、ばさり。

 最後の可順がその大きな翼をはためかせ始めたのだ。


「………」


 フィネスの胸に走る、鋭い痛み。

 そう、やってきた『本当の別れ』。


 胸に、あふれるもの。


「……嫌……」


 反射的に、フィネスの口から、声が漏れる。


 口を押さえていたはずの手は、ゆっくりと下がっていく。


 目からは、大粒の涙がこぼれた。


「……いや……嫌……」


 身体が、振り返る。

 フィネスの視線が、鳥かごから放たれた鳥のように自由になる。


「……フィネス様?」


 声をかけてくるカルディエにも構わず、フィネスは涙を拭い、舞い上がった大竜の背へと、ひたすらに目を凝らす。


「………!」


 見つけた。

 最後に飛び立った可順の背に、その人を。


 同時に、フィネスがはっとする。

 その人も、フィネスを見ている。


 周りの音が消える。


 ………。


 絡み合う互いの視線。

 たった一瞬、通じ合った、心。


 刹那。


「――嫌あぁぁぁぁ――!」


 フィネスが絶叫した。


「――フィネス様!?」


「オリビア!」


 フィネスが気高き空騎獣を呼び出す。

 その顔は、強い決意に満ちて。


「――嫌! あなたを諦めるなんて!」


 涙があふれる。


 遠かったあなた。

 見えなかったあなた。


 そんなあなたを、ずっとずっと想い続けてきた。


 想うだけで、私は強く在れた。

 逢えないひとりの時間すら、大切に思えるくらいだった。


 なのにやっと見つけたあなたを、諦めるなんて!


 フィネスが現れた白馬に跨がる。


「――フィネス様! まさか」


 周りが戸惑うのも構わず、フィネスは力強く飛び立ち、舞い上がる。


 フィネスの目には、もはや迷いはなかった。


 アリアドネさんなんて、もうどうだっていい。


 私が……!


「――わたしが、あなたの傍にいく――!」


 一直線に飛翔していくペガサス。

 なびく漆黒の髪。


 地上にいた者たちが、唖然としてその様子を眺めた。


 ペガサスは主人の心の通りに猛追し、一気に可順に迫る。


「サクヤ様!」


 涙だらけのフィネスが、可順の背の真上から接近する。

 そこに乗っている視察部隊の顔が、一斉に驚愕の色に染まった。


「――フィネス!?」


 見上げたサクヤが、目を瞠る。


「――私、本当は一緒に行きたかったんですっ! あなたと一緒に行けるように、遠距離の攻撃だってちゃんと練習してあったんです――!」


「フィネス!」


「私じゃなきゃ嫌ですっ! 私がずっとずっと、あなたの隣にいます――!」


 フィネスの頬で、とめどない涙が、風にのって流されていく。


「来い!」


 髪をなびかせながら、サクヤが立ち上がった。

 上空の強風の中、無謀とも思えるさまで、それでもフィネスに手を伸ばす。


「――サクヤ様!」


 如何ばかりの高度だったか、知れない。

 だがフィネスはもう何も考えず、オリビアから跳び、サクヤめがけて飛び込んだ。


 思った以上の横風に身体が煽られたものの、サクヤはしっかとフィネスを掴み、その腕の中にフィネスを抱き寄せた。


「サクヤ様――!」


 フィネスがサクヤの首に両腕を回しながら、もはや我慢できずに号泣し始めた。

 

「……ごめんなさい、私、あの時あんなことを……!」


「いいんだ。俺も悪かった」


 サクヤが優しく言いながら、気持ちを落ち着かせるように、フィネスの背中を撫でる。


「サクヤ様……んっ」


 顔を上げたフィネスが、迷いなく唇を重ねる。


「………」


 重なり合うもの。

 静かに流れる、そしてやっと訪れた、二人だけの時間。


 しかし。


「なんだ参ったな、随分と見せつけてくれるねぇ!」


 ニヤッとした男の声が、ふたりの真隣から聞こえた。


「………」


 あれ、と思い、フィネスが顔を向ける。


 そして、その濡れた目をしきりに瞬かせた。

 サクヤの隣りにいるはずのアリアドネは、居なかったのだ。


 代わりに居たのは、なんと。


「やだなぁ、忘れたのかい? 俺は超ゲ=リさ」


 その男は髪を直しながら、ふっと笑った。

 サクヤは同行を願っていたアリアドネを丁重に断り、代わりに超ゲ=リを連れていたのだった。


「しょうがないな。じゃあ三人で行く?」


「――いや、すみませんがこれで帰ってください、先輩」


 迷いなく言ったサクヤが、帰還水晶を渡す。


「え!?」


「……すみません、私からもお願いします」


 フィネスも顔だけを向け、濡れた目で笑ってみせる。

 もう離さないとばかりに、しっかりとサクヤの首に腕を回したまま。


「うそーん!?」


 そのゲ=リのリアクションに、同乗していた皆がどっと笑った。

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