第11話 あふれ出す哀しみに添えるもの
一行は賑やかな通り沿いから、少し奥まった処で、古びて苔むしてはいるがそれが味わい深く、趣のある風情となっている石段を上がった処に在る、安楽豊屋と大きな看板を掲げた旅籠の前にいた。
「こちらが皆さまの逗留先で、件の方が営まれていらっしゃいます、お宿でございます」
古びた旅籠だと聞き及んでいたのだが、外板はピカピカに磨き上げられ、ピンッと張られた障子紙は真っ白で、古ぼけたところなぞぱっと見ても見当たらない。通りに面した店の間の板張りなぞ、顔が映り込むほどである。
実にまめまめしく、手の行き届いているのが、外観からして一瞥できる宿である。
辰吉が宿を見あげながらぽつりと呟いた。
「お豊姐さんらしい。まんまの宿構えだ」
お市は、豪快な安兵衛親分の傍で、にこやかに明るく笑って、あれこれ面倒を看てくれたお豊を思い出していた。
「凄いなあ。この短期間で、こんなに立派な宿を、用意できることが凄い」
感心する藤次郎に、辰吉が、
「今、草津は幕府直轄の天領となって、活気を取り戻すどころか、盛況この上無しだ。湯守り様のご厚情で、居抜きでまるまんま借り受けることは、別に珍しい事じゃあない。尤も、此処まで仕上げているのには、舌を巻くけどな」
と教えて、お市はお豊を思い描きつつ、
「あんなに強くて優しいお人だもの。哀しみの渦中であっても、これ程までにやってのけるのね。凄いお人」
感慨深げに呟く。
それぞれの胸に様々な想いが浮かんで過ぎっていく。
お市は遠い眼をしたまま口の端を噛み、藤次郎は、お豊に何と声を掛ければいいのかを思案し言葉も少なく、お福に至っては、表構えを見ただけで、「嗚呼」と一声上げると涙ぐんでいた。
辰吉だけがいつもと変わらない。
「皆様、此方で御座います」
清七が遠慮がちに、皆を呼び込んだ。
一呼吸整えるまで待ってくれていたのだ。
辰吉が、「有難う」とすれ違いざまに礼を言い、それに静かにお辞儀する清七をお市はぼんやりと見ていた。
磨き上げられた店の間に、上等な藺草で編まれた円座が敷かれて、お福とお市、藤次郎が揃って、鎮座ましまして待っていた。
こんなものは勿体無いと固辞したのだが、暫く待たしてしまうのだから、女将さんと安兵衛親分の顔を立てると思って使ってくれと白髪頭の番頭さんに、平身低頭頼み込まれ、座っている次第である。
廊下には行き交う女中や手代の、元気のいい声が響いていた。
お市は、店の人たちを見て、
(へえ、此処はいいお宿だ)
と活き活きしている皆を見て素直に思っていた。
そうこうしている内に、清七が髪に白いものが増えたお豊を伴ってやって来た。
安兵衛親分の、あの悲惨な出来事から、まだ一月と半ばほどしか経っていないのに、着物の裾は端折らず、帯も皺など無く、ピシッと音が聞こえそうなくらい、寸分の隙も無くキッチリと着こなして、やつれた悲愴感なぞ入り込む余地なぞ無さそうである。
「皆様。この度は態々のお運び、誠に有難うございます。皆様のご温情に、私も含めまして、一同皆、感謝に絶えません。重ね重ね誠に有難うございます」
お豊がついと手を揃えて、力強くたおやかに、頭を垂れた。
お福が涙をこらえながら、其処は矢張り大椛の若女将である。しっかりと、真心を込めて言葉を返した。
「丁寧な御言葉、誠に有難うございます。こちらこそ、先に御挨拶をするが礼儀のところ、不調法この上なく、またこの度の一件、何が無くとも、すぐさま駆け付けねばならぬ処を後背を期し、何卒ご勘弁下さい。遅れて駆け付けたからには、しっかりと色々お手伝いをさせて頂きますので、齢の離れた妹だと思って、気軽に福と御呼び付け下さいませ。豊さま」
