第5話 第一章 宮本武蔵

「国々所々に至り、諸流の兵法者に行き合い、六十余度迄勝負すといへども、一度もその利を失はず」



 宮本武蔵

 宮本武蔵といえば、日本人であれば誰でも知っている。戦国末期( 一五〇〇年代後半) から江戸時代初期( 一六〇〇年代初頭) にかけて実在した武士であり、生涯六十数度の決闘を行いながら一度も敗れず、最後は畳の上で死んだ英雄である。

 英雄とは「文武の才の特にすぐれた人物。実力が優越し、非凡な事業をなしとげる人」( 広辞苑) のこと。文に優れるといって、文章がうまいということではなく、多くの人間を説得する言葉(心)をもっていたということ。人の心に影響を与える深い英知と、自分の体をはって社会を変革しようという強い侠気をあわせもつ人間のことである。

 時代の要求に応じるための大きな社会改革が必要とされるときには、どうしても武の力が要求される。その意味では、漢の劉邦、織田信長、アレクサンダー大王、ナポレオンといった英雄たちは、みな武士といえる。

 十六世紀の日本で、織田信長( 一五三四〜一五八二) は数万人の僧を殺したが、そのおかげで、実力によって日本の社会が運営されるという道が開かれた。当時の僧侶には気の毒だが、彼らの犠牲によって、平将門( 九〇三〜九四〇) 以来続いた「武士vs朝廷・貴族( の利用した仏教) 」の戦いに決着がつき、武士による国家の統治が完成したのである。

 また英雄とは、力づくで社会を変えるだけでなく、法を整備して社会を安定させる。ナポレオンはナポレオン法典を制定し、徳川家康は多くの法度( 法律) を公布して社会システムを整備した。

 宮本武蔵という男は、歴史的戦いをくりひろげたわけでもないし、国家をうごかす法を制定したのでもない。だが、人の言動は人と共に忘れ去られ、人がつくったシステムもまた社会が滅びれば消えていく。ひとり思想のみが永遠に残る。武蔵はこれを残した。真剣勝負の思想、相打ちの思想ともいえる、立派な戦いの思想である。

 真剣勝負での心構えとか、敵よりも先に攻撃するという技術はどこにでもある。しかし、武蔵は小手先の技術や肉体的な優劣という、表面的なものに依存しない、自然の原理に基づいた戦い方で困難な戦いに勝ち続けた。

 そして、この自分の戦法をハードウェア( 物理面) とソフトウェア( 心理面) に分けて整理し、誰もが身につけることのできる普遍的な考え方( 思想) にまで進化させたのである。

 人と社会に大きな影響力のある思想を命がけで見いだしたという点で、武蔵は英雄と呼ぶに値する。



 武蔵の生きた時代

「今の世の中に、兵法の道確かにわきまえたるといふ武士なし」


 武蔵の生きた時代

 戦国時代( 一五〇〇年代) とは、正しい者は強い、強い者は正しいという価値観のなかで、武士たちが自分の主張を競った時代である。下克上という言葉が示すように、自分が正しいという信念で戦い、勝って勝ち続ければ、家柄や身分、肩書に関係なく世の中に認められる。機会を生み出しそれを実現する能力と、何をやったのかという実績が重んじられる。人に寄生する商売よりも、自分が主体となって活動することが評価される社会であり、人々が伸び伸びと生きることのできた時代であった。

 特に、織田信長の活躍した頃、武士はもとより百姓町人にいたるまで、大衆のエネルギーは爆発した。宣教師を通じて「世界」というものを知った日本人は、日本の外にある、より大きな存在を意識し、初めて自分たちの真の姿が見えたのである。正に日本のルネッサンスともいうべき時代であった。天正という年号( 一五七三〜一五九二) は、日本人が天を意識することで人間としての正しいあり方を追求できたという、この時代を象徴する名称といえよう。

 西洋ではルネッサンスのエネルギーが宗教改革となり、外へ向かって爆発し大航海時代が起こった。日本でも織田信長が早世することがなければ、逆に日本人が西欧世界に乗り込んでいたであろう。結局、日本の大航海時代は、中国沿岸を荒しまわる倭寇( 海賊) で終わってしまったが。

