第16話 凶手の涙と猫の山吹

「お客さん。お隣で刃傷沙汰があって--」


 袖を引いて捕まえたお客の商人に言われて、騒ぎの様子を見に行った小春が、部屋に戻って見ると、もぬけの殻でその姿が消えてしまっていた。

 どうしたんだろうと辺りを軽く窺っていると、


 カアカアカア。


 薄暗い時刻だというのに鴉が数羽、裏手辺りでうるさく騒いでいる声が耳に入った。

 人死に騒いでいるのかもしれない。

 小春は少しばかり気味悪く思いながらも、商人の居た場所に目をやった。

 箱膳の上には、お代の豆板銀が置いてある。

 それを見て、小春はホッと胸を撫で下ろした。

 とりっぱぐれが在れば、女将さんからそれは厳しい折檻を受けるので、お代が無いと困るのだ。

 沼田藩所縁の武家の子女であるからと、湯守り様の口利きで、焼け出されて身寄りも無い自分を、春を売らずの文字通りのただの客引きの酌女としておいて貰えているのだ。贅沢は言えない。

 あの羽振りの良さそうな商人は、怖くなって逃げ出したんだろうか。

 もしそうなので在れば、自分の大きな見立て違いで、清七に迷惑をかけたことに成る。

 小春は、すっかりと気恥ずかしくなって、気落ちしてしまった。


 (清七さん、大丈夫かしら)


 隣の宿で起きた刃傷沙汰が自分の宿では無かったことに少しばかり安心感を感じた自分に胸を煩わしつつ、清七の無事を祈る小春であった。



 表ではやくざ者の凶状持ちがあちこちにあざを創って、縄を打たれて番屋へとしょっ引かれていた。

 戸板が二枚並べられ、それぞれに、むしろを掛けられた亡骸と、虫の息の早坂幸四郎が並べて置かれていた。其の虫の息の幸四郎をあれやこれやと老齢の総髪の医者がいじくりまわしている。


「先生。どうでしょう」


 清七が馴染みの老医者に声をかけた。医者は戸板に載せられた牢人者の脈をとっていたのだが、


「こりゃあ、無理じゃ。肋骨が砕けて肺の腑に刺さっておる。喀血もして脈も弱い。今宵一晩も、もたんじゃろ」


 と首を横に振った。


「左様ですか。有難うございました」


 気が咎めるのか、思いの外暗い顔の清七である。老医者は肩をぽんと叩いた。


「案ずるな。お前さんはよくやった。それとな慰めになるかは分からぬが、此奴の剣は随分と使われておる。手を掛けたのは一人二人では足りぬであろうな。幾人手に掛かったは知らんが、これで浮かばれるやも知れんて」


 ふぉっふぉっと笑う老医者の笑い声を早坂幸四郎は戸板の上で、途切れ途切れではあるが聴いていた。


(好き勝手ほざきおって)


 直ぐさま、斬り捨ててやろうと思ったのだが、体が全く動かない。

 指先がぴくりとしか動かないのだ。

 胸と腹が燃える様に熱いのだが、痛みは無い。何処も痛くは無いし、息も苦しくない。

 幸四郎は己の体に死が訪れているのを悟った。


(無念……でも無いな。父上母上の仇はとうに討ち、後は流離いながら生きるだけの今生。もう飽いた……わ。我が人生は……何であったのであろ……。嗚呼、父上、不肖の……倅で申し訳も無く……母上、あの団子……美味しゅうござりました)


 幸四郎は小さく息を吐くと、そっと瞼を閉じた。閉じた瞼から流れ出た一筋の涙に気付く者は誰も居らず、そのままガタガタと運ばれていった。



 一方、お市達が後にしたおつかわし屋と旅籠大椛は、寂しさなぞ感じる暇もなく皆忙しくしていた。

 要の一つである大番頭の辰吉と切り盛り上手の若女将が居らず、お市もいないので

牛馬も手慣れたものにしか扱えない普通の馬借稼業になって、尚且つ万が一の押込みに備えた構えを取り続けており、頑張り屋のお花すら、


「お市ちゃん。早く帰ってきて頂戴」


 と泣きごとを言いたくなる程であった。

 大岩の二代目と称される米之助すら中々腰を落ち着けられないでいる。

 そんな中でも、慌てず静かに物事を動かしていく照は流石であった。

 今も僅かな合間を縫って帳簿を書き終え、日課の庭掃除を始めようと、熊手を手にしていた所である。

 すると、誰もいない筈の仏間からガタガタと物音がした。

 何事だろうと足を運んで、障子を開いて覗いてみると、薄暗い部屋の隅からキラリと光る眼が、照に向かって真っすぐに襲い掛かる。


「狼藉を働くとは、珍しいこと。どうしました? 山吹。何か御用なのかしら」


 照は飛び掛かって来たトラ猫の山吹を抱きとめ、撫でながら優しく告げていると、カタリと仏壇から音がして、初次郎の位牌が斜めに傾いた。

 山吹はさっと畳におり、尻尾をぴんと立ててにゃーんと甘く鳴き声をあげた。

 照は驚く様子もなく、柔和な優しい表情を浮かべて、仏壇へと向かった。


「旦那様。彼岸に渡られているというのに、相も変わらず器用ですこと。もしかしてあの子たちに何かあって報せようとしているのでしょうか。もし、そうなのであれば、そんな悠長なことはせず、すぐさまあの子達の許へと向かい、助けてあげて下さいませ」


 照はそう言うと位牌を元に戻し手を合わせた。

 そして、山吹に向かって、


「山吹、貴女にもお願いしますね。お市達に何かあれば手助けを是非にも」


 と、真顔でお願いをする照に、にゃーんにゃっ、と分かったかのように愛想のいい返事と顔をする山吹であった。

 照にしか見せない甘えた顔である。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る