第211話 リディアの想い


「ふぅ……」


 レイの試合を観戦した後、リディアはカーラと共に自宅に戻ってきていた。現在は夕食をカーラと一緒に取って、自室でくつろいでいる最中だった。


 くつろぐといっても、彼女は自分の最近執筆した論文を眺めていた。


 元々、研究者になるつもりはなかった。だが、リディアがこうして研究者としての道を歩もうと思ったのはレイのおかげだった。


 レイは、リディアに多くのものを与えてもらったと思っている。


 いつもレイは彼女のことを尊敬の念を込めて、師匠と呼んでいる。その一方で、リディアもレイに感謝している。彼女にとって、レイとの出会いは運命だったと言わざるを得ない。


 本当に、出会うことができてよかったと。


 そう思うほどには、リディアはレイのことを愛している。


「なぁ、レイ。お前は……」


 と、ふと窓越しに空を見上げる。


 月明かりが室内を照らす。その光の下で、彼女は軽くワインを呷る。いつもはそれほど深酒はしないのだが、今日はいつもよりも多くアルコールを取っている。


 それはやはり、嬉しいからだ。


 レイが活躍していることも、もちろん嬉しい。彼をストーカーするほどに愛しているので、こうして表舞台での活躍を見るだけでも頬が緩むのを止められない。


 その一方で、やはり一番嬉しいのは……レイが幸せそうに笑っていることだった。


 レイとの出会いは、今でもリディアは昨日のことのように思い出せる。作戦の最中に、偶然出会った子ども。それがレイだった。


 彼が自然に笑う事ができるようになるまで、それこそ数年の時間を要した。


「思えば、もうそんなに時間が経つのか」


 レイと出会って、もう十年近く経つ。ふと過去を思い出して、リディアはそんなことを考える。


 彼女としては、ずっとレイと一緒にいたいという思いがあった。だが、彼を学院に入学するように勧めたのは最後の親心だった。


 レイはこれ以上、自分といてはいけない。


 リディアは極東戦役を経て、そう考えるようになった。ずっと一緒に暮らしてきた。しかし、これ以上は自分のためにも、レイのためにもならないと。


 それはやはり、距離感が近くなり過ぎたという一点に尽きる。


 レイは良くも悪くも大人──軍人たち──の中で育ってきた。それは友人というよりは、戦友。共に戦場を戦ってきた仲間という意味合いが強いだろう。


 同じ歳の友人など、いるはずがなかった。


 リディアは極東戦役が終わって、思ったのだ。レイに必要なのは、もう導く大人ではない。


 必要なのは共に歩みを進んでいく友人であると──そう思ったのだ。


 本当ならば、リディアがその立場にありたいと思っている。けれど、やはり年齢差というものは覆しようがない。それにレイは、リディアのことを対等な存在と見ることはないだろう。


