トマトのカッペリーニ、冷たいパスタで。
結恵🌙(yue)
1.白い洞窟のトラットリア
7月の第一日曜日。関東地方の梅雨明けの予想日を朝のニュースで耳にした。
絵の具みたいな青色の空ともくもくとした白色の雲。今日の東京の天気は晴れ、予想最高気温は32℃。もう今日が梅雨明けでも誰も文句を言わないのではないかと思いながら、
姿見の前で全身チェックをする。ネイビーのフレアブラウスに合わせたジーンズのヒップラインに手を当てた。
お尻のラインが最近垂れてきたような気がして毎晩寝る前にヒップラインを整える筋トレとストレッチをしているが、まだ効果はない。すぐに効果がでるのなら皆こんなにダイエットに苦労しない。
アラサーという言葉は極力使いたくはないが、やはり年齢における衰えは感じる。でも園美は年齢を言い訳にはしたくなかった。
自分をオバサンだと思った日からきっと女は〈オバサン〉と呼ばれる生き物になってしまう。
今日履いているショーツは赤のレースのTバック。別に誰かに見せる目的ではない。見せる相手もいない。色気を狙うわけでもない。
ただTバックはヒップラインを綺麗に出してくれるからタイトスカートやジーンズを履く時には利用している。通気性もいい。
Tバックを履いている日はなんだか動作も女らしくなれるし、少しだけいつもよりいい女になれた気がする。強く気高い赤色もいい女の象徴みたいで好きだ。
「髪、ちょっと切りたいな」
肩の少し下まで伸びた髪の毛。今は耳の辺りからふんわりとカールさせているが、なんだかパッとしない。髪はたった数ミリ単位で印象が変わる。
まぁ今日は仕方ない。来週にでも美容院の予約を入れよう。
靴箱から取り出した白色のサンダルはお気に入りのもの。靴擦れが心配ではあったが今はすっかり脚に馴染んでいた。Tバックとお揃いの赤色のネイルがよく映える。
園美の自宅は築40年のリノベーションマンション。幼い頃に母の隣で観ていた恋愛ドラマの主人公が独り暮らしをする部屋は外観は古いがお洒落で、ロンドンやパリのアパートメントのようなマンションだったのを覚えている。
あんな家に住みたいと憧れて、ようやく理想の物件に巡り会えたのが二年前だ。家の契約更新が迫っているが、園美はもちろんまだこの家に住み続ける気でいる。
約束の時間に間に合うように逆算して園美は自宅を出た。待ち合わせは表参道駅。
気温は上がってきている。ジリジリと焼けつく暑さに堪えて最寄り駅に辿り着いた園美は電車に揺られ、表参道駅に降り立った。
駅のA4出口を出たところで友人の
「今日あっついねぇ」
「来週中には梅雨明けするんじゃないかって天気予報で言ってたよ」
園美と真緒は表参道駅から離れて太陽が降り注ぐ街の中に足を踏み入れる。
ここは港区南青山三丁目。バレエ学校やインターナショナルスクールが並ぶ通りを抜け、道なりに行くと真緒が足を止めた。感覚的には徒歩5分だ。
「ここだよ。前に慎二くんと来てね、すっごい美味しかったの」
真緒が示すのは白色のタイルで埋められたこじんまりとした建物。大きな窓が二つあり、タイルと同じ白色の扉の横には赤と白と緑のイタリアの国旗がはためいていた。
表に設置されたベンチの横にはopenの看板がかけられていて、正午が近い今はすでに何人か並んでいた。
「けっこう並んでるね」
「前は知る人ぞ知るって感じだったんだけど、隠れ家レストラン特集で最近テレビで紹介されちゃってさ。紹介されたら隠れ家でもなくなっちゃうのに。予約しておいたからすぐ入れるよ」
この後に映画とショッピングも楽しむ予定の二人ではあるが、今日のメインはここのランチ。
「ここはリストランテって言うよりはトラットリアって言うみたい」
「トラットリア?」
「あんまり馴染みないよねー。だいたいどこもリストランテって言っちゃうけど、イタリアではリストランテは高級食堂って呼んで、それよりもカジュアルな形式の大衆食堂みたいなお店をトラットリアって呼ぶんだって」
真緒の
「ビストロとは違うの?」
「ビストロはフランス語」
「ああ、なるほど……」
カジュアルな食事処をフランス語ではビストロ、イタリア語ではトラットリア。
イタリア料理のトラットリアはフランス料理のビストロよりは馴染みがなくとも覚えておきたい。
