第83話 学年末実技試験7

 


「……やべぇよ……どうしよう」


 顎がガクガクと震えている。


 もはや、右腕だけではなかった。

 今や紫斑は地図状となり、冷酷に現実を告げるかのように、全身に出現していた。


「母ちゃん……!」


 寒いと言って布を首に巻いているのは、嘘である。

 顔にまで現れてきた紫斑をひたすらに隠すためだった。


「学年末試験なんか、来るんじゃなかった……」


 なぜこんなことになっているのか、考えるまでもない。

 ポエロは屍喰死体グールの一撃をもらい、感染したのである。


 ――屍喰死体グール化。


 先生たちから、それがどれだけ恐ろしいことか、散々聞かされていた。

 学年末試験の参加を決めた際にも、その危険について何度も念を押された。


 でも自分は、それを話半分に聞いていた。

 心のどこかで、自身に起こるはずがないと思っていた。


「このあと、自分は屍喰死体グールに……」


 ぷるぷると震える両手を眺めながら、呻く。


 ポエロは本で読んで知っていた。

 感染してしまった者の末路を。


 屍喰死体グール化は祝福を受けた、かの聖女でさえ止めることができない。

 誰かに見つかったら、まだ人間の心を残していようと即座に捕縛される。


 そして専用の箱型留置場に放り込まれ、望みの食べ物を一つ与えられ、言い残すことを聞かれ、最後に殺される。


「母ちゃん……うぅぅ!」


 今から非常用に持たされている帰還水晶で学園に戻り、家に帰りたかった。

 だが、ポエロの最後の良心がそれを止めている。


 自分は間違いなく屍喰死体グールになるのだ。


 だとしたら、家に帰ってもなんの解決にもならない。

 むしろ母を巻き込み、最初の犠牲者にするだけのこと。


 自分はもはや、ミザリィから出てはならない存在になったのである。


「母ちゃん、ごめんよ……俺、あの時ほんとは盗んだんだよ……」


 夏休みに帰省した時、持っていないはずの筆を持っていて、母親に咎められた。

 母は他人様から盗んだのではと言い、ポエロは母が自分で買ってくれたのに忘れたのだと非難した。


 ポエロの母は時々記憶違いを起こす、脳に障害のある女性だったのである。


 ――お前なんか、俺の母親じゃない!


