第108話 真の勇者

 

「……弱いな。貴様は本当に勇者か? そうか、我と同じように、貴様も覚醒したばかりかな」


 魔王がその顔に楽しそうな笑いを浮かべながら、うずくまったゲ=リを見下ろす。


「わかったであろう。我が殺す気なら、貴様はもう死んでいる」


「ぐっ……」


 ゲ=リが魔王を見上げ、涙をこぼしながらも睨む。

 思い出したように、ズボンの前が濡れ始めた。




 ◇◇◇




 5歳にしてゴブリンを恐れないとは。

 さすが聖女の息子だ。


 ――父さんホント? 僕、勇者になれる?


 ああ、お前はお友達の誰よりも勇気がある。


 父さんは学者にしかなれなかったが、お前はもしかしたら、勇者になれるかもしれないぞ。


 ――ホント? やったぁ!


 そうしたら、お前の力で父さんと母さんを守ってくれ。

 父さんはただの学者だからな。

 学問は得意なんだが、戦いは苦手なんだよ。


 ――わかったよ。僕、なにも怖くないから大丈夫。


 おお、本当か。

 魔物が怖くないのか。


 ――当たり前だよ。

 僕、怖がったことなんて、一度もないんだよ。


 一度もないだと?

 それはすごいことだぞ、ゲ=リ。


 お前は真の勇者なのかもしれない。


 ――任せてよ父さん。

 大きくなったら、僕の力で、父さんと母さんを守るよ。


 さすが聖女の母さんの息子だ。

 父さんは嬉しいぞ。


 今から楽しみで楽しみで仕方がない。

 お前が勇者となった姿をこの目で見られるのが、な。


 ――うん、約束するよ。

 僕、自分でわかるんだ。絶対に勇者になるって。


 そうか。

 父さんはなんて幸せなんだろう。


 こんな楽しみを持って生きられる父親など、世界中を探しても父さんくらいだろう。


 その日を、心から楽しみに待っているぞ。




 ◇◇◇




 腕の激痛に晒されたせいか、ゲ=リは今の今まで忘れていた幼い日の記憶を思い出していた。


 あの幸せそうな父の顔が、今でもはっきりと脳裏に浮かぶ。


「………」


 そこで、はっとする。


 ……そうだ。

 やっとわかった。


 だからなんだ。

 父さんが最期に、俺のことを「勇者ゲ=リ」と呼んだのは……。


 父さんは、3年以上も前のあの日からずっと、信じ続けていたんだ。


 俺が勇者になると。


(……信じてくれてたんだ……)


 胸がじわりと熱くなると同時に、ゲ=リの目に光が戻った。


(こんなの耐えろ……)

 

 ゲ=リは死力を振り絞って、立ち上がった。


 俺が今、勇者役なんだぞ。

 母さんを守れるのは俺だけなんだ。


 俺だけなんだ……!


 脇差を拾って構える。

 震える膝を、余っている左手で押さえ込む。


「くそ……ちくしょう」


 しかし気持ちを新たにしても、腕の激痛は消えない。


 痛みは先程の恐怖を呼び覚まし、膝はがくがくと抑えきれぬほどに震えている。


(ちくしょう……怖い、やっぱ怖いよ父さん……!)


 なんとか失神しないようにするだけで、今のゲ=リには精一杯だったのである。


(……俺……ここから逃げ出したくて仕方ない)


 父さんごめん、やっぱ俺なんかじゃだめだ。

 勇者なんて器じゃない。


(父さん……)


 あの時は父さんが隣にいたから、魔物が怖くなかっただけなんだ。

 ただの弱虫が調子こいてたんだ。


 本当はさ、父さんがいなくなった日から、魔物を見ては毎日のように漏らしてばかりいるんだよ。


 こんな奴、絶対に勇者じゃないよ。


 父さん、嘘ついてごめんよ。

 きっと知らずにまだ、信じてくれてるんだろ?


