第十話 綻び、あるいは乖離
第三編 源高明
第二話
「高明公が火車を完成させてから僅か数年の後に、それは実戦投入されることとなった」
平将門が不本意ながらも朝廷に反旗を翻す形で下野国府を占領、その後上野国政庁に入り事実上坂東の支配者と化す。そして巫女からの託宣があったとして自らを『新皇』と名乗るに至ったんだ」
これが伝わった時点で朝廷は討伐を決意し、参議たる藤原忠文を征東大将軍に任命して派遣する。しかし、同時期に瀬戸内でも伊予掾...伊予国の判官と言えば分かるかな...である藤原純友が備前介...介というのも同様だ...藤原子高、及び播磨介島田惟幹を襲撃していたこともあり、京は非常に動揺していたようだ」
そこでこちらは右近衛少将、小野好古を山陽道追捕使として派遣。さらに懐柔策として従五位を授けることで沈静化を図った」
これに対して高明は独自で調査を行った結果から懐柔策は破綻するであろうと指摘。朝廷は急遽本格的な討伐を行うことに変更した」
「そのため、彼を征西大将軍、好古を副官として西の乱の鎮圧が開始された。西暦940年の初めのことだ。」
-天慶3年(940年) 2月3日 淡路島沖西約18km地点-
残念ながら京における改革が簡単には進まないため、地方での不満を抑えることは出来ていなかったのが災いした。しかし、“史実”での状況を考えてやわな飴など跳ね除けるのが分かっていたから、討伐を進言したのだが、「じゃあ頼むよ」って頭に任命するか? 普通...もし出陣するなら自分の工作の結果を見届ける為にも関東に向かいたかったというのもあるが、なんと言うか釈然としない。
...まぁ、自分のやってきたことを振り返れば自明の理か。良かれと思って改革を進めても結局は元の木阿弥となったものの何と多いことか。未だに
恨み言は尽きないが、状況はそんな思考の海に溺れることを許してくれなかった。
『伊予掾殿の軍勢と思しき船団を発見! 西南西、距離およそー』
追いついたか。まぁ船だけじゃない、オールや航海術など思いつく限りは最適化済みだ...これに関しては、地方へのフィードバックを優先させていたから優劣がつきにくいと思っていたからラッキーだった。この辺はまだこちらに地の利があるのが幸いしたかな。
実は、試作ではあるが測距と測位用に四分儀すら持ってきている。多分原理はともかく実物は最低でも300年近く早い登場だな。それに航海用の器具だけじゃない、武器もまた、元々地方の一官僚でしかない純友は知らない技術が多用されているのだ。そう、突貫で完成させた火車の艦載バージョンも。
『威嚇で良い! 火車を斉射しろ!』
多少のトップヘビーを許容して取り付けたコイツには、弓矢を防ぐ木製の防楯がある。燃焼に最適な調合を施された火薬をふんだんに使っているため射程は一般の弓矢と比べて当然長くなっている。しかも後続には補給船のオマケ付き。負ける要素が見当たらない。
『放てー!』
彼には悪いが、フラストレーションはここで晴らさせて貰おうか。
〔.................................〕
火車の威力は絶大だった」
数々の実験の中で最適化された火薬の調合により、その有効射程はおよそ350mを超えていたと推測されている。これは和弓より50mは大きい」
しかも夜戦だ。人間が各自の判断で弓を撃っているようだと命中率は決して高くは無い...むしろ当たれば上出来な部類だろうけど、高明率いる西征軍は四分儀を持っていたみたいだから、それである程度測距して照準を合わせれば数の力で何とかなる。この時代の船など矢で底に穴が空いてしまえばすぐに沈んでしまうし、爆音で相手が動揺するという利点も、発射してから再装填までの時間がそれなりにかかってしまうというリスクを補えるしね」
中には火矢が命中した船もあったようで、文献には船の燃えること数多し、と伝わっている。そう、知っての通りではあるが、純友率いる反乱軍はこの戦い、淡路沖の戦いで船団が壊滅したんだ」
午前3時から二時間以上に渡って繰り広げられたと推測される海戦は、最終的に夜が明けた後で武装解除を確認して純友を拿捕したことで完全に決着が着いた。高明は徹底して優速の自船団による機動戦を展開し、火車のアウトレンジで敵側にのみ出血を強要したため、ほとんどと言っていいほど被害は受けていない。今日において彼が平安時代における将として有名な部類に入っているのはこれが原因かな」
加えて量産された火車は既に関東にも持ち込まれており、その威力を十全に発揮した。騎兵相手には爆音と火花で海戦以上に効果を出したからね、こちらも極めて短時間のうちに戦闘が終了し、忠文が到着する前に将門は敗走、最終的には捕えられて斬首されたんだとか。東西で共に謀反起こるの知らせが京に届いた時の狂騒っぷりは何処へやら、あっという間に沈静化してしまった」