 そう非難したポエロの言葉に傷心し、母はうずくまるようにして泣いた。


「もう二度と口をきかない」と告げ、寮に戻ってきていたが、実は母を傷つけてしまったことを、内心でひどく後悔していた。


 ただ、どう謝ればよいかわからず、顔を合わせるのもためらわれて、あれから半年、本当に口をきいていなかった。

 だから母はきっと今も、ポエロから母と思われていないと誤解している。


「母ちゃん……」


 くだらないことでケンカなどしている場合ではなかった。


 自分が一番わかっている。

 姉弟の中で男一人だった自分を、母が不器用ながらも一生懸命に育ててくれたことを。


 なのに愚かな自分のせいで、そんな大切な母を誤解させたまま、死に別れることになる。


「嫌だ……」


 人生悔いだらけだったが、最期の時となると、ことさらに母が思い浮かんだ。


「母ちゃん……!」


 自分が死んだと聞いて泣く母の姿が、目に浮かぶ。

 俺、また泣かせるんだ、母ちゃんを。


「いや、ダメだ……それだけは絶対に」


 ポエロは目を袖で拭うと、決意し、立ち上がった。


「顔だけ見に行こう。せめて最後は思っていることを言わないと」


 でなきゃ死ねない。


 こんなどうしようもなかった俺でも、最後にできることがあるんだ。


 言わなければ。

『母ちゃんに感謝しなかった日なんて、一日もないんだ』と。


 これは、自分じゃなきゃできないんだ。


「……でも、どうする」


 帰還水晶の帰還はいいが、学園から家まで歩くとしたら、完全に夜更けになってしまう。


 飲み食いもできなくなった俺が、歩ききれるだろうか。


 いや、弱音を吐くな。

 そんなことくらいならやってみせる。


「むしろ夜の暗い間の方が好都合だ」


 外見はあまり見えないほうがいい。

 声もまだ無事なのもありがたい。


 とにかく、急がないと。

 このままだと、明日の朝には屍喰死体グールになってしまうような勢いだ。


 残された時間はあと半日もない……。


「くそっ、俺、あと半日たらずで死ぬのか……」


 そう考えた途端、抑え込んでいた恐怖が、一気に胸に溢れた。


「ちくしょう、いやだ……屍喰死体グールなんかになりたくねぇ……母ちゃん……」


 再び涙がこぼれ落ちた、その時だった。


「――穏やかじゃないな」


 ふいに後ろから声がした。

 ポエロはぎょっとして振り返る。


「……だ、誰だ!」


 茂みの中に、自分と同じくらいの背丈の少年が立っていた。

 月明かりだけだったため、人相までははっきりとわからない。


 月明かりが反射している様子から、黒髪のようにポエロの目には映った。


 こちらに向かって、ゆっくりと歩いてくる。


「……くっ」


 ポエロは杖を構えた。


 今のを聞かれただろうか。

 気づかれてしまっただろうか。


 だとしたら、自分は捕まって殺されてしまう。


 それだけはなんとしても逃れなければならない。


「……俺に近づくな」


 信じられないほどに冷静な声が、自分の喉から発せられていた。

 さっきまでの震えはどこかへ消えている。


 ほかならない。

 今、ポエロはどん底でありながらも、為すべきことを決意できたからであった。


 杖を構えながら、自分を探る。


 大丈夫だ。

 まだ正気は保てている。


 屍喰死体グールにはなっていない。


「お前、どこかの生徒だな」


 先生ではなかったのは幸いした。


 もう迷っている場合ではない。

 こいつ一人のうちになんとかして、帰還して、絶対に母ちゃんの元へ行くんだ。


「それ以上一歩でも近づいたら、ゴーレムを呼ぶ」


 ポエロは近づいてくる少年に冷酷に告げる。


「――戦うつもりはない」


 そう言ってお構いなしに近づいてきた少年の顔に、月明かりが差した。


 こいつ、サクヤだ。 


「邪魔するな、サクヤ。俺は行かなきゃいけないところがあるんだ」


「そこへは行かせられん」


「――聞いていたな!」


 ポエロがかつてない速度で、詠唱を完成させた。


 土中から草木を押しのけるようにして、それはやってきた。

 見事に召喚され、姿を現したのである。


 サクヤの目の前に立ちふさがったのは、通常のアースゴーレムよりも一回り大きい、原始のアースゴーレム・土巨人ザ・プリミティブ


 対峙するサクヤが巨体を見上げ、大したものだ、と呟いた。


【召喚大成功】である。


 エルポーリア魔法帝国魔法学院の研究によれば、成功確率2%ともいわれる完全詠唱。

 それにより召喚獣は能力を大幅に強化されて姿を現すことができる。


「いいか、退くんだサクヤ。見ての通り、今の俺は人殺しも躊躇わない」


 ポエロは原始のアースゴーレム・土巨人ザ・プリミティブの横に並び、待機を命じながら、サクヤに告げる。

 ポエロの顔は、かつてないほどに研ぎ澄まされていた。


 サクヤはしかし、動じた様子もなく淡々と言葉を返す。


「十分後悔したようだな」


「………」


 ふいにポエロの目が、じわりと潤んだ。


