桐壺 その2

原文

 先の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子さへ生まれたまひぬ。いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる稚児の御容貌なり。

 一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲の君と世にもてかしづききこゆれど、この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物思ほしかしづきたまふこと限りなし。

 初めよりおしなべての上宮仕へしたまふべき際にはあらざりき。おぼえいとやむごとなく、上衆めかしけれど、わりなくまつはさせたまふあまりに、さるべき御遊びの折々、何事にもゆゑある事のふしぶしには、まづ参う上らせたまふ。ある時には大殿籠もり過ぐして、やがてさぶらはせたまひなど、あながちに御前去らずもてなさせたまひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、この御子生まれたまひて後は、いと心ことに思ほしおきてたれば、「坊にも、ようせずは、この御子の居たまふべきなめり」と、一の皇子の女御は思し疑へり。人より先に参りたまひて、やむごとなき御思ひなべてならず、皇女たちなどもおはしませば、この御方の御諌めをのみぞ、なほわづらはしう心苦しう思ひきこえさせたまひける。


対訳

 前世でもご縁が深かったのでしょうか、この世に二人となく美しい玉のような皇子までがお生まれになりました。帝は「まだだろうか」と待ち遠しくお思いになられて、急いで参内させて御覧になられると、見たこともないほどです、赤ちゃんのお顔は。

 第一皇子は、右大臣の娘の女御からお生まれになられた方で、後ろ盾がしっかりしていて、間違いなく皇太子になられるお方と世間から大切に扱われていらっしゃいましたが、この皇子の美しさには比べようもなかったので、帝は第一皇子は普通に貴いとお考えで、この若君をこそ、個人的な宝物とお思いになって大切になさることこの上ありません。

 桐壺の更衣は、そもそも一般の女官がするような帝のお側勤めをなさるような身分ではありませんでした。評判もとても高く、上流階級の雰囲気がありましたが、帝がむやみにお側近くに置かれて、しかるべき音楽会の折々や、どんな事でも趣きがある催しのたびに、真っ先に参上させなさいます。ある時には寝過ごしになられて、そのままお側にいさせるなど、無理に傍から離さずにお扱いになっていたうちに、自然と身分の低い女房のようにも見えたのですが、この御子がお生まれになって後は、とても格別にご配慮なさるようになったので、「皇太子にも、ひょっとすると、この御子がおなりになるかもしれない」と、第一皇子の母女御はお疑いになられました。他の皇妃より先に入内なされて、帝も大切にご寵愛されることは並みでなく、皇女達なども産んでいらっしゃるので、この方のご忠告だけはさすがに、面倒がりながらも心苦しくお思いになられるのでした。


訳者注

 『めづらか』(「非常に」)と書かれるほど美しい赤ん坊、光源氏の誕生です。兄である第一皇子、後の朱雀帝も超絶イケメンですが、光源氏には見劣りする。勿論これは外見の話であって、帝としての器はまた別の問題ですが。

 桐壺更衣は、本来もっと大切にされるべき身分なのに、桐壺帝が寝過ごす上に起きてからもそのまま傍にいさせる(『大殿籠もり過ぐして、やがてさぶらはせたま』ふ)、つまり寝過ごすほどヤりまくったのに昼間もなので……桐壺帝仕事しろ……、お后ではなくそこらのメイド(正確にはメイド兼秘書兼その他色々ですが、詳しい定義など知らなくても源氏物語は楽しめます)と変わらないように見えたのですが、光源氏が産まれてからは格別に大切にされるようになったので、第一皇子の母である右大臣の女御(いわゆる弘徽殿の女御)は、光源氏が皇太子に立てられるのではないかと不安になります。今と違って第一皇子が自動的に皇太子となられる時代ではないのです。

『あさきゆめみし』などの二次創作では悪役にされがちな弘徽殿の女御ですが、原典では、まとも過ぎるくらいまともな人。正論ばかり言うので疎まれる、委員長タイプです。リアルですね。

 そういうキャラなので、二次創作のように桐壺更衣をイジメたりとかしません。言うべきことを堂々と桐壺帝に言ってのけます。そうしたところが、「政治に口を出すなど、女のくせに生意気だ」という時代の人には嫌われたのですが。最近は逆に、ファンが増える要素になっていますね。内館牧子さんの『十二単衣を来た悪魔』の影響が大きい。