...うん、貴族受けはあまり良くなかったらしいね。今では割と当然のように語られるノブレス・オブリージュだけど、当時は戦いは穢れとして避けられていたからね。故にやんごとなき血を引いていながら武も辞さない姿勢を見せる彼は異質であるとも言えるわけで...しかしそんな中で朱雀帝は「兄としても、一人の臣としても頼もしい」といたく気に入っていたようだから否定派からしたらやりずらいことこの上ないよ」
「今回の討伐で昇進が早まることがほぼ確定し、そういった人間は浮き足立ち気味になった。それを尻目に高明は理解のある高官達の支援を受けて高麗へと渡り、両国間における条項の策定を開始する。それはかつての菅公、道真の外交術を彷彿とさせたんだ。」
-天慶5年(942年) 9月 開州(現開城)-
『遠い所よくお越しになられました』
『いえいえ、前回は来ていただきましたからね、こちらが出向くのは当然です』
二回目の協定は高麗側で行うこととなった。久しぶりの船舶での長距離移動だ。
内容としては前回からの確認と引継ぎ、それと貿易の調整がメインだ。流石に火薬は完成品しか輸出出来ないが、有用性は例の海戦と平将門の乱で確認されているので需要は高いそう。まぁ統一したとは言っても北方の異民族である契丹の脅威と隣り合わせだからな、対騎兵戦には絶大な効果を誇る火車を欲しがるのはよく分かる。裏で手を回して関東に観戦武官を派遣して貰った結果だ。本当はこれに着いていきたかったんだが、西に飛ばされて陣頭指揮する羽目に...なぁ“オモイカネ”、今更にも程があるが、アイツら分かっててやったんじゃないだろうな?
〔様子を見る限りではそのような兆候は一切ございませんでした。単に気がついていないだけだと思われます〕
ふむ、となるとたまたまか...嫌だな、そんな偶然は。
〔むしろ今まで操船術や造船技術の普及に尽力していたことを考えれば藤原純友鎮圧に駆り出されるのは当然では?〕
...全くもってその通りです。いかんな、変な認識が染み付きかけてる。
〔...ここ数十年のあなたは拙速かつ偏見を抱きがちです。忠告はしておきますよ〕
すまないな、確かに認識の差異に気づけず、被害妄想を拗らせていたかもしれない。それに文明レベルが違いすぎるせいで技術発展を急ぎすぎているのは心当たりがある。
〔この時代は現代とは何もかもが違うことを忘れないでください。理想を追い求めてもそれが実現するには数世紀単位かかることは当然ですし、それに全てを注いでいては亡国の元となることをお忘れなきように〕
身に刻むとしよう。
“オモイカネ”との会話を終えるのとほぼ同じタイミングで、全員の支度が終わったようだ。それでは、協議を始めようか。
ここで少し休憩を取ろうか。緑茶と紅茶、それとミントティーがあるけどどれがいいかい?」
いや、ミントティーはティーバッグじゃなくってお裾分けして貰ったやつだよ。サキ...失礼、スギモト准教授からのね」
ん、あぁ、彼女とは腐れ縁でね...小さい頃は近所だったからよく遊ばれ...いや、遊んでいたんだ」
まぁそれはそれとして。高明は開州、現在の開城に赴き、火車の実演も行ったようだ。開城は当時の首都、太祖の御膝元だから多くの官僚や将軍が見に来たそうで、総じて腰を抜かしたんだとか」
この伝承からも橘逸勢が台頭した以降急速に造船技術が発展したことが伺える。輸出出来るほど大量に作ったのであれば船は費用対効果の面から見るなら、大型化された方が効率がいい。沖縄に進出した時には既に短期間で積載量およそ100トンの船を同時に何隻も建造出来るだけの技術力があったわけだし、交易は比較的頻繁に行われていたようだね」
遣唐使が廃止された代わりに高麗との交易が盛んになった訳だが、これは日本の文化の転換も促した。国風文化の誕生だ」
元々奈良時代から自国文化を尊重しようという動きがあったというのが最近の学説だが、遣唐使の廃止による大陸中枢部との接触頻度の低下と高麗との貿易の活発化がさらにそれを促したとされている。複雑に要因が混ざりあって少しずつ進行して行ったのは確かだね、例えば今ではこの国を象徴する花である桜だが、800年代後半までは花と言えば一般には梅の花を指していたんだ。ところが徐々に桜を読んだものが増え始め、900年代中盤には割と定着しつつあったことが和歌集から確認されている。万葉集では梅が約120首に対し桜は約40首、しかし古今和歌集では約20首の梅に対し桜は約55首と数量が逆転しているんだね。割合で考えれば桜は0.1%にも満たなかったのに、およそ120年で5%にまで増加していることを考えると非常に面白いだろう?」