 この熱狂的な戦国時代は、信長の死によって事実上終了し、時代の主役は、乱世の英雄から治世の官僚へと移り、疾風怒濤から、社会は少しずつ鎮静化していく。徳川家による江戸時代の始まり( 一六〇三年) とともに、幕府の役人たちは在野に残る英雄の芽をつみ取り、武士の創造性、革新性をつぶして社会を均一化・平準化していく。

 だが個人レベルでは、多くの武士たちが全国にまだたくさん雌伏していた。「どうせすぐ、徳川もひっくり返るだろう」という、ある種の期待感がくすぶっていた。だから日本人の多くが、次なる戦乱にそなえ、実力による問題解決能力( 武芸) の鍛練に励んでいたのである。

 宮本武蔵が、その後半生を生きた江戸時代初期とは、まさにそういう時代の変わり目であった。

 ( 江戸中期以降になると、士農工商という階級制度は固定化され、武士はみな特権的な立場で人々を支配する官僚・役人としての存在でしかなくなる。剣の力がすぐれているとか仕事ができるということよりも、家柄・コネ、金の力が優先され、社会や国家に寄生する人間ばかりがふえてくる。武士の力で貴族から脱却した社会が、再び貴族化していくのである。)



 武蔵の生き方

「武士の兵法をおこなふ道は、何事におゐても人にすぐるゝ所を本とし、或は一身の切合に勝ち、或は数人の戦いに勝ち、名をあげ身をたてんと思ふ。是兵法の徳をもつてなり」 


 武蔵の生き方

 この時代の変わり目にあって、武蔵は英雄として実に立派に生きた。

 紫衣事件における禅僧沢庵のように、いったんは朝廷側について幕府に反抗しながらも脅しに負け、幕府御用達のサラリーマンに宗旨替えするようなポリシーのない人間ではなく、慶安の変の首謀者由井正雪のように、浪人たちの英雄に祭りあげられて権力から睨まれ抹殺されるというへまも犯さず、あるいはハムレットのように、世の不条理に独り悩んだすえに悲劇的な最期を遂げることもなかった。決して華々しい生き方ではなかったが、武蔵は自分のポリシーを決して曲げず、己が考える英雄としての在り方を見失わずに生涯を全うしたのである。

 武蔵は、二十歳代までは弱肉強食の世界に身をおき、そこで通用する戦い方で勝ち続けた。そして、時代が太刀の論理から文の支配へと移行していく流れに歩調を合わせてサラリーマン武士となったが、そこでも、太刀による戦いの精神から離れることはなかった。

 仕官した先はいくつかあったが、最終的には、武蔵の唯一の理解者であった肥後( 熊本) の細川忠利( 一五八六〜一六四一) という、武蔵と同じく戦国時代の気風を持つ武士のもとで人生を終えた。釈迦は四諦といい、結局は諦めることを仏教の根本原理としたが、武蔵は決して諦めなかった。社会の変化や時代に流されない真の武士の魂を現実に残す為、最後まで戦ったのである。

 武蔵は、平和な日常生活におけるあらゆる出来事に、安心ではなく戦いを見いだし、それに勝つために、( 他人ではなく) 自己の内面と戦った。敵に襲われることを避けるため、風呂に入りたいという欲望に勝つ。そのために、人から臭いと嫌われることを恐れる弱い自分の心に勝つ。社会や宗教によって規定された作り物の価値観に囚われず、自然の原理に忠実に生きることこそが、平時の武蔵にとって最も重要な戦いであった。

 武蔵は人から異端視されるような変人・奇人ではない。武士の生活におけるあらゆる場面で、自分を他人から遠ざけていただけ。現在のアメリカに生きるアーミッシュという宗教集団と同じで、他人に強制することなく、自己の生き方を独り追求した。大勢から離れ、へたをすればいじめに遇うギリギリのところで、自分の個性を守り通した。大と小、衆と寡のせめぎ合いをうまくコントロールすることで、誰もが人生後半に遭遇する「静かなる戦争」にも勝ち抜いたのである。

「兵法の道をつねに鼠頭牛首とおもひて、いかにも細かなるうちに、にわかに大きなる心にして、大小にかわる事、兵法一つの心だて也」



 武蔵の勝ち方( ソフトウェアで勝つ)

「我が兵法の智恵を以て、確かに勝つ」


 武蔵の勝ち方( ソフトウェアで勝つ)