「値段も青山にしては安いのよ。パスタが最高なの」
真緒は恋人と以前に訪れたこの店がよほど気に入ったらしく、園美を誘った時もパスタが美味しいお店があると言っていた。
扉を開けると扉上部につけられた鈴の音がカランカランと音を鳴らす。真緒が先に店内に入り、カウンターの女性と話をしていた。予約の確認だろう。女性は人の良さそうな年配の婦人だ。
真緒に続いて店に入った園美はぐるりと店内を見回した。大きな窓から差し込む光が店内を明るく照らしている。
飴色のテーブルと同じ色の椅子が並び、食欲をそそるいい匂いの中で客達の楽しげなお喋りが聞こえる。
厨房に面した飴色のカウンターではひとりで食事を楽しむ女性や男性の姿もあった。形式ばったイタリアンよりはもう少しカジュアルな、なるほどこれがトラットリアか。
『こちらへどうぞ』
予約の確認を終えた園美達を奥から出てきた男が出迎える。白いシャツに黒のベストを着た彼を見た園美は息をするのを忘れていた。
「園美。行くよー」
「あ、うん……」
ぼうっとしていた園美は真緒の声で我に返る。慌てて真緒の後を追い、その前にいる黒いベストの大きな背中を目で追った。
案内された席は店の奥の二人席。天窓がついていて明るいが、半円形の天井や周りを白いタイルで囲まれているせいで白い洞窟の中にいる気分だ。
メニュー表とカトラリーのセットをして男が去っていく。園美はまた彼の姿を目で追っていた。
第一印象は爽やかな人。切れ長の目元に心地のいい響きの低い声が似合っていた。
「あの人、イケメンでしょ? ここのオーナー夫妻の息子さんなんだって」
「へぇ。そうなんだ」
「お店のホームページに息子さんのことも載ってたけど、前はイタリアのレストランで修行してたらしいよ」
「凄いね」
メニュー表を見ていた真緒が園美を一瞥する。園美は真緒の視線に気付いていたが、受け流してメニュー決めに集中した。
何をこんなに動揺しているのか自分でもよくわからなかった。でもこの動揺を真緒には知られたくなくて、園美は必死に平静を装い、メニュー表に目を向ける。
ランチは11時30分から、ディナーは18時からとなっている。
メニューは温かみのある手書きの文字で書かれている。やはりパスタとピザの種類が豊富だった。
格式ばったコース料理はなく、どれもほぼ単品。ランチにはスープとサラダとパンを組み合わせたり、単品でも注文可能。
ラザニアやミネストローネは今はいい。園美の中では彼らは寒い時期に食べてこそ本領を発揮する料理だ。
ピザやパニーニも気分ではない。元々、パスタを食べに行こうと真緒に誘われたのだ。気分は最初からパスタだった。
園美は冷製パスタの欄を見つけた。
「園美なんにするー?」
「んー……冷たいパスタにしようかなって」
とにかく暑かった。店内は冷房が効いてはいるが、焼け付くような夏の街から飛び込んだ洞窟のオアシスでも身体はひやりと冷たいものを欲している。
「冷たいパスタいいね! 前に私が来たときはペペロンチーノにしちゃったんだけど冷製パスタかぁ」
「色々あるよね。桃とモッツァレラの冷製パスタなんてものもある」
「桃っ! デザートみたいだね。んー、でも私は……ボロネーゼにしようかな。がっつり食べたい気分」
結局冷製パスタから離脱した真緒はボロネーゼを選んだ。園美はまだ迷っている。今、一番身体が欲している食材を彼女は探した。
そうだ、トマト。冷たいトマトが食べたい。
園美がメニューを決めたと真緒に告げ、真緒がテーブルにある小型のベルを鳴らす。チリン、チリンと二回合図して先ほどの男が席にやって来た。
「ボロネーゼとアイスコーヒーを」
「トマトのカッペリーニ、冷たいパスタで。飲み物はアイスティーをお願いします」
男は紙伝票にオーダーを書き込み、愛想よく一礼してまたカウンターの奥に消えた。
園美は正直ホッとしていた。彼を前にして上手くオーダーを伝えられるか緊張していたのだ。
スラリと背の高い彼は店のどこに居ても目立つ。年齢はいくつだろう? 同年代か、少し年下か。肌の質感や声の雰囲気から30代には見えなかった。
彼が何歳であっても関係のないことなのにどうしてこんなことを気にしている?