「お気持ち確かに此処に頂戴しました。有難う。じゃあ、あたしの事も豊と呼んでくれないとね。お福さん」
お豊は胸に手を当てて、凛として咲く花の如く、佇まいが、雰囲気が、実に輝いて、哀しみを押し負かしていた。
おおらかに何もかも包み込んでいる様な笑みに、お市は、観音様の笑顔を見たような気がしていた。
湯守りの手代、清七が口を開いた。
「全くの他人の手前から見ましても、御二方にはどことなく似通った雰囲気がある様に思われます」
お豊は、それを聞きつけて、
「清七さん。こんなに綺麗なお福さんとあたしが似ているって、お福さんに失礼だよ。でもまあ、月とスッポンでも、年の離れた姉妹って事にしておくれ」
ニコリと愛嬌よく微笑んだ。
皆がクスリと笑う。
お福は嬉しそうに、お豊に声をかけた。
「実は私、男兄弟しか居らず、姉妹には憧れが御座いました。図々しいかも知れませんが、お豊姉様と御呼びしてもよろしいでしょうか」
「図々しいのはあたしの方。今の言葉を聴いて、嬉しくってしょうがないもの。鬼瓦みたいなあたしに、こんなに美人で気立てのいい妹が出来るだなんて。お月様が妹のようなものねぇ」
明るく笑うお豊につられて皆が笑う。
思いの外、とても明るい雰囲気に、藤次郎がどう言うかと頭を捻って居たその時、お市が口を開いた。
「お豊叔母様。これから暫くと言わず、叔母様の愛想が尽きるまで、宜しくお願い致します。思慮の足りない小娘に色々教えてくださいな」
何時ものお市の明るい声が弾む。
表裏等元々有りはしないお市である。
その言葉は素直に皆の心の奥に届く。
藤次郎が思う姉の人徳である。
「嫌だよ。アタシにこんなに可愛らしい姪っ子が出来るだなんて。トンビに油揚げだよね。あっ、其れでは攫われてしまうわね」
皆に聞こえる様に大きな声で云うものだから、廊下に行き来している、店の者達からも失笑が零れて来る。
あれ程の凶事に巻き込まれた後にも関わらず、皆の顔には、子気味良い快活さすら感じ取れるほどだ。
お市はふと考えた。
あたしだったら、どうなるだろう。大切な人を亡くしたら、泣いて泣いて泣いて……。
おじいの時のあたしはどうしようも無かった。
お市は大好きだったおじいの初次郎が彼岸に渡ってしまった時を思い出した。
今から四年前、お市が十になった年の正月に呆気なく逝ってしまったのだった。
唐突過ぎるくらい唐突であり、心の準備なぞだれも出来てはおらず、おつかわし屋は家の中の火が全て絶えきってしまったかのように、冷えて静まり返ってしまった。
お市も悲しみの余り、覚えていない事が多く、曖昧な記憶と言っても良いくらいだ。
悲しすぎると忘れてしまう事も多い。
そんな中、鮮明に覚えている事が一つある。
物には、とんと無頓着で執心することなど無かった初次郎が、唯一大事にしていた笑う河童の掛け軸があり、それをを見ようと飾ってある客間へと足を運んだ折り、部屋の中から、何かの幽かな鳴き声のようなものが聞こえて来た。
何なのだろうと、障子を薄っすらとずらして、隙間から覗いてみると、祖母の照が、哀しみに溢れた静寂の中に、ポツンと一人で座り込んでいたのだ。
強くてしっかりしていて家の要の様な照の、空虚で弱弱しい姿を今でもよく覚えている。
これから幾年重ねようとも、生涯忘れえぬ出来事であろう。
大切な人を亡くす痛み。
ぽっかりと何もかも吞み込んでしまう、心に開いた大きな穴。
お市は葬儀の後、その穴に飲み込まれ、皆を置き去りにして、独りで悲しみに耽ってしまっていた。
其の事で皆にどれだけ心配をかけ、迷惑をかけた事か。
未熟な自分は当然だとしても、敬愛する祖母の照ですら、生涯忘れ得ぬ表情を浮かべる程、悲しみに囚われていたのだ。
しかし、お豊は違う。
