ラスト・エクス・マキナ
上野遊
第1話 出会いと再会1
その日、ハル・アナンが目を覚ますと、ベッドの中に女の子が潜り込んでいた。
女の子は小さな手でハルの寝間着の襟を掴み、胸に顔を埋めるようにしてすぴーすぴーと気持ちよさそうな寝息を立てている。
年頃の少年にとっては非常事態と言えるような状況に、けれどもハルは驚かなかった。
「またか……」
見知らぬ相手ではなかったし、初めてのことでもなかったからだ。
ため息の混じった呟き一つ漏らすと、ハルは自分の襟から女の子の手をそっと外し、むっくりと起き上がる。女の子は幸せそうに眠っている。
「……おにいちゃぁん」
「はいはい、おにいちゃんはここにいますよっと」
ハルは、ゆさゆさ、ゆさゆさ、まだ眠っている女の子の肩を揺すり始めた。
「ネリー、起きろ。ネリー、ネリー」
「んんん」
ゆさゆさ揺すっていると、女の子――ハルの義妹のネリーがうっすらと目を開けた。寝ぼけ眼で辺りを見回し、ハルを見つけると、
「えへへ。おにいちゃんだー」
にへら、と笑って、安心したようにまた枕に顔を埋めようとする。
「寝るなって。ネリー。起きろ。起きなさい」
呼びかけてゆさゆさ揺する。けれどもネリーは顔を背け、毛布の下に潜り込んでいこうとする。やれやれ。仕方ない。
「起きないネリーが悪いんだぞ……」
一応の警告。
「……とりゃあっ!」
ハルは毛布の端を掴むと、勢いよく引っぺがした。
「ひゃあ!」
毛布にしがみついていたネリーが勢いに負けてころんと転がり出る。
「……おにいちゃんのいじわる」
「ネリー、起きなさい。話があります」
横になったまま拗ねるネリーに、ハルはちょっとだけ厳しい口調で言った。
「お話?」
起き上がったネリーが上目遣いで訊ねた。
「この前誕生日だったよな? ネリーは何歳になった?」
「十歳」
「そう。で、そのとき俺と約束したよな?『もう子供じゃないから別々に寝る』って」
「そうだっけー?」
「そうなの!」
「でもネリーはおにいちゃんといっしょがいいなあ」
そう言ってネリーは年齢の割に幼い笑みを浮かべる。幼いといえばネリーは全体に幼い。同じ歳の子たちは背が伸び始めて、男子を見下ろすくらいになっているのに、ネリーはいまだ年少組に混じっていた方がしっくりくるような背丈である。クラスでも一番ちっこいらしい。
「おにいちゃんは一緒じゃない方がいい」
「……ネリーのこと嫌いになったの?」
「そうじゃないよ。ネリーのことは大好きだよ。でもな、普通は男子と女子は一緒に寝ないんだ。それが常識なんだ。おにいちゃんはネリーに常識も知らない子になって欲しくないんだ」
そんなに難しいことは言ってないはずなのだが、ネリーは「むむむ」と唸り始めた。そして突然、
「わかった!」
「そうか、分かってくれたか」
「うん。ネリーはおにいちゃんと結婚するから問題ないの! 夫婦だったら一緒のお布団で寝ていいんだもん!」
これぞ世紀の大発見! とでも言うようにネリーは満面の笑み。寝癖だらけの綿毛みたいな髪をふわふわ揺らして、大好きなおにいちゃんを見上げている。
「……兄妹は結婚できないんだぞ」
「それはうそ。血がつながってなければ結婚できるって先生が言ってた」
ハルは頭を抱えた。あの担任、今度会ったら鼻の穴に乾燥パスタを突っ込んでやる。何本入るか楽しみだ。
「おにいちゃん?」
ハルが黙り込んだから不安になったのだろう。ネリーが身を乗り出し、様子をうかがう。
ハルは気を取り直して顔を上げ、
「うん。夫婦だったら一緒に寝てもいい。ネリーの言うとおりだ」
「でしょでしょ」
「でもな、今俺とネリーは夫婦じゃない。だから一緒に寝ちゃダメだ」
「……あううう……」とネリーは分かりやすくしおれたが、すぐに立ち直って、「じゃあじゃあ、結婚したらまた一緒に寝てくれる?」
「ああ」
「約束?」
「約束」
そう答えると、ネリーは嬉しそうに笑った。ハルも笑う――何とか誤魔化せた、と。本当に結婚するようなことにはなるまい。「おにいちゃん好き好き」でいるのは今だけだ。結婚できるようになるどころか、そのずっと前に、「洗濯物は一緒に洗わないで!」と怒鳴るようになるのだ。それはそれで悲しいことだけれど。
「結婚結婚おにいちゃんと結婚ららら~」
楽しそうに自作の歌を歌うネリーを見てたら、将来のことはどうでもよくなった。それより今のことだ、と時計を見てハルはぎょっとする。
「ネリー、急げ。このままだと遅刻するぞ!」
「今日はお休み~」
