「あれ!? おかーさん帰ってきた! おねーちゃーん、おかーさんが死なずに帰ってきた!」

 家に帰るなり、玄関に向かって走ってきた娘の椎乃しいのが大喜びでリビングへUターンする。相変わらず元気そうだなあ、と、「ひうち」副長、垂井逢鈴たるいあぐりは少し苦笑いをした。

「待って、待ってよ椎乃、そんなに走ったらお姉ちゃん転んじゃうよ」と 椎乃に手を引っ張られてリビングから出てきたのは、椎乃とそっくりな顔つきをした背の低い女性だ。逢鈴を見るなり、椎乃を抱っこして近づいてくる。どうしてか目を逸らし、恥ずかしそううに、

「……おかえり、お母さん」

「ふふ、ただいま。椎名しいなってば、本当に恥ずかしがり屋なのね」

「う、うるさいなぁ!」

 椎乃を片手で抱き直し、もう片方の手で荷物を軽々と持ち上げて「ほら、上がって。久々なんだからゆっくり休まないと、また次の出港でヘトヘトになって帰ってくるよ?」とリビングへ向かいだした。

「はいはい、ただいま……あ」

 靴を脱いで床に足を付ける前に左に向き、

「……二ヶ月家を空けて迷惑かけたわね。ただいま、蒼司そうじ

 その目線の先には、若い男性が写った一つの写真立てがあった。

 

 垂井家は、後で家族が増えると思い少し大きめに建てられた一軒家だ。とは言っても、リビングダイニングキッチン、和室が一つ、二階に子供用の洋室が二つ、物置部屋として使っている部屋が一つあるくらいだが。

「ハンバーグもう暫く待ってね。先にお父さんの仏壇行ってきなよ」

「椎名が作ってくれているの? 珍しい……」

 言いながら和室に向かい、一つの仏壇の前で行儀よく正座する。あえておりんは鳴らさず、仏壇を見上げて「近況報告。只今の時刻、えーっと……一七四六ヒトナナヨンロクインディア」と口にした。

「蒼司、ただいま。体調は相変わらずよ。復帰前とそこまで変わらないかも。何かに取り憑かれているのかしら? それはいいとして、まずは悪い報告が二つ、いい報告が一つあるわ。

 まずは悪い報告。訃報なんだけどね、最近、私の同期が亡くなったの。自殺よ。「ひうち」の倉庫で首を吊って亡くなっていたのを私が発見したの。それがトラウマになったのか、体調を崩してね。一佐の昇任を逃しちゃったわ。それは別にいいのだけれど、長い間相談に乗っていたのにも関わらず、何も出来なかった自分ってどうなのかしらね?」

 逢鈴の言う同期というのは、つい三ヶ月前まで「ひうち」艦内で砲術士として勤務していた星野燕ほしのつばめ三等海佐のことである。「はやぶさ」にいる星野二佐とは血縁関係はないが、お互い顔見知りなようだ。「「はやぶさ」に私と同じ苗字の二佐がいるみたいだよ。偶然だよねえ。まぁ全く知らないんだけども」と、笑いながらよく口にしていたのを覚えている。

 そんな彼女がある日、逢鈴と食事がしたいと誘って、娘たちを留守番させて二人で近くのレストランで食事をした。その時に燕は言った。

「逢鈴。私ね、もう疲れたよ」

 クマが見える目元に目線が行き、「……疲れたわよね、あんな人がいたら」と口にする逢鈴。

「だからね逢鈴、私明日死ぬことにしたんだ」

「……は?」

 聞き捨てならない言葉を聞き、逢鈴は思わず腑抜けた声が出てしまう。

「幸い、「ひうち」はしばらく出港がないし、人目につかない401倉庫が一番いいと思うんだよね。それでね──」

「ちょ、ちょっと待ってよ。あなたもしかして自殺するつもりなの!? それをしたらどうなるか分かって言ってるの!?」

「うん、分かってるよ」

 目を閉じ、燕は続ける。

「色んな人に迷惑がかかっちゃうし、それ相応の対応をしなくちゃいけない人が続々とやってくる。その中で、アイツは問い詰められた時どういう反応をするのか気になってさぁ? 幽霊になって確かめてやろうって話さ」