自らの悲しみを外へ締め出し、背筋をしゃっきりと伸ばし、笑顔さえ浮かべる、お豊のその胸の内は如何ばかりであろうか。
こんな立派なお宿を、切り盛りするだなんて。お宿のあんらくほうってどんな意味なのかしら。
温泉宿「安楽豊」
安楽で豊って、ううん、違う。安兵衛さんが楽しいかな、いいえ、安兵衛さんへ楽しかったって、お豊さんが伝えているのかも。
お市は気付いた。
安兵衛の霊を慰め、彼岸に渡った亭主に心配をさせない為の宿だという事に。
人の為に在り、人に尽くす哀しみの在り様。
嗚呼、矢張り、お豊さんは深い、心が奥深い。
自分の哀しみすら人の為にしてしまう御方なのだ。
気付いてしまったお市は、お豊の哀しみに、囚われ組み敷かれ、胸が潰れそうで、気持を振り解くべく、眼を閉じた。
すると、余計に思いがしんしんと響いてくる。
どうしようも無く、哀しくて、切なくて、収まりのつかない笑顔の裏側にある想いが滔々と心の中に溢れて来る。
お市は、とうとう、我慢出来なくなってしまい、はらはらと涙を流した。
笑いさえ聞こえるその場所で、円らな瞳から唐突に零れはじめる涙。
泣いてはいけないと必死に堪え、我慢しきれずに零れてしまったお市の涙は、優しさに包んだ知らぬふりを、何よりも雄弁に否定して皆の胸を強く打った。
止めようとするお福に、お豊はそのままにと頷いて、お市に静かに語り始めた。
「私のために、ここに居る皆の為に泣いてくれてありがとう。可愛い私の姪子。でも大丈夫。悲しんでばかりじゃあ、彼岸に渡ってしまったうちの亭主にこってりと怒られるし、誰も得せず、喜びもしない。だったら、ですよ。仕事にでも打ち込んで少しでも、皆に笑顔の華でも咲かせてみようかなと」
浮かべる笑顔の裏に、強がりでも何でもない、深くて大きい哀しみに強く立ち向かう心意気を感じた。
お福はその姿勢に大いに感動し、当のお市は己の浅はかさと至らなさに、言葉を見失って、声も出せずに更に泣いていた。
藤次郎は、身じろぎの一つすら出来ない。
静かな哀しみが皆を覆い尽くし、随分と長い刹那の時が流れ、その静寂を破るべく、辰吉が口を開いた。
「流石は働き者の姐さんだな。始めてまだ間もないというのに、こんなにも繁盛させて、遣り手にも程がある。直にここに蔵を立ててしまうような勢いだ」
辰吉は悪びれる様子もなく、言い放つ。お豊もそれに負けじと応酬した。
「辰さん。何言っておいでなのか。そんなものでは足りやしませんよ。三途の川の向こう側で羨ましがるような、立派な蔵を三つくらいは建てましょう。草葉の陰であの人が枕高くして寝て居られる様に。ねえ」
そう笑うお豊の眦に、零れる一筋の光があった。
「皆様。折角のお越しに、お墓は此処には御座いませんし、無様な仏壇のみではございますが、手を合わせて頂けるだけで、あの人も……喜んでくれますので……」
お豊の声が震えはじめた。
そこに辰吉がぱんっと膝を叩くと、
「姐さん。喉も乾いたし、久々に姐さんの手ずから淹れた梅干し茶が飲みたいねえ。ちょいと一緒に行きましょう。若女将、お嬢、藤坊。先に手を合わせておいておくんなさい」
辰吉はそう言い残すと、肩が震えはじめたお豊を部屋の外へと連れ出した。
清七は優しい眼差しで見送った後率先して、奥にある仏壇に手を合わせると、沈痛な面持ちで話した。
「皆様。女将さんもああ仰っておりますし、私からもお願い致します。色々な事情はご存知でしょうが、故人を訪ねて来られる方は、いらっしゃらないそうです。だからこそ、嬉しかったのでしょう。女将さんのあのような御姿は手前も初めて拝見しました」
ああ、この人は他人の痛みを己の痛みとできる人なんだなあ、とお市はぼんやりと眺めながらも、旨の奥からふつふつと湧き上がってくる熱いものに戸惑っていた。
これは何だろう?