 俺が、勇者になっているはずだって。

 母さんを守れるはずだって。


「すぐには殺さぬぞ、勇者よ。お前が『光の聖女』の情報を吐くまではな」


「あぎっ!?」


 魔王はゲ=リの髪を掴み、引っ張り上げて立たせながら言った。


 魔王は情報を待つつもりなどない。

 その手で、力づくで吐かせるつもりであった。


「や、やめろ……もうやめてくれ……!」


 ゲ=リがべそをかきながら言う。


「やめてぇぇぇ!」


 その様子を目にしたレジーナが、堪えきれずに大声で泣きわめいた。


「これはこれは、随分と情けない勇者だ」


 しかし魔王はただ不敵に笑う。

 次の瞬間、バキィィ、という、不快な音が響き渡った。


「――ぐあぁぁぁ!?」


 魔王は膝に叩きつけるようにして、ゲ=リの反対の腕も折ってみせたのである。


 たまらず、ゲ=リがうずくまる。


「ゲ=リさん!」


「ゲ=リくん! もうやめてぇぇぇぇ!」


 周りから、絶叫に近い悲鳴だけが上がる。

 彼らはまだ、痺れ上がった体を動かすことができない。


「……うぇっ………」


 座り込んだゲ=リが吐物を口から戻しながら、全身をガタガタと震わせ始める。

 顔からは、完全に血の気が引いていた。


「どうだ。『光の聖女』の名を告げる気になったか」


 魔王がゲ=リの髪を掴んで立たせた。


 ゲ=リの頭で、ぶちぶちと髪が音をたてる。


「………」


「聞こえぬのか、勇者」


 魔王の問いかけに、ゲ=リは頭を掴まれたまま、ふいに糸が切れたようにアハハハ、と笑い出した。


「……す、好きなだけ折るがいい。けどな……何本折られても俺と約束できなければ……言わないぞ……!」


 俺は痛みに強い勇者なんだ、とゲ=リは引き攣った顔で、途切れ途切れながらも笑い続ける。


 魔王がむっ、と小さく唸って目を細めた。


 2本目の腕を折られた時、ゲ=リは壮絶な痛みの中、気づいたのだ。


 ――自分は今、勇者として歴史の大舞台に立っていることに。


「へ……へへ……!」


 ゲ=リは髪を掴まれたまま、魔王に向かって笑ってみせる。

 笑みの中にある目に、どうしようもなく涙が溢れた。



 ……父さん。


 俺、今、本物の勇者になってる。

「学者」にしかなれなかった自分が、夢にまで見たあの「勇者」に。


 見てよ父さん。


 俺、あの魔王と、向き合っているんだよ。

 駆け引きしているんだよ。


 すごいだろ?


 本物の勇者みたいだろ?


