雨夜に月を見たのなら

御調

メトロ

 切符の幽霊を知っているだろうか。切符を持った幽霊ではなくて、切符の幽霊。電車の幽霊に乗るために必要なそれは意外にありふれていて、いくつかの事に気を付ければ簡単に手に入る。たまに偽物がいるから日付を確かめるのを忘れちゃいけない。過ぎた日付なら既に死んだ電車の切符、そうでないのはこれから死ぬ電車の切符だ。


 切符の幽霊がそうであるように、電車の幽霊も見た目はさほど普通のものと変わらない。定刻にホームに滑り込んできて、定刻に発車する。音を立てず滑るように走るのは電車らしくはないけれど、満員電車の喧騒と無縁なのはむしろ良い点だ。乗客の中には通勤に利用したくなる人もいるようで、現に、飲み会帰りだろうか、酒の匂いを漂わせる隣の男性は定期券を握っている。正直おすすめはしないが、気持ちはわかる。この時刻まで飲める体力があれば、まあしばらく問題はないだろう。


 反対隣の女性はどうやら乗車は初めてのようで、不安と期待の入り交じったような目で辺りをキョロキョロと見回している。あれはあまりよくない。そういう約束事があるわけではないけれど、目立ちすぎるのは彼女のためにならない。少し迷ったが、教えてあげることにした。お嬢さん、ここでは普通の電車でそうするように振る舞いなさい。最初こそ驚いた顔をした彼女だったが、何か納得がいったのか、丁寧に一礼してくれた。きっと賢い人なのだろう。この先も長く生きてほしい。


 ふと気付くともう私の降りる駅だ。この電車にはアナウンスというものが無いので降りるタイミングには気を付けなくてはならないが、不思議と降りる頃になると気づくので不便はない。乗り過ごしたらどうなるのかは知らない方がいい気がして、まだ誰にも訊けていない。それで良いのだろう。


 電車を降りると駅の喧騒が戻ってきた。そのうるささに溜め息をつくが、もしかすると安堵の溜め息かもしれない。列車はいつものようにスルスルとホームを出た頃だろう。この時期にしては涼しい風を感じつつ、今日も帰ろう。

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