「……したさ。だから、俺はせめて最後に……母ちゃんにできることを為す!」


 ポエロが唇を震わせながら、叫んだ。

 大声を発したと同時に、その両目からは、涙がこぼれ落ちた。


「――ポエロ」


「なんだ」


「お前にいい知らせと、悪い知らせがある」


 サクヤは静かに言った。


「なに」


「どちらから聞きたい」


「お前のたわごとに付き合ってる暇はないんだよ!」


 ポエロが原始のアースゴーレム・土巨人ザ・プリミティブに起動を命じた。


「コォォホォォォ……!」


 ゴーレムがのそりと動き、その両手を組んで、振りかぶる。


「では先に悪い知らせを伝えよう」


「なに」


「――こいつでは俺には勝てない」


 サクヤが右手をゆらりと前に突き出す。

 そして、左手は胸の前で静かに片合掌される。


 ――ドォン。


「うわっ!?」


 ポエロが尻餅をついた。


 横にいた原始のアースゴーレム・土巨人ザ・プリミティブの巨体が、粉々に散っていたのである。


【闇の掌打】と呼ばれる、『漆黒の異端教会ブラック・クルセイダーズ』の異端者たちが使う魔法であった。


 霧散した小さな砂塵が、月明かりに照らされてさらさらと宙を漂う。


「む、無詠唱魔法だと……!」


 ポエロがその事実に気づいて、目を見開く。

 サクヤは合掌した手を下ろし、ポエロに近づいてくる。


「……な、なんなんだ……お前……!?」


 ポエロは言葉を続けられなくなっていた。


「――では次に、いい知らせといこうか」


 そう言ってサクヤは、座り込んだポエロの額に手をのせた。


「お、俺に触る――」


「――動くな」


「………」


 はっとするポエロ。


 その鋭く放たれた一言で、ポエロは魔法にかかったように動けなくなった。

 続けて、サクヤの口が踊り始める。


「Θεράπευσε την ανίατη ασθένεια αυτού του ανθρώπου……」


 ポエロがぎょっとする。


「な、なんだよ、その言葉……!?」


 しかし驚くのもつかの間、ポエロは思いもかけぬ温かいものに包まれていた。


「…………」


 心に広がっていく、懐かしさ。

 ポエロは、母の腕に抱かれていた頃を思い出していた。


「母ちゃん……」


 母に歯向かうことなど考えられなかった、幼少の頃。

 母の笑顔が全てだった、あの頃。


「……母ちゃん……母ちゃんごめん……!」


 堪えていた嗚咽が再びやってくる。

 心がちぎれてしまうほどに、切なさが増していた。


 ……あんなに大好きだった母ちゃんに、俺はなんてことを……!


 だがそれも数秒のことで、すぐに消え去った。


 どんな魔法効果か、ポエロにはわからないくらい、何も残らなかった。

 いや、あえて言えば、体が少し温かくなった程度である。


「――くそっ! 俺になにをした」


 目元を拭ったポエロが立ち上がり、サクヤの胸ぐらに掴みかかる。

 しかしサクヤは小さく笑うと、その手をするりと抜けてみせた。


「あ、あれ……」


「今日のことは俺たちの秘密にしよう。俺も誰にも言わない」


 そう言ってサクヤは背を向けた。


「い、言わないでくれるのか!」


 ポエロはやっとそこで、安堵した。

 兎にも角にも、サクヤは他言せず、このまま立ち去ってくれるようだったのだ。


「そろそろ戻って飯でも食え」


 サクヤが言いながら、思い出したように何かを懐から取り出すと、肩越しにぽん、と投げて寄越した。

 ポエロはそれを両手で受け取る。


 甘い香りがした。

 桃だ。


 サクヤはそのまま、草を鳴らしながら立ち去っていく。


「……食える?」


 ……俺が?


 ポエロは、呆然としていた。


 食えるはずないだろ。

 屍喰死体グールになりかかっているのに。


「………」


 でも、なんだか手の中の甘い香りに、ずいぶんと食欲をそそられる。

 しばらく見つめていたポエロだったが、杖を仕舞うと思い切って皮ごと桃にかぶりついた。


「う、うまいっ」


 体に染み込んでくるような甘さ。

 不思議と、体の疲労感のようなものもどこかへと消えていくようだ。


 夢中でかぶりつく。


 桃はあっという間に種だけになっていた。


「ふぅ……あれ?」


 食べ終わって、はたと気づく。

 俺、吐いてない。


「……どうして……俺……」


 そこで、はっとする。


「――ま、まさか!?」


 袖を裂くような勢いで両腕をまくり、月明かりに照らしてみる。


 サクヤは自分に「いい知らせ」と告げた。

 まさか、いい知らせとは……!


「うそだ……うそだろ……!」


 ポエロは声を震わせながら、ローブをめくり、自分の胸や腹、脚を見る。


「……うそだ……!」


 ポエロは脱力して座り込む。

 こらえきれない安堵の笑みがその顔にともると同時に、また目の前が滲んで、見えなくなった。


 なんと紫斑だらけだった体が、昨日までのように元通りになっていたのである。


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