第26話 お市、不思議に跳ぶ
あの商人風の怖い男の抜け目なさ、網の張り方は尋常では無い。
今自分達にある利は、あの男が考えるよりも早く、其の姿を捉えることが出来る事。
あの怖い男に、ぴったりと張り付いている墨助達の声が近くで聴こえて来ないか、味方になってくれそうな鳥獣が傍に居ないか、風が乗せて来る遠くの音にすら聞き逃さないように耳を澄ませる。
風が吹き葉擦れの音に寄せて、アオジや尾長などの小鳥の声が響いている。
もっと耳を済ませよう。もっと耳を――。
不意に何かに引っ張られる眩暈の様な感じがして、お市は眼を開くと、辺りの風景が一変した。
いつもなら、足の長さくらいの蚊帳吊草が目の前に巨大な壁のようにそそり立ち、百合の花が自分の背より一回りも二回りも大きく伸びて咲いている。
お市はひょいと後ろ足で立つと、自分の姿を見回した。
褐色の短い体毛に白い腹毛。毛におおわれた前足に生えた黒い爪。
紛う事無き野ウサギである。
少し離れた所で、藤次郎が樹に寄り掛かって目を閉じている自分を見つめている。
何だかとても奇妙な気持ちになったのだが、今はそれどころではない。
お市は後ろ足で立ったまま、眼の前に拡がる巨大な草叢を見渡しながら、周りの鳥の声を、長くて大きな耳を立ててぴくぴくしながら聴いていたが、これと言って収穫が無い。
ならば別の処へ往って聴いてみようと、力強い後ろ足で地を蹴った。
灌木の間を走り抜け、岩を次々と跳び避けながら、軽々と走り抜ける。
草叢を慣れた足取りで駆け抜けていると、
カアカアカア。
墨助達山鴉の声と、微かではあるのだが、アオの声がする。
声は遠すぎて内容の細かい中身まではは分からないが、間違いなく危険を伝える声だ。
しかも生命の危難に及ぶ程、悪い何かが肉薄していると警告をしているのだ。
上半身をぴんと起こし、長い耳を動かしてアオの声と鴉達の鳴き声を探す。
声が伝わってくる方角に迷いの無い耳に、お市は驚きつつ、素早い動きで跳びはねながら、真っ直ぐにアオの声の方角に向った。
辰じい。アオ。……清七さん。
お市は一心不乱に走り抜け、繫みを飛び出した丁度その時である。
眼前に三匹の狼が現れた。腹を空かしている様子ではないが、お市を見るその眼は獲物を見る眼であった。
二頭が左右に散って逃げ道を塞ぎ、一頭がお市の行く手を完全に押さえる形となった。
お市は怯えること無く、逆に腹を立てていた。急がなければならない時に……。
(ちょいと。アタシは急いでいるの。邪魔する暇があるなら手伝ってよっ)
お市が耳をピンと立ててキーキー言い放つ。
狼達の中でも一際大きくて毛並のいい灰色の狼は、知性を感じさせる瞳で、興味深げに、じいっとお市を見下ろしている。
お市は焦っていた。
このままにして置くと、良くないことが起きてしまう。早く何とかしなければ。
辰じいの元へ。
アオの元へ。
清七さんの元へ。
(御願いっ、急いでいるの)
ピンと耳を立て、後ろ足で立ち上がるその体から、思いが強く湧き上がり、それに合わせるかのように一陣の風が吹き抜けた。
ホンの束の間、お市兎と灰色の狼は睨み合ったが、灰色の狼の気配が緩む。
わう。と灰色の狼が応える様に一声吼えると、頭を下げて低い姿勢を取った。
背中に乗れ、と言っているようだ。
(有難う。助かる)
お市はひょいひょいと、灰色の狼の背中へ上った。
灰色の狼は、お市兎が上がるのを待って立ち上がると、二声何かの指示を出した。
ガサゴソと彼方の茂みから、此方の灌木の陰から、狼達が次々に姿を現し、三頭どころでは無い結構な群れとなっていった。
お市は鼻をヒクヒクさせて、その様を見て驚いていた。