また、946年には朱雀帝が譲位して弟の村上天皇が即位した。村上帝は兄共々高明を重用し、高麗との貿易を奨励する一方で優れた歌を多く作り、平安文化を開花させた人物の一人でもあるんだ」
このように宮廷文化を中心として今日まで続く和風という文化の基礎が生まれていったのだが、その内実は必ずしも華やかなものだけでは無かった。上流貴族の一部保守派は相も変わらず反発していたからね、菅原高視、藤原忠平が亡くなればそれを抑えきれるかは分からなかった」
事実、2人は945年、947年と前後して死去。彼らの後継者と見られたのは忠平の長兄と次兄の藤原実頼・師輔兄弟で、次いで五男の師尹と高明であったのだが...彼らの間には妙な関係が成り立っていたんだ」
「時は平将門の乱まで遡る。そこで拗れた話が、後の安和の変に繋がったと言っても過言では無いかもしれない。」
-天慶9年(946年) 10月下旬 平安京-
重苦しい空気がこの場を支配している。
『何故我々兄弟の話の場に似つかわしくない高貴な方がいらっしゃるのですか、兄上』
うわぁ、皮肉だよ。しょうが無いじゃん、曲がりなりにも我々は臣の中で最大の権力握ってるんだから...忠平君は別格だけど。彼はそろそろ死期が近付いている。今年も引退を願い出ていたけど慰留されたしね...
『申し訳ない、参議殿。愚弟が失礼なことを』
苦笑しながら実頼君が詫びた。いいんだよ別に、気にしなくても。本当は君とも対立する予定だったんだし、ここまで関係が築けたのも偶然の産物みたいなものなんだから。
『いえ、問題はありませぬ。今はそれは置いて今後のことを考えていかねば...』
思い返せば平将門の乱鎮圧後、私が純友を引っ捕らえて帰京した直後のことだったか。忠文が征東大将軍として威勢よく出発したにも関わらず短期間で戦闘が終わってしまったせいで何もすることが無かったんだよな...そのままとぼとぼ帰ってきたのだが、彼に恩賞を与えるか否かで実頼君と師輔君の間で意見が割れた。実頼君は恩賞は不要と唱えたが、師輔君はそれに反対したんだよな。だから私が双方を取り持って忠文に出兵分の損失の補填というのを提案した。実頼君はこれも渋ったけど忠文が補填さえあれば...と引く姿勢を見せたので結局は承認してくれた。元がクソ真面目なのもあって説得には苦労したけど色々議論を重ねて今ではそれなりに柔軟な思考が出来るようになったみたいだ。その辺に大分恩義を感じてるらしく、位は彼の方が上なのだがかなり気を使ってくれている。安和の変の首謀者の一人である彼がこちら寄りになってくれたのは大きい。私は流石に呼ばれていないが、“史実”でハブられてた立太子を決める密談にも呼ばれていたようだし、割と順調そうである。まぁ代わりに師尹君からは多大なる恨みを買ってしまったんだが...いや、短気は良くないよ?
『やはり都周辺だけでなく、地方への税の取立ても少しは軽くしていかねばなりませぬな。このままでは第二、第三の純友と将門を生むばかりですぞ』
『うーむ、とは言えそれが無いと我々も食っていけないしそもそも国が回らんぞ』
『いっそ荘園の解体でもしない限りは...』
『『無理無理』』
『一応高麗との貿易で利益は出てるのでしょう? そこからもう少し引っ張ってこれませんか?』
『流石に相場を釣り上げるのは下策でしょう...良好な関係を壊しかねませぬ』
『やはり法整備とそれを徹底させる力が必要かと』
『我々の時代でそれを作れるか? 多分下々までその教育をしようとすると大変なことになるぞ、それに法治なぞ本来であれば道徳に反する』
『いや、しかしそうでもしなければ乱を抑えきれ無いのでは...』
『ちくわ大明神』
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..............................................................................
結局夜遅くまで談合を続けたが、妙案は浮かばなかった。師尹君も途中で帰っちゃうしなぁ...まだまだ
******以下あとがき******
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。次回更新は12月1日を予定しておりますが、作品展開の都合上三話連続投稿をしようと思っています。2000に第11話、2030に第十二話(第三編最終話)、2100に第十三話をという感じですね(笑)余裕があれば資料の方も更新しようかな...
ご意見、ご感想お待ちしております。
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