 真剣勝負の世界で、武蔵は肉体の強靱さや剣の技術よりも、智力で勝負した。

 攻撃と防御、勝利と敗北の狭間で、ぎりぎりの部分を見きわめ、生と死の境にある薄刃一枚を理性でコントロールする。戦いにおいて、攻撃するのとされるのとは表裏一体であり、全く同じ行動が気合い一つで反転する。この境をコンマ一秒の差で見きわめる知的な選択こそが、真剣勝負の要なのである。武蔵は剣の勝負だけでなく、人生というロングレンジの戦いをも、きわどい部分で確実にコントロールした。そして、そのソフト的な力を知徳・智力・智恵とよんだ。

 力とスピードというハード的な武器で押してくる敵に対し、「場と間合いと拍子」というソフトウェアによって勝敗を反転させることは可能である。

 一九七四年、アフリカのキンシャサで、プロボクサーとしてはもはやロートルとバカにされたモハメド・アリが、無敵の若きチャンピオン、ジョージ・フォアマンをマットに沈めたように。

 「敵がこう攻めてきたら、こう対応する」と、教えるのが小手先の技術。しかし、道場で教えてもらった通りにその場の状況が再現されることなどない。だから、いくら技術を暗記しても無駄、というよりも固定観念に縛られ、かえって危険である。技術の大本にある原理を軽んじて、体力・腕力・スピード・破壊力という、表面的な力に頼る者は勝負に勝てない。

 大艦巨砲主義に見られる旧日本軍のハードウェア重視の思考は、合理的で柔軟な思想を元にした米軍に歯が立たなかったではないか。

 物量の差で日本は負けたのではない。ミッドウェー海戦( 一九四二年)において、日本の物量は米軍のそれを圧倒的に上回っていた。にもかかわらず、日本海軍は知識や慣習に縛られて的確なハードウェアの運用ができず、戦いの原理に忠実な米国軍人の智恵に敗れた。日本人は戦艦武蔵を建造したが、入れ物ばかりで肝心の武蔵の魂は入っていない。武蔵の精神はむしろ、当時の米国の方にあった。

 一方で、日本海軍のパイロット故坂井三郎氏は、戦争中盤、すでに速度や装備が劣る零戦を駆って、最新鋭の敵戦闘機を多数撃墜していた( 六十四機) 。零戦というハードウェアを徹底して活用するソフトウェアの力により、二百回の出撃で自身が率いた部下を一人も犠牲にしないという「撃墜王」の称号以上の偉業を達成したのである。

 四百年前の武蔵の精神は、日本人一人一人の血の中に確かに受け継がれている。だが、組織としてそれを発揮できないところに、今も昔も変わらぬ日本人の検討すべき課題がある。



 武蔵の勝ち方( 「二の原理」)

「敵打ちかくる所、一度(同時)に敵を打つ」


 武蔵の勝ち方( 自分と敵、攻撃と防御、心の裏表という「二の原理」に着目した武蔵)


 相打ち

 見かけは相打ちであるが、一瞬、敵に先んじて勝つ。いわゆる先の先を取る。

 柳生新陰流では、先に敵の太刀をふらせろ、そのためにフェイントをかけて敵の攻撃を誘いだし、敵が斬ってきた時、それに合わせて先に斬れと教える。当時の道場での試合に制限時間はない。戦う二人は延々と、相手の攻撃を誘い合う「フェイントという踊り」を続けていることができる。

 しかし、武蔵はそんなことをしていられない。待てば待つほど味方の数が増える柳生と違い、武蔵の場合、相手の攻撃を待つあいだに敵はどんどん増えてくる。宮本武蔵とは反体制派ではないが、社会と一線を画して生きるアウトローである。地位も権力もないから、いつでもどこでも敵が襲いかかってくる。自分から積極的に前へ出て戦機を勝機に変え、目の前に現れる敵を素早く処理していかねばならない。

 自分から前へ出て太刀を打ち込めば、敵はそれを待ち受けて先の先を取ろうとする。ここでどうやってコンマ一秒早く、自分の太刀を敵の体にあてるか。それが剣の各流派における極意ということになっている。

