第6話 神速

「ねえ、伊藤さん。大会ってどうする?」


 久しぶりに登校して「娑婆の空気はウマイぜ」とか言ってクラスメイトをドン引きさせていたら、村岡くんに声を掛けられた。


「大会?」

「うん、中体連の申し込み、そろそろだけど」

「えっと、私、部員じゃないし、出るつもりないよ」

「マジ? そっか、残念だな。伊藤さんの活躍って見てみたかったけど……」


 話がよく分かっていないが、取り敢えず丁重にでもなくお断りしたらあっさり引き下がった。村岡くんは、えっと、何部だっけ?

 思い出した。陸上部だ。以前に誘われて陸上部に顔を出したことがあったっけ。

 その頃は、まだ桜も咲く前、四月末だったはずだ。




 その日、放課後にジャージに着替えてグラウンドに出た。


 陸上部の人たちは既に準備運動をしている。

 その中の一人、ストレッチをしている一人に近寄って声をかけた。


「中村さん、私は何をすれば良いかしら?」



 陸上部の練習への参加を誘ってきたのは中村さんだ。体育の100m走で11秒台を出したときに「中学女子だと全国トップクラスだよ!」と興奮気味に話しかけてきたのだ。

 世界記録って九秒いくつのはずだし、そんなに速いとも思ってなかったんだけど、中学生にしては凄いのだとしつこいのだ。


「部活に入るとか大会に参加するとかでなくても、一度来てよ。こっちにも刺激とか張り合いになるし、伊藤さんもなんかスポーツとかやってるんでしょ? 参考になることがあるかもだよ」


 そう言われたら否定は難しい。私は陸上の練習については全く知らない。知らないことを役に立たないと断じて切り捨てるのもどうかと思う。

 あまり期待はしていないが、知識を増やすこと自体は悪いことではない。そう思って陸上部を体験してみようと思ったのだ。



「集合の時間までまだ後十分くらいあるから、それまで適当に準備運動してて貰える?」


 そう言うので、軽く体操をしてから演武の型に入る。何か注目を集めているような気はするが、気にしない。

 知らない人が、自分たちと違うことをやっていれば誰だって気になるだろう。


「集合!」


 私の演武が終わるのを待っていたかのように、顧問の鈴本先生が集合をかけた。

 ゾロゾロ集まっていく人たちの脇に待機していたら、中村さんに腕を掴まれて、集まった人たちの前に連れて行かれた。


「100m11秒台の伊藤さんです。入部するってわけじゃないけど、来てもらいました」


 何か変な紹介をされた。私は「伊藤です。よろしくお願いします」とだけ挨拶して頭を下げる。


「11秒ってマジかよ? 嘘ついてるんじゃねえよ」

「測れば分かるだろ、そんなことは。すぐにバレる嘘つくかよ」


 疑わしそうに声を上げた男子に、別の男子が諌める。


「速いとは聞いてる。まあ、タイム測ってみるか。小西、村田、それと川本。一緒に走れ」

「うす」

「はぁい」


 顧問の先生に名前を呼ばれ、諌めた男子と、女子が返事をした。もう一人は誰だと思ったら、難癖つけてきたバカだ。


「川本さんは女子短距離トップ、小西と村田は男子のトップ二人だよ」


 中村さんが教えてくれた。尚、中村さんは長距離派で、短距離走は苦手らしい。

 スタート位置に着くと、なんかゴツいのがある。何だこれは。体育の授業ではこんなもの見たことがない。


「あれ? スターティングブロックって初めて?」

「ええ。授業では使わないでしょ?」


 どうしたものかと戸惑っていたら、川本さんが使い方を教えてくれた。女子のナンバーワンということだが、気さくで人当たりが良い。きっと、こういう人がモテるのだろう。

 周囲がなにやらヒソヒソと話している中、スターティングブロックを調整してみる。私はどちらかというと、右足が後ろの方がスタートしやすい。ような気がする。

 全員が位置を調整し終わると、位置に着く。


 横から真剣な気迫が伝わってくる。が、子どもレベルの真剣、というだけだ。未熟さは拭えないし、何よりこの気配には『覚悟』が感じられない。

 そこそこの緊張感が漂う中、ゴールに立つ人が旗を振り下ろし、私以外の人がスタートした。

 それを見て、私も即座にブロックを蹴りダッシュする。


 数歩あれば追いつく。

 走っているスピードを見れば分かる。彼らはそんなに速くない。余裕で勝てる。

 だが、私は決して手を抜くつもりはない、全力を込めて地面を蹴飛ばして走り、最後の一歩は奥義を使う。


 神速。


 私が剣術の奥義として目指しているものの一つだ。

 ただ、今は一歩しかできない。しかも二歩目を踏み出す余力すら無くなってしまう不完全も甚だしいものだ。

 だけど、陸上競技のゴール一歩手前ならば使える。着地に失敗したら怪我をするけど、まあ、何とかなるだろう。


 最後の一歩を蹴り飛ばすと、私は完全にバランスを崩しながらゴールへと突っ込んでいく。それでも腕を伸ばして地面につくと、そこを支点にして体勢を立て直して何とか着地する。