 話を戻して。右大臣家という支持基盤を持ち、他のお后より早く入内して、第一皇子以外にも『皇女たち』を産んだ(少なくとも成人した皇女が二人います。この時代の幼児死亡率を考えると他にも何人かいたでしょう。実際、彼女の産んだ皇女は光源氏より年下の可能性が高いと考えられていますので、これから後に産まれることになります。逆に言えば、この時点で『皇女たち』と呼ばれている娘達は早世するのでしょう)彼女の忠告(他の人達は『そしり』などと表記されているのに、彼女の場合だけは『御諫め』となっています。諫めると表現されている以上、完全な正論だということです)だけは、桐壺帝もウザがりつつも胸を痛めるのですが、それでも行動を改めたりはしません。他の人からは何を言われても聞く耳すら持ちません。

 控えめに言って色ボケです。将来、藤壺の件で光源氏に読者のヘイトが集まらず「桐壺帝ざまあw」で済むようにするため、こうしたキャラ造形が必要だったのでしょう。とはいえ、モデルといわれる醍醐天皇は菅原道真を左遷したとかの罪で地獄に落ちたとか言われる人物なので、これでもまだマシな設定だったりしますが。


 なお、『疑ひなき儲の君』、つまり「皇太子になられることに疑う余地はない」(「疑いのない皇太子」ではありません。源氏物語ではこのように倒置法を多用しているので訳す時は注意が必要です)という話になっているのは、当然ながらこの時皇太子が決まっていなかったことを意味します。では、それまでの皇太子はどうなったのでしょうか?

 桐壺帝の弟(以下、「前坊」と表記します。源氏物語で前坊という場合はこの人物を指します。前坊とは、直近の皇太子という意味ですが、帝になられた方が皇太子と呼ばれ続けることはありませんから、「皇太子でありながら帝になれなかった直近の人物」ということになります)が皇太弟だったことははっきりしています。しかしそれが何故皇位継承から外れたのかは記述がありません。ただ、この前坊は妻と幼い娘のことを桐壺帝に頼んで死ぬのですが、その娘というのが光源氏より九歳年下なので、逆に言えばこの時からあと十年ほどは生きていたことになります(『桐壺』執筆当時は前坊周辺の設定が固まっておらず、後付けしたため、紫式部が年齢計算を間違えたとする説もあります)。また、帝と普通に兄弟付き合いしているのですから、処罰されたわけではないことも確実です。そのため、恐らくは病気により皇位継承を放棄して引退した(権力闘争に敗れて病気を理由に表舞台を去った可能性を含みます)という説が有力です。紫式部の年齢計算ミスでないのなら、ですが。

 ともあれ。この前坊に先立たれた妻というのが、後に光源氏の愛人となる六条御息所です。

 六条御息所と言えば光源氏の正室である葵の上との車争いが有名ですが。これを単体の事件、ましてや葵の上と六条御息所の間の問題ではなく、葵の上の左大臣家(正確には、左大臣家単体ではなく左大臣家と右大臣家の同盟)と六条御息所の六条大臣家の争いの一環としてとらえるべきだ……とする説があります。

 実際、車争いの記述からは両家の対立が感じ取れます。また、葵の上の病気の時に故六条大臣の怨霊が疑われていますから、六条御息所個人ではなく六条大臣家そのものから恨まれる心当たりがあるということです。

 繰り返しになりますが、有力貴族が娘を入内させ、産まれた子供を次の帝にして権勢を握る時代です。この時は六条大臣家が一歩リードしたわけですが、前坊は即位することなく、時期は不明ですが六条大臣も死に、六条大臣家そのものも没落しました。そして、左大臣家には六条大臣家に恨まれる覚えがある、と。これを偶然ではないとするならば、「左大臣家により六条大臣が暗殺されたことで六条大臣家は没落。後ろ盾がなくなった前坊は失脚した」と仮定すると矛盾なく説明できる……というのですね。勿論、あくまで一つの説に過ぎず、私自身も賛成はしていませんが(六条大臣家の没落後に左大臣家が好き勝手やってるというだけでも恨まれるには充分であり、後ろ暗い行為で六条大臣家を潰したと考える根拠にはなりません。ましてや、左大臣家と右大臣家が繁栄しているからといって、両家が共謀して六条大臣家を追い落としたなど飛躍し過ぎです)。

 いずれにせよ。前坊の存在を匂わせ、そこから序盤における二大ヒロイン六条御息所そして葵の上の物語を連鎖させていく伏線を、『疑ひなき』というたった四文字で張っているわけです。要らない言葉を極限までそぎ落とし、無駄が全くありません。紫式部半端ない。

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