 だが、この極意というのは、禅で言う悟りと同じで実体はない。悟りを開いたとされる人間の言うことがもっともらしく聞こえるというだけのことで、悟りも極意も実際には存在しない。すべては結果論でしかないのである。


 陰陽の間隙

 敵を攻撃(陽)する瞬間、その人間には陰ができる。防御ががら空きになる。剣法の一派陰流とは、この敵の陰を狙えというのである。上泉伊勢守信綱(一五〇八〜一五八二)が創始した新陰流はここから派生した。

 武蔵が斬りかかると、敵は武蔵の陰めがけて斬りこんでくる。すると、今度は斬りこむ敵に陰が生じる。そこを武蔵の第二刀が攻撃( 陽) する。武蔵は第一の陰を第二の陽でカバーするのである。二本の太刀というハードウェアによって勝つように見えるが、武蔵の場合、太刀の陰陽ではなく、自分と敵の心の陰陽に着目した。

 武蔵の剣法二天一流とは二本の太刀というハードウェアの陰陽ではなく、それをあやつる人間の心の陰陽をコントロールすることで、相打ちに競り勝つ。自分の心の陰陽と敵の心の陰陽。その意味からすれば、二本の太刀などというのは見せかけ( フェイク) でしかない。



 武蔵の真価

「直ぐなる所を本とし、実の心を道として、兵法を広く行う」


 武蔵の真価

 宮本武蔵ほど有名でありながら、その真価が知られていない人間はいない。

 小説やテレビドラマで流布されている宮本武蔵像とは、新約聖書なしに書かれたイエス・キリストの伝記ともいうべきものであり、後世が作り上げた虚像のひとつでしかない。武蔵の創始した二天一流のバイブルである「五輪書」が、そこには正しく反映されていないからである。

 このまま正しく認識されずに名前だけが残れば、「宮本武蔵」とはやがて、日本昔話の桃太郎のような童話の主人公になってしまう。毒にも薬にもならない架空の存在としてその真価が中和され、時間の流れの中に埋もれてしまうだろう。

 最大の問題は、武蔵が若年のころ生きた殺し合いの世界しか、後世の人間が興味を示さない。

 しかも、そこでの武蔵の剣術ばかり見ている、という点にある。

 「五輪書」の冒頭で宣言しているように、武蔵は人間的・情緒的な感性を排し、徹底的に理に即して生きた人間である。人間から見れば冷徹な・とっつきにくい理に徹し、そういう観点から行動した結果「六十数度の殺し合いに一度も負けなかった」という。誰にでも好かれる、人当たりの良い人間的な人間では、殺し合いという究極の世界では到底生き残れなかった、と。

 しかし、殺し合いの世界では理に徹して生きることが必須であっても、武蔵が人生の後半を生きた平和な時代( 社会) では、そのためにかえって勝てないケースが出てくる。武蔵が苦労したのはむしろ、人と剣で戦うことではなく、肩書や金の力で勝負する社会における戦い方( 兵法) であった。

 そして、そういう社会で三十年間のサラリーマン生活をした結果、武蔵が到達したのは、やはり、剣の戦いにおける原理原則がそこでも通用するという結論であった。


殺し合いと官僚的・

 政治的抗争の社会とでは、応用技術のレベルでは異なるが、その根底にある精神は同じなのだ、と。

 そこを見極めたところに、剣豪武蔵、かつ、世渡り上手宮本武蔵の凄味がある。武蔵の真価とは、殺し合いとサラリーマン生活に共通する精神( 内面) 的な原理を見いだし実行し、更には、それを「五輪書」という文書にして残したところにある。

 なにかにつけ武蔵と引き合いに出される柳生宗矩。彼は確かに旗本として、武蔵と同時代、同じ武士の社会で、三百石取りの下級武士である武蔵に、比べようもないくらいの権勢を振るった。 しかし、それからの四百年間、剣といえば宮本武蔵と人口に膾炙し、多くの人々に愛されてきたのはどちらだったのか。これから先の数百年、生き残るのはどちらなのか。そういう視点で彼らを見たとき、ひとの幸せとはどういうことなのか、と考えざるを得ない。



「五輪書」(理論)

「心意二つの心を磨き、観見二つの眼を研ぎ」


 「五輪書」(理論)

