第14話 本当の名前1

 ラニがガレージで、ジープのエンジンをかけて待っていた。少し前から加わった車で、ラムにしては珍しい車種だと思っていたが、ラニの車だった。(うん、似合う。これ以上似合うのそうないね。あとはランクルとか?ローバー?)などと思って眺めていたら、私のカバンを取り、後部座席に置いてくれた。いつものように寡黙に。いつものように厳しい雰囲気。(あれ、だけど少し和らいでる?)

 "おずおず"とも言える様子で、彼が私の手を取った。常に自信に満ち堂々として、行動や動作に迷いもためらいもない普段の彼とは思えない。指示や命令を出し慣れているであろう声も、いつもと違ってわずかだったが自信無さげだった。「マドモアゼル、少しドライブしませんか?」これでは、まるで初恋の相手にデートを申込むティーンエイジャー。私より年上で知識も経験も比べられない程なのに。こういう事にはあまり経験がないらしい。「さっきみたいに笑って言って!そんな顔でそんな事言われたら可笑しいよ」一瞬困ったような表情になる。私はすかさず「喜んで!」と言った。「喜んでご一緒します」やっと彼が微笑んだ。


 途中買い物をして、車はM区某所の長期滞在型ホテルのような所へ。ラム宅の部屋では手狭になってきて、ここを使うことにしたと言った。「さあ入って、買ってきた飲み物を冷やしてくれないか」部屋はとても広い1LDKと言ったところ。大きな窓からは日差しがたっぷり入っている。手分けして荷物を運び込むと、ひどく空腹なのに気づいた。朝から何も食べていない。もう昼過ぎだった。

 「君もお腹空いただろう?」と言い、ラニが手際良く、買ってきた惣菜や食器をダイニングテーブルに並べ始めた。私も手伝う。彼とは たびたび共にキッチンに立つことがあったので、何も言われなくてもやる事はだいたい分かる。何も話さず、最初はミネラルウォーターを飲みながらサンドウィッチなどを食べた。

 飲み物が冷えた頃、チーズやハムなどを今度はリビングの方に持って行くように言われた。ラニはシャンパンの栓を開けて待ってくる。「グラスを借りてくれば良かったね」と、さっきまで水を飲んでたグラスに注いだ。驚いた事に自分のグラスにも。彼は昼間から飲まないはずだった。それにドライブと言っていたが。てっきり郊外の方に行って、食事でもして そのまま私を送って行くのだとばかり思っていた。彼は注ぎ終わると、ソファの隣に座る。適度に離れて。何も言わずグラスを持ち上げ、私の目を見る。乾杯、という事だが、相変わらず彼の目には何の感情も読み取れない。私はなんとなく少し落ち着かない気分になる。

 1杯目のシャンパンを、私は(この人ポーカーさせたらきっと無敵だわー)と明後日の方向の事を考えつつゆっくり飲み、彼はほとんどひと息で飲んだ。そしてすぐにお代わりを注いだ。今度は本当に驚いて、彼の顔をまじまじと見つめてしまった。2杯目を飲むのは見た事がない。まぁ、ここは自分の部屋だし、今日はもう仕事しないのだろう。(だけど、私に独り電車で帰れというつもりなの?)

 その私の気持ちを察したのか、彼はグラスを置き、私にもそうするように言った。腕を伸ばして私の肩をそっと掴み自分の胸に抱き寄せた。「今朝はすまなかった」と言ったが、私にはその顔が見えない。見上げようとしたが、強く抱きしめられ身動き出来ず、着ているセーターしか見えない。「女性の方から言わせてしまった。だけど、僕にはとても重要な事なんだ…」何の感情もない声が聞こえた。

 しばらくそのままでいたが、私の脚を持ち上げ自分の膝の上に座らせた。今度は顔が見える。その顔は何となく悲しげに見えた。表情が意を決して、というように変わり、キスしてきたが2人の歯がかちんとぶつかった。私が喉で笑うと「すまない」と言って、し直した。今度は、深く強く。

 私は、1分もしないうちに彼の胸を押して顔を離した。私はニヤリと笑って見せ「なぜ?」と言った。彼は愉快そうな笑い声を上げ、もう1度キスしてから日本語で言った。「君が好きだ!そうだ、今夜は帰さない」「今夜って、まだ明るいよ!」2人で笑う。彼が私を抱いたまま立ち上がった。



 「なんかね、その頃の私は、彼の感情を引き出したくてイタズラみたいな事ばかりしていたと思う」懐かしく、照れ臭くもある私の思い出話に、料理長が微笑んでいる。



 カーテンの隙間から西日が差し、ラニの胸を照らしている。完璧に均整がとれた芸術品のような身体(キズだらけだけど)。それに比べ私は…うつ伏せの状態だとリカが"石狩平野"と呼ぶ胸は隠れるが、尻の傷跡が見える。アッパーシーツを引っ張り上げた。眠っていると思っていたラニが口を開いた。「気になるか?僕は気にしないよ。ほら、僕の方が酷い」寝返りして背中を見せた。浅黒い肌にワントーン明るい色の傷跡が、左の肩甲骨の下あたりから脚の付け根までまっすぐ下に走っている。幅広く皮膚が深く抉られた跡だと思う。ダイビングの時に目にしたキズだ。そう言えば私の傷跡もその時に見られていたかも。頭を打って朦朧としていたので覚えてないが、ほぼ裸だったはずだ。「これを見て、嫌だとか醜いとか思うか?」と訊いてきた。「ううん、痛かっただろうなと思うだけ。もの凄く痛かったでしょ」私は彼の腰を撫でた。彼も私の傷跡を優しく叩いた。「Un accident、Un incident(事故)」フランス語とイタリア語で答えてくれた。(彼はこの後も どのキズ跡も「事故」としか答えた事がない)

 その他にも細い白っぽい筋がたくさんある。ほぼ同時期のキズのように見える。(だけどお尻の、目立つ傷跡の下になった古い跡は、私と同じように小さな子どもの頃について成長と共に拡がった…!)

 頭がぼんやりしてきたのに、頭の中に鮮明なヴィジョンが見える。印象的なものが2つ。(ああ、そうか。そうなんだ、彼は…)

 この、深く‘’わかった‘’という感覚は、上手く説明出来ない。わかる時にわかる事だけがわかる、だけど、誰が何と言おうとわかるものはわかるのだ。私に授かった天賦の才とも言える能力。〈幻視〉〈ノウイング〉というものだ。残念ながらこの頃は稀にしか見えず、ヴィジョンには膨大な情報が添付されている事も理解できてなかった。また、エネルギーにも情報が添付されているという事も、セックスはエネルギーの交流である事も、何年か後に知った。



 「そうなのか?」料理長が少し驚いている。「うん。何年も連れ添った夫婦の顔が似てくるって言わない?それって、顔かたちが似るんじゃなくて、エネルギーが似てくるの。だから印象が似るんだって」「そうか…面白いな」料理長は感心しているが、何か想像してもいるようだ。

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