「冗談じゃないわよ! というか、冗談って言って、お願いだから! 勤務地なら私からでも上に言えるから、だからまだ───」

 そこまで言いかけて、逢鈴の喉からその先の言葉が出ることは無かった。燕の目を見たからだ。鳥の燕の羽の色をした彼女の瞳は、もう真水で洗っても輝くことのない、と。そう逢鈴は察してしまったから。

「もういいの。いいんだよ、逢鈴。

 あんたが育てた艦長ちゃん、すごくいい子だし、最善を尽くしていただけてるのはとてもありがたい。でもさ、その下がクソだったら仕方がないじゃんか」

「そんなこと……」

 ナポリタンをフォークでくるくると器用に絡めとり、それを丁度逢鈴が見える目線へと持ってくる。スル、と皿に落ちた一本の麺を目で追い、「邪魔な麺ってさ、こうやって内側に出る麺に追いやられて行き場を無くして、フォークから外れて落ちていくんだよね。

 人間だって同じじゃない? 階級社会にしたって、この海上自衛隊っていうクソな所にしたって、仕事のできない人間は内側に隠れてるクソな上司の言うことを聞き続けて、必要がなくなったらどんどん外側に追いやられていって、最終的には落ちていく……全く、笑えないお話だよね。だから自殺者が増えていくんだよ」

 ゆらゆらと揺らすと、今にも落ちそうな麺は動きに合わせて小刻みに揺れる。麺を口に運んだ燕を、逢鈴は心底心配そうな目で見ていた。

「ねえ燕、お願い。お願いだから、本当にやめて。これ以上、人がどこかに行くところを見るのは耐えられないの」

「えー? 逢鈴に言われると考えちゃうなあ」

「私は考えて欲しいの! 今日も明日も、燕には私が死ぬまでずっと生きていて欲しいのよ」

 逢鈴はこれでも冷静に話したつもりだった。しかし燕にはそれが焦っているように聞こえたのかもしれない。彼女は残りのナポリタンをかき集めて、

「……うん、そうよね」

 いつもは男っぽい彼女は、その一瞬だけはちゃんとした女の子の口調だった。

 帰り道、燕は言う。「また一緒に食べに行こうや。次は、逢鈴の子供チビたちも連れてさ?」と。

「死ぬんじゃなかったの?」

「あっはは! 逢鈴ってほんと冗談通じないよね!」

「どっちの意味でよ……?」

 その「冗談」というのはこの会話の内容のことなのか、それとも……と考えかけて、逢鈴は思考を止めた。

 次の日、燕も逢鈴もいつも通り「ひうち」に出勤した。何ら変わらない彼女の笑顔に、逢鈴は少しだけ不安になった。その日の燕は、毎朝行われる甲板掃除に珍しく赴かなかった。逢鈴は部屋が同じな為士官寝室も見に行ったがおらず。どこへ行ったのかと頭を悩ませている時に、昨日の燕の言葉を思い出した。

『幸い、「ひうち」はしばらく出港がないし、人目につかない───』

「『401倉庫が一番いい』───」

 ざわ、と胸の中で何かが蠢いた気がした。一気に血の気が引き、ラッタルを早足で降りて艦内を小走りで走っていく。「401倉庫」と書かれた小さなプレートの部屋を見つけ、ハッチを開けて中に入る。そこにいたのは、

「……あ」

 倉庫内に人がいなかったのが不幸中の幸いとでも言えるのだろうか。その時の状況は、その時見た人にしか分からないと言えるほど杜撰なものであった。逢鈴の頭には、首に食い込んだ索の音がいつまでも離れなかった。

 後で駆けつけた乗組員に応急隊と連絡するべき人物に連絡するようにと伝えたあと、ゆっくりとその光景を見ながら後ずさりしていった。走って出勤してきた艦長の愛海に状況を説明し、その日は警務隊に任せて家に帰らせてもらった。

 その後の数日、あの光景が夢に出てきて飛び起きることが何度かあったが、三ヶ月経った今ではすっかりなくなってしまった。

「もう一つの悪い報告は、戦争に出ることになったってことかしら。あなたが海賊対処で派遣されてそのまま帰ってこなかったのは、あの時日本海域内での戦闘の影響で「こんごう」から投げ出されて、後日遺体となって発見された……って聞いたけれど、もしかしたら同じことが起こるかもしれない。その時は、から追い出してちょうだいね。