 「五輪書」( 一六四五年) とは、二天一流のバイブル( 理論書) である。

 中世の仏教思想では、この世のあらゆる存在は「地水火風」の四大によってつくられているといわれていた。しかし、ここに武蔵は「空」という視点を加えた。この「空」とは、神がこの世に作った空間ということであり、仏教での無や空とは違う。

 生き死にのかかった世界で、自分が絶対生き残ることに執着した武蔵に、諦めの象徴である無や空など不要。「古事記」もしくは「旧約聖書」に書かれた、天地と人間を作りだした神に共鳴しこそすれ、滅びを暗示する無や空など蹴っ飛ばすくらいの気持ちがあったであろう。

 武蔵は「五輪書」において「天」という言葉を頻繁に使うが、これは西洋の「神」と同じである。武蔵の剣法の特徴は、人間の目線だけでなく、神の目の位置で戦いを見るという点にある。そういうずっと高い視線で自分たちの世界を見ることで、人間の肉体と心を分けたり一つにまとめるという、冷静で科学的な現状認識ができた。プロのサッカー選手が、サッカースタジアムの上空から自分たちの試合を見下ろす視点で、ボールを蹴っているのと同じである。

 「仏神を頼まず」は武蔵の名言であるが、武蔵は仏( 釈迦) がかつて存在した人間であることも、そして、目には見えない神が身近に存在していることを信じていた。だから、一乗下り松での吉岡一門との決闘のとき、武蔵は神社で頭を下げた。頼りにはしていないが、その存在は確信していたからである。



 「五輪書」の内容

 地の巻|二天一流の概念

 水の巻|肉体や太刀という武器を含めたハードウェアについて

 火の巻|ハードウェアを運用する、ソフトウェアについて

 風の巻|他流派との比較という体裁による、二天一流というシステム全体について

 空の巻|システムをコントロールするOS(Operating  Sys em 智徳)について

 

  また、「五輪書」は剣の技術書ではない。戦いというもの全般に関する原理原則を説いた理論書であり、思想書である。

 戦いの思想とはどういうことか。人間の生き方でさえ武器にする、ということである。

 頭でっかちの思想書や哲学書にはない、人間として存在するための哲学、生き残るための思想が「五輪書」にはある。机上の空論になりがちな哲学や思想ではなく、生きた哲学・勝つための思想にしようという武蔵の執念こそ、私たちが学ぶべきものではないか。



「二天記」(実践)

「理を心にかけて、兵法の道鍛練すべき也」


 「二天記」(実践)

 「五輪書」が武蔵兵法の理論書であれば、「二天記」( 一七七六年) は実践書である。

 「五輪書」で戦いの理論を説いた武蔵は、その死から百年後、今度はその理論により、いかに自分が戦ったのかを具体的な事例で紹介( 証明) した。「五輪書」とは、武蔵の戦い方における骨格であり、「二天記」とはその血肉の部分であるといえよう。

 「二天記」の執筆者は武蔵の弟子の子孫ということになっているが、武蔵が生前口述した内容に、その死後の事実が若干書き加えられ、時間を置いてから公開されたにすぎない。他人が書いた武蔵の評伝という形をとった、武蔵自筆の自伝である。書かれた内容の真偽よりも、武蔵がこの「自伝小説」を通じて何を言いたかったのか、という真意をくみとることが大切である。

 「五輪書」に示された理論が現実の武蔵の戦いでどう生かされたか。あるいは「二天記」に書かれた武蔵の体験から「五輪書」における兵法は導き出されたという証明でもある。

 「二天記」と「五輪書」とは帰納と演繹の関係にあり、まるで武蔵のあやつる二刀のように、相互補完の役割を果たしている。

 武蔵は自ら定義した「場と拍子」という兵法によって、百年の時間差攻撃を仕掛けたのである。

 

「二天記」の内容

 武蔵の出自、育ち

 十三歳での決闘

 京都での死闘の数々

 日蓮宗の僧との交流

 その他の決闘の様子

 巌流島での佐々木小次郎との戦いの発端から終了までの経過

 武蔵の養子となった伊織少年との出会い

 島原の乱への参加

 細川忠利公の元へ奉公するまでの経過

 肥後(熊本)藩時代のエピソードの数々

 柳生新陰流の達人との戦い

 武蔵臨終までの経過と、葬儀の時の天雷



 

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