考えている間に、お福に促され、涙を拭き拭き藤次郎と共に仏壇の前に正座した。
仏壇の中には、木彫りの観音菩薩が粗削りだが味のあるお顔で立っていらした。
腕の太さ位の柘植の材木に前半分だけが彫られており、後ろ半分はまだ掘り起こしている途中の安兵衛の彫りかけていた観音様だ。
丁寧に磨き抜かれた未完の観音様が、静かな微笑みを浮かべていた。
その仏様の前には、ほんのり桜色の小豆ご飯が丸く団子に握られて、供えられ、その横には、綺麗に切り揃えられ盛りつけられた沢庵と湯気の立ったお茶が添えられている。
お市は、まめまめしくお世話されている、仏様のお顔を眺めていて、気が付いた。
仏様のそのお顔は眉根やおでこが紛う事無き、お豊の顔とそっくりであったのだ。
安兵衛の照れた笑い顔を思い出すと、お市は突然、眩暈を起こした。
「嗚呼、嗚呼」
思いがとうとうと、心中から溢れ出て、止まらない。
熱い。頭の中も胸の奥も、とても熱い。
胸の奥に、どうしても消せない、良く判らない想いに戸惑いすら覚えていた。
(安兵衛さん、お豊さん。どうして……どうして……あんなに良い人達なのに)
沸き立ってくる思いが、色々な気持ちと入り混じり始めていた。
何なのだろう?
この感じは……大分前にも感じたことがあるような、そんな気がする。
表では、黒丸が遠吠えを始めた。お市の気持ちに繋がっているのだ。
アオが小さく嘶いて、逸る黒丸を諫めている。
いけない。この気配はいけない。
藤次郎は顔を上げた。
今のままだと、宜しくない。極めて宜しくない。早くお市を落ち着かせないと。
祖父が身罷った時と同じ、あの感じだ。
近くにいる鳥や獣がお市の気持ちと繋がり暴走してしまう、あの危険極まりない状態、獣奔りが起きてしまう。
アオや黒丸は普段からお市の側にいる。
其の為お市が少々取り乱しても、然程に強い影響は受けないが、たまたま近くにいた鳥獣はそうはいかない。
左腕にある獣の嚙み傷の跡を、さすりながら考えた。
この事は父も母もまだ知らないし、報せる訳には行かない。
姉さんを外に連れ出して、辰吉さんを直ぐに呼んで何とかしよう。
藤次郎が腰を上げかけたその時、清七が皆に声をかけた。
「皆様有難うございます。殊にお嬢様、誠に有難うございます」
静かな空気の中、場に沿う様に優しく告げながら清七は手を揃えて頭を下げた。
「お嬢様は、人様の痛みと悲しみを心の真っ芯で感じて、慟哭下さっている。哀しい出来事に怒って下さっている。生半可な人間に出来ることでは御座いません。心の根の何とありがたい事でしょう。このように想い慕われ、安兵衛様もお喜びになられるかと心より存じます」
お市は涙を零しながら、清七から沸き起こる爽やかな風の様なものを又感じていた。
(そうなのか。アタシ、怒っているんだ)
「お豊さんと湯守り差配に代わりまして、これこの通り、御礼を申し上げます。誠に有難うございます」
清七は、泣きじゃくるお市を思い遣ると共に、お市の戸惑いすら感じ入り、助け舟まで出してくれたのだ。
嗚呼。この人は……この男の人は何て爽やかな香りがするのだろう。
深々と手をつく清七の心根がお市の中に優しく響く。
お市は込み上げてくる苦しいような悲しいような不思議な想いが、拭い去られていくのを感じ、何時しか、気持ちもすっかり穏やかになっていた。
黒丸の遠吠えは止み、アオの嘶きも収まって、墨助も騒ぐのを止めている。
青ざめた顔色の藤次郎は人知れず小さく安堵の溜息をつくと同時に、お市の気持ちを見事におさめた清七を見据えた。
出逢って間もないというのに、姉のお市をほんの一言で落ち着かせるとは怖れ入る。
改めて見てみれば、中々どうしてしっかりした面構えをした男前ではないか。
藤次郎は調子よくそんな事を考えながら、何はともあれ、清七のお蔭でお市の力による獣の暴走という危難を脱したという事に、それは深く感謝していた。
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