 そしていい報告。二週間、私が家にいること。「ひうち」が舞鶴のJMUで改修を受けるらしいの。だから短いけれど、また一緒にいられるわね。

 近況報告は以上よ」

 立ち上がり、逢鈴が出ていこうと後ろを向くと、いつの間に来ていたのか椎乃がじーっと見つめていた。

「そういえば、おかーさんって、久々に帰ってくると毎回ハンバーグ作るよね。どうして?」

 逢鈴がソファに座ると、椎乃が後ろに回り、力のない手でマッサージをしながら質問してくる。

「あら、話さなかったっけ? 私が長期出港から帰ってきた時、「おかえり。ハンバーグ作ってるよ」って毎回ハンバーグを作るものだから、自然と作るようになっただけよ」

「ふーん。おとーさん見たことないから分かんないや!」

「椎乃、お父さんはすごーくいい人だったんだよ? お姉ちゃん知ってるんだから」

「そーなの? かっこいい?」

「かっこいい人だよ〜」

 そんな会話をしている娘たちを見つつ、逢鈴はついているテレビに目をやる。テレビでは日米安全保障条約の事が大きく取り上げてあり、試験航海に行った「かが」が行方不明になっており今も捜索を続けているとアナウンサーが言っていた。

 ───千種司令は見つけたと言っていたけれども、本当なのかしら。でも補給艦よね? それなら無線通信で繋がっているはず。電報だって来ているだろうし、「かが」の通信員は何をしているのかしら……?

 考えてみれば色々と疑問が残る。なぜ艦長が黛一佐、副長が市井二佐なのか、なぜそれが「上からの」指名なのか、なぜ連絡手段が途絶えてしまったのか……。そして一番疑問に残るのは、なぜ「かが」なのか、ということだ。逢鈴と同じ「ひうち」の艦長である愛海が言っていたのは、「かが」に「国家機密に触れるレベルのヤバい何か」を載せているということ。その何かが逢鈴達「ひうち」乗員はもちろん、他の艦艇の乗員にも、ただでさえ秘密が多いあの「むろと」等の乗員でさえ分からないためどうも言い難いが、これは何か嫌な予感がする、と逢鈴は直感で感じていた。

「おかーさん、難しいこと考えてる?」

 不意に椎乃に声をかけられ、「え? ああ、ちょっとね。気になることがあって」と正直に言った。娘たちに嘘は通用しない。大丈夫と言っても「嘘!」とすぐに言い当てられてしまうのだ。それは燕を亡くしたも。

「おうちでお船のこと考えたらダメっていつも言ってるじゃーん!」

 むにーっと両頬をつねられ、「いたたた、分かった分かった、考えるのやめる。椎乃はそれでいいの?」と両手を後ろに回して椎乃の横腹を掴み、前に持ってくる。

「それでいい!」

「何様だあんたは……。はい、出来たよお母さん。お父さんの作ったやつと味が違うかもだけど、私と椎乃の分待っていたら冷めちゃうから、先に召し上がれ」

 椎名がテーブルの上に、ハンバーグが乗った皿を置いた。ふわ、と香るその匂いに逢鈴は少し驚いた。

 。「椎名、これ」と聞くと、椎名は少し照れくさそうに、

「お父さんが書いていたレシピ本を見つけちゃって。私の机の引き出しの、凄ーく奥の方にあったの」

「さすがね、お父さんも椎名も。でもお母さんは椎名と椎乃の分を待つわよ? 三人揃っていただきますってしたいじゃないの」

「椎乃もしたい!」

「じゃあ、ラップするか〜。待ってて、取ってくる」

 台所に向かっていった椎名を横目で追いながら、逢鈴は目を閉じた。

 チチチ、とツバメが鳴く声が聞こえる。この時期は野生慣れしていないツバメが多く飛び交う季節だ。

「あ、つばめだ」

 椎乃が無邪気に呟く。

「……燕」

 それに続き、小さくその名を呟いた。それが自身の母の旧友の名前なのか、それとも単なる鳥の名前なのか、椎乃にはよく分からなかったが、呟いた母の顔は少し寂しそうで、同時にどこか悲しそうにも見えたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る