桐壺 その4
原文
この御子三つになりたまふ年、御袴着のこと一の宮のたてまつりしに劣らず、内蔵寮、納殿の物を尽くして、いみじうせさせたまふ。それにつけても、世の誹りのみ多かれど、この御子のおよすげもておはする御容貌心ばへありがたくめづらしきまで見えたまふを、え嫉みあへたまはず。ものの心知りたまふ人は、「かかる人も世に出でおはするものなりけり」と、あさましきまで目をおどろかしたまふ。
対訳
桐壺帝は、この第二皇子が三歳になられた年の御袴着の儀式を、第一皇子のそれと同レベルで、内蔵寮や納殿の物資を大量に使って、とても盛大におさせになられました。それにつけても、世間では非難ばかりが多かったのですが、成長なされるこの皇子のルックスや内面があり得ないほど素晴らしいレベルですので、どなたも心から悪く思うことはできませんでした。物事の道理がお分かりになる方は、「このような方もこの末世にお生まれになるものだったのだなあ」と、驚きあきれる思いで目を見張っていられます。
訳者注
『内蔵寮』と『納殿』とは、単純に言えば、皇室財産を管理する役所と倉庫です。それを使い込んで光源氏の『御袴着』(初めて袴を着ること。七五三のルーツになった儀式の一つです)を派手にやらせるのは、言うまでもなく桐壺帝。例によって主語は省略されていますが、皇室財産を使い込めるのは帝以外にいませんし、敬語からもそれと解ります。
第二皇子の待遇を第一皇子と同列にするのは、お家騒動を招きますし、国の財産を必要以上に浪費します。だからこれにも『世の誹りのみ多』いわけです。桐壺帝は聞く耳を持ちませんが。
それでも、光源氏が美少年で性格も良い天才児なので、誰も嫌いにはなれません(『え……ず』で「……できない」。源氏物語に限らずテストに頻出する基本文法なので学生さんは覚えておいて損はないです)。これは、いわゆる弘徽殿女御も同じです。もう少し後になりますが、『弘徽殿などにも(中略)見てはうち笑まれぬべきさまのしたまへれば、 えさし放ちたまはず』と明記されています。だから彼女が光源氏を嫌っているというのは誤りで、光源氏が「第二皇子」あるいは「臣籍降下した一世源氏」として受けるべき待遇を超えて特別扱いされることを問題視しているのですが……詳しくは、そこまで話が進んだ時に。
もっとも、光源氏はなろう系チート主人公ではありません。確かに才能もあるのですが、何事にも努力を怠らないからこそです。ただし、本当に何事にも。例えば、六条御息所に書を教わるついでに男女の関係にもなってしまうように。
『心ばへ』は、普通は「気立て」としますが、三歳児の性格なんて大差あるわけないので、頭の良さなども含めた全体を指すとする解釈も有力です。ここではどちらとも取れるように訳しました。
『ものの心知りたまふ人』が言う『世』というのは、単に世界という意味ではなく、仏法が衰えて混乱した世界=「末法の世」と解釈しないと意味が通りません。世界は悪いものだと諦めているから、そこへ素晴らしい人物が生まれたことを驚くばかりか呆れるレベルまで達したわけです。ただ素晴らしい人物が生まれてきただけなら、驚きはしても呆れはしないでしょう。
源氏物語は当時の仏教思想の影響を強く受けています。斎院として神に仕えることを、仏事が出来なくて罪深い(『沈みつる罪』)とか平気で言うレベルです。そのことを踏まえておかないと、理解が難しくなります。だから、幕末から第二次大戦までの国家神道時代や、無神論の左翼思想が流行っていた戦後の一時期には、源氏物語の研究はアレだったわけで。
話を戻して。その、「当時の仏教思想」とはどういうものかというと、例えば、
・「世の中は悪いもので、しかもどんどん悪くなっていく」のが共通認識。
・現世が悪いから極楽往生したがる。そのために、何かというと出家したがる。特に死ぬ前。女は穢れた存在でそのままでは極楽往生できないので男以上に出家したがる。
・女は、三途川を渡る時も最初に十八禁した相手に背負われて。
・都合の悪いことは(多くの場合、悪事を働く時は)、前世からの運命のせいにしたがる。
……他にも色々あります。何でこんな宗教が流行ったのかという問題はさておき、キャラ達が何故そのようにふるまうのか理解できないところは、大体こうした宗教的バックボーンがあるせいだと思っておけば間違いないです。
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