(貴方はこの大きな群れの頭なのね。灰色の王様、灰王。貴方をそう呼ぶことにする)
背中に兎を乗せた毛並の良い灰色の狼、灰王は一声短く満足気に声を返した。
意外に満更でもないようだ。
統制のとれた狼達が風の様に走り抜けて往く。
軽快な脚運びの狼の背中で、お市は遠くで嘶くアオの声を耳にした。
激しく怒って争っている時の声だ。何かと戦いながら怒っている。
早く逃げろ。命が失せるぞと嘶いている。
しかも響く音の中身が、刀とか槍とかの立てる音が響いて、音の重なり具合からして、何人かで徒党を組んで襲っているのが手に取るように分かる。
彼奴だ。あの怖い商人風の男だ。
(早く助けに向かわなければ――)
お市の想いに応えるかのように灰王が疾風の如く地を駆け抜ける。
(我が儘ついでにもう一つ御願いが有るの。皆の強い牙と爪を、狩りを行うその群れの強さを、アタシに貸して下さい)
狼達は声出すことなく、動きでお市に答えた。統制のとれた狼達は乱れることなく左右に分かれて隊列を為して駆けていた。
有難う。必ず御礼はする。
お市はそう思いながら、今一つ不安があった。
狼達に頼んで動いてもらうことは出来るのだが、戦い方などよく分からない。
これだけの手勢なのに、藤次郎の様に軍略が扱えたら。
どうすればいいのだろう。藤次郎が居てくれたら……。
藤次郎の話を聴きたい。
お市が強くそう思っていると、
(姉さん。どうした。大丈夫なのか)
何処から響いてくるのか見当も着かないが、間違え様も無い藤次郎の声がする。
お市は百万の味方を得たようなそんな気分になっていた。
藤次郎は樹の根っ子に腰かけて、急に意識を失うように、眠ってしまったお市を見守っていた。
恐らく鳥か獣に魂移りを行ったのだろうと思いながら、しばらく様子を見ることにしたのだ。
とそこへ、お市の声が聴こえた。
(どうすればいいのだろう。藤次郎が居てくれたら……)
改めてまじまじと、姉の顔を覗き込んでみたのだが、口は動いていない。
辺りを見回してみても、矢張り何もいるわけは無く、風に揺られた葉擦れの音だけが騒めいていた。
危険がある時にはいち早く察知し、お市の身の回りを離れることの無い黒丸の姿もいつの間にか視えなくなっている。
ああだこうだと悩む暇など無い事を、藤次郎は瞬時に理解した。
大きく息を吸うと、これもお市の為せる不思議の一つだろうと無理矢理得心し、目を瞑り身動き一つしないお市へ返答をした。
「姉さん。どうした。大丈夫なのか」
(藤次郎っ。聞こえる。お願い教えてっ。奴らが居て、辰じいが危ないっ)
「先ずは、敵が何人いてどのような状況なのかを教えてよ。其処が肝だ。慌ててはいけない。相手は山人だ。狩りには長けている。高みからの物見と弓矢に鉄砲が定石だから、配された敵を探り出してくれ」
藤次郎の何処からか響いてくる声に、お市は不思議にも思いもせず、指示された通りに動くよう、灰王達に頼み込んだ。
狼達は面白げに話を聴いてくれていた。此処まで統制の取れた群れも珍しい。
(いいかい。出来るだけ静かに。静かなること林の如く、敵の様子を探るんだ)
藤次郎の不思議な声に深く頷くと、灰王の背の上で、耳をぴょこぴょこさせていた。
(皆静かに。敵に悟られたくないの)
狼達は一様に動きをぴたりと止め、唸り声一つたてなかった。
灰王は毛を膨らませ、草叢の中をかさりと音も立てず、悠然と木立の間へ進んだ。
木立は少し高い所にあり、状況を一望出来るところであった。
其処でお市は息をのんだ。
辰吉が、刀や槍を構えた大勢の山人に囲まれて、今当に死地を迎えようとしていたのである。
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