第21話 溢れる涙の裏返し

 お市は黒丸を藤次郎に預け、母のお福と辰吉の前で正座していた。

 お市の顔もお福の顔も真剣そのもので、互いに見合ったまま、まるで真剣勝負が行われているかのような、張り詰めた雰囲気がその場を覆っていた。

 藤次郎はやや離れた所で、黒丸を抱えたまま只々見守るしかない、そんな状態である。

 

 事の起こりは、昨晩、お市と藤次郎が二人そろって、馬の湯治場で、辰吉にこってりと絞られ、お灸を据えられた時である。


「……ってことだ。つまり、剣呑な相手に我を忘れて突っかかり、生命を張るような真似を、お嬢と藤次郎はやっちまった。しかも、だ。お嬢の不思議をその頭目らしき野郎に見せつけてもいる。迂闊も迂闊、大迂闊だよ。野郎は間違いなく狙い処を変えて来る。証左とかそんなもんじゃ済まねえようなものを見せちまったからな」


「辰じい、堪忍」


 お市は抱えていた黒丸をそっと降ろすと、そのまま両手をついて頭を下げた。


「お嬢。先ずは頭を上げて話をしよう。それに、下げる頭の相手も間違えているさ」


 辰吉はさっとお市に寄り添うと、お市を介添えし近くの岩に腰を下ろさせて、黒丸を優しく抱きかかえた。


「藤次郎にもしこたま諫めておいたんだが、お前さんたちのやることには、若女将にお豊姐さんに宿の皆、清七さんに、おつかわし屋の大女将に二代目に伊平に六、お花や他の連中の明日が掛かっているってえことを、金輪際忘れちゃあなんねエ。いいか?」


 はい。と頷くお市の顔に揺れる火影が陰を深く刻み込んでいる。

 深い思いを掲げているその顔にいつものような溌剌さはない。


「くーぅーん、くうーん」


 お市を心配して細く小さく、黒丸が遠慮がちに鳴き声を上げ、辰吉は優しくその躰を撫で宥めていた。


「済まねえな黒。大怪我してるっていうのにな。もう少しだけ勘弁してくれ」


 そう言うと空に輝く半分の月を眺めながら、


「お月様が半分だと、辺りは暗いな。お前さんたちは皆の事をよくよく考えすぎなんだよ。今のお月様と一緒で、自分たちの事を考えねえ半分の想いから、身勝手に他の人の事だけ考えたざまが今だよ。お前さんたちの事を想ってくれているお人達の気持ちを想えねエし、空回りもして、半分足りず暗くなるんだ。だから、おかしなことになる。これからは、周りを見ろ。お前さんたちを想う、お前さんたちが想う、お人達の顔を思い出すんだ。それから事を起こせ。いいな、必ずだ」


 と、辰吉にしては珍しく、寂寥感溢れる目と怒気のこもった声色で、お市と藤次郎を諭した。


「今回の事は若女将には話さずに内緒にしておくから――」


「ううん、あたしからちゃんと、おっ母さんに明日伝える。黒丸はあたしを守ろうとして毒をかけられた。あたしのせいで、あたしがしっかりしていないから、こんな目に合わせてしまったもの」


 辰吉の膝の上で、黒丸がわんっわんっと吠えたてた。

 それは違うとでも言いたげな吠えかただ。

 お市は優しく黒丸を見やって、言葉を続けた。


「あの男は物凄く怖い。思い出すと今でも震えそうになる。それでも、安兵衛親分さんやお豊さん達にした惨いことは許せないし、その惨いことをした奴等が、うちの皆をその毒牙にかけようっていうのに、障りを始めた張本人のあたしが、隠れるわけにはいかない」


 お市の瞳にじんわりと涙が浮かんでいる。

 泣かないように必死に堪えて居るのは、藤次郎も辰吉もとっくに分かっていた。


「そんな情けのないことをしたら、おじいも怒るし、山神様だってきっと愛想をつかすし、あたしがあたしを許せなくなると思うの。だから、辰じい、お願いします。あたしの我儘を聴いて下さい」


 そうやって何度も頭を下げるお市に、辰吉が折れて場を設け今に至るのであった。

 場所は、町の衆が寄合や宴会で使う、そこそこの拵えの寄合長屋であった。


「だから、おっ母さん。無茶をしないとは、今回ばかりはあたし言えない。あたしにしか出来ない事で、辰じいやお豊さんや清七さんたちの手助けをしたいの。御願いします。堪忍してください。馬鹿な娘を堪忍してください」


 手をついて頭を下げるお市の瞳からは、ぽろぽろと涙が零れていた。

 母に心配を掛けるだけ掛けて、また心配をさせてしまう。

 自分の情けなさに堪え切れず、涙を零していた。


「市、お顔を御上げなさい」


 優しくお福が声を掛ける。

 お市を見つめるその眼差しに、辰吉はもらい泣きしそうになるのをぐっと堪えていた。


「私は、貴女や藤次郎に禍が降りかかるなら、代わりに私へとずっと神仏に願っていました。勿論今も変わりません。そして、それは、貴女も藤次郎も同じ思いだという事を今更ながら思い知りました。大変嬉しく思います」


「おっ母さん、……あたし……あたし」


「貴女が泣くときはいつも他人様の想いを引き受けた時ばかり。今、貴女を泣かしているのはこの私ですね。お市、私こそ御免なさいね。もう分かっているようだから、貴女を想う沢山の人達の気持ちも汲み取って何かすると約束できるかしら。藤次郎に辰吉さんに、貴方を想う父様や御婆様に、お花やおつかわし屋の皆に、そしてこの私にも、きちんと約束できますって言えますか?」


「うん。いえっ、はいっ。おじいにかけて、必ず……。御免なさい。本当に御免なさい。あたしが我儘だから、本当にごめんなさい」


 泣き崩れるお市を抱きしめるお福の綺麗な瞳からも、一筋二筋と涙が零れ、やがて止めどもなく流れ始める。


 藤次郎は貰い泣きをしながらも、涙と愛おしさに溢れている覚悟もあるのかとぼんやりと思っていた。

 辰吉は静かに優しく、これからの姉弟の行き先を思い描きつつ、眺めていた。

 



 






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