 だからこそ、別れることにしたのだ。


 といってもやはりレイとの別れは辛いので、たびたびストーカーはしているのだが……。


 またリディアには別の目的もあった。それは、リディアだけの意志ではない。魔術協会の上層部。その中でも、限られた魔術師だけ知る事実。


 レイが学院に入学することになったのは、別の思惑もあった。もちろん、リディアもそれは了承している。自分の愛情だけで、レイを縛ることはできないと分かっているからだ。



「失礼します」


 室内に凛とした声が響く。


「カーラか。どうした?」


 元々は必ずノックをしていたのだが、リディアがしなくてもいいというので、今は声をかけるだけで室内に入るようにしている。


「お夜食になります」

「あぁ。そういえば、頼んでいたか」


 ゆっくりと歩みを進めると、カーラは夜食をテーブルに置く。


 最近はいいじゃがいもが手に入ったので、彼女はポテトサラダを作った。


 彼女は料理に対して並々ならぬこだわりがあり、こうしてリディアには自慢の料理を振るまっている。


「ポテトサラダか」

「はい。とても良いじゃがいもが手に入ったので」

「おぉ、それは美味そうだな」

「えぇ。自信作です」


 いつもは無表情で、淡々としているカーラだが、こうしてリディアと二人で過ごす時には優しい笑顔を浮かべる。


 今日は酒に合わせる料理ということで、ポテトサラダはちょうどいいものだった。


「いただこう」

「はい」


 フォークで温かいポテトサラダを掬うと、ゆっくりと口に運ぶ。するとリディアは微かに笑みを浮かべるのだった。


「美味い。流石はカーラだな」

「恐縮です」


 その場で頭を下げて、出ていこうとするカーラだがリディアはそんな彼女に声をかける。


「一杯どうだ?」


 と、ワインボトルをコンコンと軽く叩く。


「では、少しだけ」


 そして、新しいコップをもう一つ持ってくるとソファーに座ってリディアと向かい合ってワインを呷る。


「美味しいですね」

「だろ? 久しぶりにいいものを開けた」

「……貰い物ですか? 私は知りませんが」

「あぁ。キャロルにもらってな」

「そうですか」


 カーラは基本的には、この家にあるものはすべて把握している。そんな彼女が知らないということは、貰い物だろうと考えたのだ。その予想は的を射ていた。


「最近はレイの活躍が嬉しくてな。酒も美味いもんだ」

「そうですね。最近は、とても活躍していますね」

「ふふ。そうだな。レイは本当に大きくなった」


 感慨深いようで、リディアは感情を込めてそう言葉にした。カーラにはレイのことはいつも語っているだが、今日ばかりは真面目なトーンで話をする。


「大会はうまくいっているようですね」

「そうだな。レイも十分に活躍しているみたいで、嬉しいかぎりだ」

「……魔術領域暴走オーバーヒートは大丈夫なのですか?」

「誓約の件は覚えているな?」

「はい」

「あの誓約を解除しない限り、レイの暴走はこちらで止める事ができる。まぁ、その代わり私の治療は進まないが……仕方のないことだろう」


 誓約を交わしたのは、極東戦役が終了した後のことだ。あの時は、レイが魔術領域暴走オーバーヒートで毎日苦しんでいた。その時、リディアが取った選択肢は……自分の体を犠牲にすることだった。


 レイはリディアの足が動かないのは、自分のせいだと思っている。一方でリディアは、自分の未熟さのせいだと思っている。


 最終局面での判断。あそこは、リディアが判断を誤ってしまった最初で最後の瞬間でもあった。


 そしてレイを守るために、自分を犠牲にして……その結果、レイは覚醒することになった。


 あの時のことをリディアはよく覚えているが、それこそ魔術師の到達点の垣間見た瞬間でもあった。


 それを目撃したこともあって、リディアはレイのために自身の身を捧げようと思ったのだ。だがそれももう……時間の問題だろうと思っている。


 レイの症状は限りなく良くなってきている。それはリディアも感じ取っていることだった。


 もう少し時間が経過すれば、誓約は解除できるだろう。


 そうすれば、彼女は自分の治療に専念できる。そうすれば、この両脚で立つこともできるようにはなるだろう。もう、カーラに世話になる必要もなくなる。


 それを悟ったのか、カーラは少しだけ寂しそうに声を紡いだ。


「足が治れば、私は必要ありませんか?」


 唐突に告げるその言葉に、リディアは少しだけ唖然としてしまう。


「そう、だな。足が元に戻れば、もう誰かの手は必要ないだろう。カーラも、好きなことをしてもいい」

「もし許してくれるのであれば、私はまだ側にいてはだめですか?」


 それはリディアにとって意外だった。カーラとは仲がいいと思っているが、いつまでもこの関係ではいられない。足が元に戻れば、分かれると思っていたからだ。


「いいのか? 私として、非常に助かるが」

「はい。そもそも、リディア様はご自分のことはできませんよね」

「う……それは……」


 苦虫を噛み潰したような顔になるリディアだが、それは間違いなかった。魔術に関しては非凡だが、彼女はそれ以外は並以下だろう。


 レイには、将来のためだと言って色々と家事などを押し付けていたのだが、実際は自分でできないのでやってもらっていたという方が正しいだろう。


「お料理も、お洗濯も、そのほかの家事も。私が来るまで、悲惨だったのはついこの前のことのように思い出せます」

「……まぁ、人には得て不得手があってだな」

「はい。だから、私がお側にいます」


 ただ紹介で、メイドとしてやってきたカーラ。初めて出会った時は、特に仲がいいわけでもなかった。


 だが二人は徐々に距離を詰めていき、今となっては確かな信頼関係を築いている。


 それに、カーラとしてもリディアを放っておくことはできなかった。


 彼女は魔術に関して天才的だろう。その頭脳も明晰だ。ただ、家事全般となると途端に平均以下になる。そんな彼女をこのまま放っておくのも、心苦しかった。それに、カーラもまた今の生活に満足していた。


 レイに対するストーカーは、そろそろやめて欲しいと思っているのだが……。


「ふぅ……さて、私はそろそろ寝る。付き合ってくれて、感謝する」

「いえ。こちらこそ、有意義な時間でした。それでは、おやすみなさい」

「あぁ。おやすみ」


 そして、カーラが室内から出ていくとリディアは背もたれにグッと体重を預ける。


 その後、リディアはしばらく論文の執筆を続けると、就寝する。


 その日は珍しく、過去のレイとの日々を夢にみるのだった。

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