 無事にゴールした後、コースから外れて座り込んで荒れた息を整えていると、記録係の人が驚いた顔をしているのが目に入った。


「伊藤さん何秒だった?」

「11秒2……」

「は? 何それ、マジヤバいって!」


 何かとても興奮しているようだ。そんなに凄い記録だったのだろうか。

 そして、向こうでは難癖バカが大泣きしている。本当にバカは困る。


「伊藤さんだっけ、速すぎだよ。どんな練習したらそんなに早く走れるの?」


 川本さんにそう聞かれるも、正直困る。

 全力で地面を蹴飛ばせば良いだけ、なんだけど……

 ああ、そうか。


「柔軟と筋トレだと思う。早く走ることそのものを目的にした訓練はしたことがないけど、有効そうなのはその辺かな……」

「筋トレ?」

「うん。足腰は鍛えてるから。剣術では陸上みたいに走りったりはしないけど、踏み込みは凄く大切だから」

「足腰かあ……」

「伊藤ォォォ!」


 川本さんと話をしていたら、難癖バカが泣き叫びながら近づいてきた。転んでアタマでも打ったのだろうか。


「ぢぐじょおおお、ぢぃぐじょぉぉぉ」


 泣き喚いているバカ。

 ウンザリしながら鳩尾に軽く掌底を入れてやると「ゴフッ」といった後は静かになった。


「負けて悔しいなら、喚いていないで勝つためにどうすれば良いかを考えなさい。そんなことも分からない、程度の低い人が私に勝てるわけがないから」


 きっぱりはっきり言い切った。

 お腹を抱えて蹲っているバカはまだ喋れないようで、微妙な沈黙が訪れる。


「な、なあ。最後の一体何したんだ?」

「そうだよ! いきなり転びそうになるし、びっくりしたんだけど」


 微妙な空気を破って声を掛けてきたのは、む、む、む…… ええと、そう、村岡くんだ。何したと言われても、全身の力を込めて蹴るだけなんだけどなあ。

 だが、そう答えても誰も納得しない。

 言葉で上手く説明するのは難しい。簡単に伝授もマスターもできないから奥義なんだし。


「腕の力から、上半身の動きまで完全に連動させて全部脚に伝える感じ? 剣術の奥義の一つなんだけど、まだまだ全然使えないよ」

「使えないって、使ってたじゃん」

「そのあと転んじゃうんだもん、自爆にしかならないよ。それで怪我をしたろ目も当てられないし」

「まあ、確かにね」


 取り敢えず、神速術は未完成だということは分かってもらえたようだ。そもそもマンガをベースに考えているのだから、完成するのかも分からない。でも、そこは秘密だ。


「ねえねえ、伊藤さんって短距離の人なの?」


 そんなことを聞かれても分からない。筋力はかなり自信があるが、マラソン大会で他人と比べて競ったことはない。演武をしながら走っているから、順位は大概後ろの方だ。


「まじめに走ろうよ……」

「そう言われても、ただ走るだけということに興味ないし。私が目指しているのは、あくまでも剣だし武術だよ」

「じゃあ、幅跳びとか高跳びは?」

「二年生の時に計ったのはクラスで一番だったけど……」

「ちょっとやってみてよ!」


 ということで、走り幅跳びもやってみることになった。

 助走をつけて、踏み切り板目掛けて一段目を左足で跳び、踏切は右足だ。両足同じように動けるように訓練するべきなのだが、どうしても無意識的に右足で踏み切る癖がある。陸上競技で記録を狙うならば、体が自然に動くほうにした方が良いだろう。


 結果的には着地を少し失敗してしまったが、記録は7メートルにギリギリで届かなかった。何か悔しい。


「伊藤さん、それ、日本記録……」


 私の呟きに、呆れたように村岡くんが言う。

 いやいやいや。世界記録って8メートルとか9メートルとかでしょ? 7メートルで日本記録とか……


「男子でもまだ9メートルに届いてないって! 女子は7.5メートルだから!」


 私の言葉に一斉にツッコミが返ってきた。そうなんだ。日本記録とかよく知らないよ。

 首を傾げながらジャージの砂を払っていたら、下級生と思しき女子たちに囲まれてタオルを差し出された。


「あの、どうぞ!」

「私のタオル使ってください!」


 キャイキャイと黄色い声を出しているが、別にタオルは要らない。


「伊藤ォォォ、テメエ、女のくせに女子にモテてるんじゃねえよ!」


 バカが復活したと思ったら、また意味の分からない難癖をつけてきた。本当に困ったバカだ。

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