「休みじゃないだろ。ほらベッドから降りて着替えて飯食いに行こう」
ばんばんベッドを叩いて急かすと、ネリーはいかにも渋々という風にベッドから降りた。
「パンケーキが食べたいな」
「はいはいパンケーキな……ってここで脱ぐな!」
「着替えろって言った」
「自分の部屋で着替えなさい!」
「はーい」
ネリーが素足をぺたぺた鳴らして部屋から出て行く。
ハルの方も急いで着替えを始めた。バタバタと身支度を調え、戸締まりを確かめて玄関へいくと、既に準備万端整えたネリーが待っていた。
「パンケーキ!」
「分かったから。鍵持ったか?」
「うん」
「それじゃ行くか」
「待ってお兄ちゃん。あいさつ忘れてる」
「ん? ああ」
言われて足を止める。
兄妹は居間に戻ると、チェストの上に飾られている写真に手を合わせた。写真の中ではネリーによく似た夫婦が微笑んでいた。
「行ってきます」
「いってきまーす!」
マンションを出た二人は街中のカフェテリアで朝食にした。あいにくとパンケーキは品切れで、ネリーが大いに駄々をこねた。なだめすかしてベーグルサンドで手を打たせ、大急ぎで腹に収めて初等学校へと急ぐ。
「おはようございます!」
ハルが声をかけると、校門の前に立っていた若い女性が振り向いた。
「先生、おはようございます!」とネリー
「はい。おはようございます、ネリー、ネリーのおにいさん。……いつも仲がいいわねえ」
初等学校の教師は二人を見て目を細め、
「今日はずいぶん遅かったですね。どうしたのかと心配していたところですよ」
「すみません。ただの寝坊です」ハルは言って、「で、俺も急がないと遅刻なので……」
「あらごめんなさい」
と教師は立ち話を切り上げてくれた。
ハルは腰を落としてネリーと向かい合い、
「真面目に勉強するんだぞ」
「おべんきょう嫌い……」
「おにいちゃんは頭の悪い子が嫌いだ」
「……じゃあがんばる」
「よし」
ハルはネリーの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。ネリーがくすぐったそうに微笑む。
「じゃ、後お願いします。帰りはシッターさんが迎えに来るので」
教師にそう言い、ハルは通りを走る。行く手に路面電車【トラム】の停車駅。ちょうど出るところだった車両に飛び乗りほっと一息。十分ほどで終点のエレベーター駅に到着する。
エレベーター駅はその名の通り、エレベーターの駅である。改札を抜けてホームに行くと、電車の代わりに巨大なエレベーターが待ち受けている。垂直ではなく、わずかに傾斜をつけて登っていくエレベーターは、箱の内部が二階建てになっていて、一度に三百人が乗れる巨大なものだ。移動時間もそれなりにあるため、内部には乗客用の椅子まで用意されている。それが十台近く横に並んで、ひっきりなしに往復している。ハルは間もなく出発する、一番端のエレベーターに飛び込んだ。一階の端に空席を見つけて座る。
『お乗りのエレベーターは、居住階層発、中央階層行き、八号エレベーターです。間もなく出発します。安全のためにシートベルトをお締め下さい』
機械的なアナウンスに続いて低い振動。ゆっくりと始動したエレベーターはすぐに、勢いよく加速を始めた。時計を見ると、どうにか遅刻はせずにすみそうな感じだ。
「うっ……」
とハルは腹を押さえた。大急ぎで食べて全力で走った後の縦Gは辛い。
「……自分の分はテイクアウトにしておけばよかったな……いや、でもそれじゃネリーが『おにいちゃんと一緒に食べたい!』ってヘソ曲げただろうしなあ……耐えるしか……」
エレベーターはぐんぐん上昇していく。駅の天井を抜ける。建物の外に出ても上昇は止まらない。空へ空へと登っていく。やがてエレベーターは空にぽっかりと空いた穴へと入っていった。外光が届かなくなった箱の中が一瞬暗くなり、すぐに照明が調節され明るくなる。
エレベーターは空のトンネルを通っている――のではない。空中にトンネルなどあるわけがない。それは空の穴ではなく、岩盤にくりぬかれた穴である。
空と見えたものは、地下空洞の天井に隙間なく並べられた発光パネルだ。
地下なのだ。
ハルが住むこのアルバ居住区は、地下深くに作られた人工の空洞にある。
このような地下都市は世界各地にあって、今や人類の大半が地下に暮らしている。
人々はハルが生まれるずっと前に、地上から追い払われていた。
――自ら生みだした「敵」によって。
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