 父さん……見てくれよ……。


 ほら、見たいって言ってただろ……ねぇ、父さん……。



「約束とは何だ、勇者」


 問いかけてくる魔王に、ゲ=リはこぼれる涙をそのままに、精一杯の笑いを浮かべてみせる。


「か、母さん……いや、ここにいる他の人達を逃がせ。そうしたら……教えてやる……」


「ほう」


「この……勇者ゲ=リの命もくれてやる。聖女の名も居場所も教えてやる。だからここにいる人達は……見逃せ……」


「………」


 聖女の情報をちらつかされた魔王が、再び動きを止める。


「もう一度言う、たった、これだけ、人数だぞ。妥協しろ魔王。それで……世界全体を手にする力を、手に入れられるの……安いもの、じゃないか」


 ゲ=リは痛みで全く回っていない呂律のまま、魔王に告げる。


「………」


 わずかな時間思案した魔王が、よかろう、と頷いた。


「……だが『光の聖女』の名を先に教えよ。それができなければ、あの中の一人を殺す」


 魔王がゲ=リを放し、顎で、倒れ伏している者たちを指す。


 ゲ=リは地に座り込んだものの、思い出したようにすぐ立ち上がる。

 痛みをこらえるその顔は、すでに蒼白をこえて白に近かった。


「わかった……光の聖女の名はシトリーだ。シトリー・アルゼンヌ・シュビライト。歴代最高と言われる……光の聖女だ」


「………」


 魔王が再び眉をぴくり、と揺らした。

 そして小さく口許に笑みを浮かべると、魔剣を握ったまま、ゆっくりと腕を組む。


「よかろう。では今から五分だけ、『転出無効化の陣』を解いてやる。さっさと逃げるがいい」


「よし」


 ゲ=リが両腕をだらりと垂らし、がくがくした膝のまま、皆を振り返る。


「みんな、今のうちに逃げてくれ」


「しかし」


 痺れ上がった体に鞭を打ち、なんとか立ち上がったフユナが言う。


「魔王復活を世に知らしめて、仕切り直すんだ」


 ゲ=リの言葉に、皆がはっとする。


「逃げ去ったあの人は頼れない……この場は俺に任せて早く行ってくれ」


 ゲ=リが言いながら、ある人をもう一度振り返る。

 目が合うと、その人は濡れた目をまたじわりと潤ませた。


「母さん、さよならだ」


 ゲ=リは両腕をだらりと下げたまま、その人を目に焼き付けると、すぐに魔王に向き直った。


 ずっとは見ていられなかった。

 死への決意が揺らいでしまうから。


 ほら。

 ちょっと見ただけで、また涙が。


 ちくしょう。

 俺、ほんと最後まで情けねーよ。


「――ゲ=リくん!」


「行ってくれ、母さん!」


「いやよゲ=リくん!」


「もう誰か、母さんを連れ去ってくれ!」


「ゲ=リくん! いやぁぁぁ!」


 泣き叫ぶ悲鳴を背中で聞きながらも、ゲ=リは迷いを振り切り、魔王を見て笑って見せる。


「……勇者様」


「勇者様……ありがとうございます」


 フィネスたちが、ゲ=リをそう呼んでくれていた。

 やがて皆が鎧を揺らし、動き出した音がゲ=リの耳に届く。


 よし、それでいいんだ。

 ゲ=リが痛みで頬が痙攣したまま笑って見せた、その時だった。


「――き、帰還できません!」


 誰かの悲鳴が響き渡った。

 兵士たちが数人同時に発動した帰還水晶は輝きを失い、ただの黒い玉となっていたのだ。


「なに!」


 ゲ=リが振り返るのと、魔王が高笑いを始めたのは、ほぼ同時だった。


「馬鹿め。我を騙せると思うてか、人間よ」


「………」


 ゲ=リは息ができなかった。

 その言葉で、最初から『転出無効化の陣』が解かれていなかったことをゲ=リは理解する。


 あたりがざわめいていた。


「………」


 ゲ=リが魔王を見る。

 その目は心の動揺を現すかのように、ひどく揺れていた。


「人間よ。お前は魔王たる我よりも光の神のことを知らぬようだな」


 魔王はもはや、ゲ=リを勇者とは呼ばなかった。


「どういうことだ……」


 挙動不審になるゲ=リに、魔王が不気味に笑いかける。


「あの偏屈なラーズが『シトリー』という名の者を光の聖女に選ぶはずがなかろう。なぜならそれは、あ奴から見れば、罪深き穢れた名だからだ」


 シトリー。


 魔王に従うソロモン72柱の序列十二番に位置する大悪魔。

 72柱の中でもっとも多い、60にも及ぶ悪魔の軍団を従え、悪魔君主イービルロードの二つ名を持っている。


「………」


 ゲ=リは口をパクパクさせる。


「お前が勇者ではないことくらい、我が気づかぬと思うてか」


 そう言って、魔王がゲ=リの顔をむんず、と左手で掴んだ。

 そのまま持ち上げると、ゲ=リの足が地面から離れる。


「うぐぁ……!」

 

 宙に浮いたゲ=リが魔王の左手に抗い、もがく。


「ゲ=リさん!」

 

「ゲ=リくん! いやぁぁぁ!」

 

 周りから悲鳴が上がる。

 

 見ていた皆は、この後のゲ=リがどうなるか、予想できてしまっていた。

 少なくとも魔王は、そうするであろう頭部の持ち方をしていたのである。

 

「無駄な時間の使い方をした。貴様らは全員ここで殺す」


 魔王が吐き捨てるように言う。

 周りにいた者たちの顔も一気に絶望の色に染まった。


「は、離せっ!」


 ゲ=リが脚をバタバタとさせて必死に抵抗する。

 

「手始めに、貴様には無残な死をくれてやろう」


 魔王が掴んだゲ=リの顔を、愉しげに覗き込んだ。


 ゲ=リは魔王の手を必死に剥がそうとする。

 しかしそれは鉄でできているかのように、自分の顔にがっしりと貼りついて離れない。


 くそっ!

 これじゃ何の役にも立ってないじゃないか!


  母さんも助けられず、こんな終わり方なんて……!

 

「やめてぇぇ! 殺すなら私を!」

 

 レジーナが裏返った声で絶叫する。

 だが、魔王はそれに従うはずもなかった。

 

「――死ね、偽勇者が!」

 

 魔王がその腕に力を込める。

 

 ――どさっ。

 

 次の瞬間、ゲ=リが音を立てて地に落ちた。

 

「―――!」

 

 見ていた者たちが目を覆い、声にならない悲鳴をあげた。

 

 頭を潰された結果と思ったのである。

 

「……あ、あれ……俺……」

 

 しかし、そうではなかった。

 ゲ=リは尻餅をついて、気づく。


 生きている。

 

「ぬ……?」

 

 違和感を感じた魔王が後ずさり、おもむろに左手を見る。

 

「ぬう」

 

 手首から先がなかった。

 鋭利に切り落とされていたのである。

 

「――久しいな、魔王」


 ふいに落ち着いた男の声がした。


 座り込んだゲ=リの前に、いつの間にか立っている者がいたのである。

 黒い外套を羽織り、深くフードを被った男。


「……あ、あなたは……!」


 誰よりも早く、フユナが驚きの声を上げた。


「これから先は、俺が相手をしよう」


 魔王にそう告げると、フードの男は素早く何かを詠唱した。


 そして、背中側に手をかざす。

 そこに座り込んでいたゲ=リが、淡い光に包まれ始める。


「き、君は……?」


 自身が死んだと思ったゲ=リは顎ががくがくと震えて、それを言うのがやっとだった。

 その光が為していることにも気づかずに。


「もう帰還水晶は使える。いつでも帰還してくれ」


 フードの男は魔法を終えると、なんでもないことのように告げた。


「……え?」


 その言葉を聞いた皆が、耳を疑った。


 到底信じられなかったのは、当たり前である。

 魔王の転移無効化を解除できるなら、誰も苦労しないのだから。


「……久しい? なんだ、貴様は」


 魔王が、現れた男に鋭い視線を向ける。


 外套を羽織った男は、剣についた血を慣れた動作で振り払うと、落ち着いた口調で言った。


「どこぞの魔王が、勇者を見つけ出して殺したいらしい」


 それを聞いた魔王が、ニヤリと笑った。


「……ほう。貴様が代わりに、我に勇者の名を教えると?」


「ああ、教えてやろう」


 男はフードの奥で小さく笑った。

 そして腰を落とし、ゆらりと剣を構えてみせる。


「――俺が勇者だ」


「………!」


 男の背後でゲ=リが、はっと息を呑んだ。


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