第9話 願我作仏 「私も仏にならんと願い」
「何やってるんですか師匠。起きてくださいよー」
悔乃はそう言いながら味覚以外の五感を分捕られた渇虜を揺さぶる。
その振動も渇虜に伝わることはないが、渇虜がすでに発動していた、発動し続けていた心技体の分捕りのうちの技が悔乃に作用する。
悔乃の技が渇虜に移動する。食欲だけで動ける彼女の能力が渇虜に備わる。
渇虜は己れを取り戻す。
心技体の分捕りのうち体を克服することなく、体から受けた被害を回復した。
「あ、起きた起きた」
悔乃のあっさりとした笑顔にそう時間は経っていないらしいことを渇虜は知覚する。
「見つけた」
そして倉居悔乃は犬原と目を合わせた。
その表情は獲物を見つけた恍惚の笑顔だった。
「あなたは本当に反吐が出るほどおいしそう」
犬原はその言葉を聞いていない。
「何で負けてるんだ?あの人」
「食い意地の差だろ」
倉居梗乃のことなどろくに知らないだろう少年は戸惑いともに梗乃が足止めしていたはずの倉居悔乃を見ながらぼやいた。
そんな哀れな少年に渇虜は的確な答えを返す。
「妾の子の意地で食い意地が張れない。おなかをすかせているなんて可哀想なそぶりは出来ない。梗乃ちゃんはそういう子だ。うん可哀想な子だよ、あの子もなかなか。矜持が高すぎる。木の根を食って泥水を啜る悔乃に勝てるわけがないんだよ」
「お褒めいただき光栄ですよー」
「褒めたつもりはないよ。さてはて、お前は、これをどう捉えるのかな?」
倉居悔乃という名の悪食を指し示し、渇虜と呼ばれる師匠は嘲りの混じった笑みを浮かべて犬原という名ばかりの少年にそう尋ねた。
そこから少し離れた場所、わざわざこのために設けた茶屋の傍らで倉居梗乃は美しい顔を泥の中に沈めていた。
思い出すのは忌々しい妹。今日も心技体の分捕りのうち心を使って尚勝てなかった悪食の少女。
「負けちゃったねえ、梗乃ちゃん」
惨めな梗乃に上から声が降り注ぐ。
悔乃があっという間に遠ざかったのを見計らっての登場。ともすれば臆病すぎて馬鹿にしたくなるその振る舞いは、しかし泥に伏した梗乃が何を言おうと打ち砕けるものではなかった。
「毒だけじゃあの子は殺せない。止まらない。美味しい美味しいと皿ごと喰らう。だから心だ。美味しいと思う心をそもそも食欲が湧き出る心を分捕れば君の毒なら勝ち目は十分にあっただろうに、何をかっこつけてもったいぶってがっつかないで負けてるんだい、梗乃ちゃん」
「……返すわよ心技体の心」
「ええ……本当に粘ったりとかしないのかい。ど根性だけが君に残された挽回の機会だというのに」
「そんなものは美しくない」
梗乃は堂々とそう答えた。
「野心も食欲も生まれも毒でも勝てない。それでも美しさだけは負けない」
「そういう意地はあるんだねえ……その心も分捕ってみようか?」
梗乃の顔に嫌悪が浮かぶが、恐怖はなかった。
これは冗談だ。たちの悪い冗談だ。この兄はそういう男だった。
「渇虜は自分を前座とほざいたが、それなら俺は真打ち登場と名乗りを上げよう。さあて犬原はどこまで食らいつけるかな?」
彼は倉居不悔は楽しそうだった。
「食らいつける……そんな尺度ではかってる時点であっちの土俵じゃない」
「ははは、ご明察。しかしそれの何が悪いのかい?」
不悔は笑顔で梗乃を見下しながら続けた。
「どんな手を使おうとどんな窮地を味わおうと負けなきゃ勝ちだよ梗乃ちゃん」
「初めまして、すいません、この師匠を離していただきたく存じます」
「初めまして、悔乃さん。お噂はかねがね伺っています、申し訳ありませんがそうするわけにはいきません」
「そうですか、それは残念……穏当に済ませたかったのですけどねえ」
いうほど残念そうでもなく悔乃は続けた。
「あなたにはどことなく親近感がありますし」
「親近感?君が僕に?それはそれこそおぞましくて反吐が出るね」
「もったいないですねえ。口から何かを出してしまうなんて。全部平らげるのが礼儀ですよ」
「悪食に礼儀を説かれるのも気に食わないな」
「あらあら」
悔乃は心底呆れた様子で口に手を当てた。
全てを喰らう口にわざわざ手を当ててまで、犬原に呆れて見せた。
「好き嫌いはいけません。この世で最もいけないものですよ」
もっともらしくそう言って倉居悔乃は手を合わせた。仏に捧げる合掌のようだと渇虜はいつものように思った。
「それでは、いただきます」
「くたばりな」
効いていない。利いていない。聞いていない。
倉居悔乃に心技体の分捕りのうち体が効かないなんて聞かなかった。
いや、発動はしている。分捕るところまではいっている。それなのに、倉居悔乃が止まらない。
「味覚だって分捕っているのに……!」
「反省を即座に生かせるのは偉い偉い」
二人から距離を取っていた渇虜はぱちぱちと気のない拍手を犬原に送る。
「お前にとって残念ながら悔乃ちゃんはね、別に美味しくなくたっていいんだよ。食えれば何でも良いの。それでこその悪食さ。というか、うん、味覚を奪っちゃったらさあ、食べるものの味を考える必要すらなくなっちゃたらさあ……」
倉居悔乃は牙を剥く。さっきまで美味しそうだった食べ物の味がしなくなったのは残念だったけれど、それでも彼女は止まらない。
「それってもうただの飽くなき食欲の塊だよ。俺たちはもう食われるしかない。悔い喰らいの倉居悔乃とはこの子のことだ。この子はもうより近くにあるものを喰うまでさ。ちなみにこの状況だとお前が食い尽くされたら俺も喰われる」
だとしたら、犬原のやるべきことは一つだ。やれることはもう一つだ。渇虜に近づく。
「俺の代わりに喰われろ、渇虜」
「ありがとう。この距離はいい距離だ。心技体の分捕りのうち技」
渇虜は犬原に分捕りを発動する。
心技体の分捕りのうち体が心技体の分捕りのうち技に分捕られた。
犬原は無力化された。
「ちくしょう……!」
「続けて心技体の分捕りのうち体。返してもらうね。君が分捕ったものを悔乃ちゃんに」
「諦めない……」
犬原は呟いた自分に向かって呟いた。そして走り出した。渇虜が分捕りの体で悔乃の失ったものを回復している隙に、犬原は遙か彼方へ逃げ出した。
「見えます聞こえます触れます嗅げます味わえます!やったー師匠ありがとうございまーす!」
「はいはい。心技体の分捕りのうち体の分捕り回収っと……でも本体を逃がしちゃったよ、あーあ」
「まったくです。お腹がすきましたよ」
悔乃は腹を撫でる。
そろそろ空腹も我慢の限界だった。
もう雨粒でも腹がふくれるかを試す域に来ていた。
「雨はまだ止みませんねえ」
「そろそろ止みますよ、俺と君が再会できたんですから」
「それは自意識が過剰というものですよ。私たちに合わせて天気が変わるだなんてそんなことありえないじゃないですか」
「そうかねえ。お前が雨雲全部食ったら止むんじゃないかねえ」
「雲って美味しいんですかねえ」
「それはまだ食ったことないなあ」
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