園美のアイスティーと真緒のアイスコーヒーが運ばれてくる。パスタの到着を今か今かと待ちながら二人はお喋りに興じた。
「式の準備順調?」
「それがさぁ、慎二くんの親が色々と口を出してきてうるさいの。私達のための式なのにいまだに結婚式は親のためのものって感覚があるんだよね。式の費用だって私達は自分で出してるんだから好きにやらせてくれって思う」
真緒は9月に結婚式を控えている。街コンで知り合った恋人の慎二とは交際1年でのゴールインとなった。
「園美、スピーチよろしくね」
「緊張するなぁ。スピーチなんて初めてやるから」
「高校の時に生徒会長としてみんなの前で演説してた園美なら大丈夫だって。泣けるやつを期待してるよん」
園美は真緒の披露宴での新婦の友人代表スピーチを頼まれてしまった。園美が生徒会長をしていたのは高校時代の話。あれから大勢の前で発言をする機会はめったにない。
「園美もそろそろ彼氏作れば? もう前の人と別れてかなり経つよね」
「うん。別れて2年かな」
「まだ引きずってるの?」
「さすがにそれはないけど……」
どうして結婚する女は皆揃ってこうなるんだろう。
誰かこの症状に名前をつけてくれないかと園美は切に思う。即興でマリッジハイ症候群とでも名付けておこう。
自分が結婚するからと言って、まだ未婚の友達に結婚は? 彼氏は? と催促して、恋愛していないのは女として勿体ないなどと上から目線で説教を始める。親でもないのに勘弁して欲しい。親であっても勘弁してもらいたいのに。
だから結婚間近の友達や結婚直後の友達とは園美はあまり会いたくないのだけれど、表立って今は会いたくないとは言えない。
恋愛しなくてもそれなりに幸せだ。仕事は大変だけどやりがいはあるし、住みたかった憧れの物件に住めて、欲しいモノが躊躇なく買えるくらいの財力もある。
給料日の直後はデパートのコスメフロアに寄ってワンランク上の化粧品を買い、気分を上げるためのランジェリーや靴、好きな作家の新作の文庫本にもお金は惜しまない。ひとり映画やひとり美術館、ひとり居酒屋だって経験している。
そんなドラマの主人公のような大人の女としての生活を園美は手に入れていたし、今の自分に不満もない。
ただ時々、人肌が恋しい夜はあった。誰かの腕に抱き締められて泣きたい夜もある。
だけどこの歳で新しい恋を始めるのはちょっぴり勇気がいる。誰かと付き合うとなると意識をしなくても結婚と出産の二文字が後ろを追いかけてくるようになった。
この人とは結婚できるのか、この人の子供を産めるのかこの人は良い父親になれるだろうか……恋愛をしてもそんなことばかり考えてしまう。
女には目に見えない、でも目に見えてわかる“女のタイムリミット”がある。
日本は特に若い女こそが華だと言われている。女のピークはハタチまでと豪語する男も女もいて、30歳を目前にした女達は生きにくい。
30代に言わせれば20代は子供だ。20代にとっても10代は子供。だが40代、50代以降の婦人から見れば30代の女も20代の女もまだまだ青い、未熟者。それなのに20代後半の女は自分はもう女として一人前だと思い込んでいる。
本当はピークや売れ時なんてものないのに、〈私の女の賞味期限はいつ?〉と気にしている。そんなものはないと口で言うのは簡単だ。
だけど女は常に同年代の女にジャッジされ、年上、年下、同年代、すべての年齢層の男にジャッジされ、勝手に賞味期限を決められる。
そんな年齢に差し掛かっている園美はもうすぐ29歳の誕生日を迎える。
何も考えずに“好き”の気持ちだけで恋愛ができていたのは大学時代まで。白馬の王子様を待っていられたのはずいぶん昔。今は待っていてもそんな人は現れない。
結婚式の準備が大変だと愚痴をこぼしつつも真緒は幸せそうで、それが少しだけ、
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